東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ書6章1-5節「キリストにつくバプテスマ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/04/10

ローマ書6章1-5節「キリストにつくバプテスマ」

*** 4/10(水)祈祷会 説教概略 *** 

 十字架の死と復活を覚える時、そこにはキリストが私たちの代わりに死なれたという「代理贖罪」があります。私たちの代わりに罪のさばきを受け、そして私たちの「初穂」として、私たちを代表してよみがえられました。これは私たちの救いにとって最も重要なことです。しかし、十字架を覚える時、私たちはもう一つの大切な側面も心に刻む必要があります。


 それは、私たちが「キリストと一つにされている」ということです。ですから、私たちの代理・代表であるだけでなく、私たちはキリストとともに死んで、キリストとともに新しいいのちによみがえったという真理です。今日のみことばは、このキリストと一つにされていること「キリストにつくバプテスマ」について語られています。ご一緒にみことばから、この真理を教えられて参りましょう。

1  それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。 

 520節で、罪が増し加わるところに恵みも増し加わったと語られていました。自らの罪深さを受けとめている人ほど、赦しの恵みを大きく受け取れるという真理が確かにあります。 英国の神学者ロイド・ジョーンズも、本気で罪に泣く経験がないと救いの喜びも十分に得られないことを指摘しています。

 しかしながら、ここには別の疑問が生じてしまいますよね?
「それならば、恵みをもっと味わうために、私たちはもっと罪を犯した方がいいことにならないか?罪の中にとどまった方がいいのでは?」という疑問です。

 皆さんはどう思われるでしょうか。パウロはこれに対する答えを語っていますよね。2節で「決してそんなことはありません。」と。パウロはもちろん、罪の中にとどまることを明確に否定しています。冷静に考えて、聖書が罪を犯すように教えていないことは明らかです。このようなことは当然すぎて大前提なので、パウロはあえてそれ以上は説明していません。むしろここでは「別の大切な視点」を教えているのです。2節の後半。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。

 そもそもこの恵みを受けた者は、「罪に対しては死んだ者とされているのだ」と言うのです。罪に対して死んでいるので、罪の中ではまるで呼吸ができなくなるようであり、罪の中では生きていられない者とされていると言うのです。罪の中にとどまるかどうかなんて、そもそも悩まない問題だと。

 皆さん、水中で息を止めてどれぐらい耐えられますか。ごく短い時間しかできないでしょう。苦しいですよね。水中では長い時間呼吸自体ができないように、罪の中では私たちは霊的な呼吸が苦しくなり、そこにずっと留まることなどできないのです。そもそも、そこでは生きていけないと言うわけです。確かに私たちは、イエス様を信じて救いの恵みを受けてから、罪を憎む者へと変えられましたね。罪から離れたいと強く思う者とされました。主の赦しの平安を知ったからです。


 パウロは、3節以降で「バプテスマ」の意味を説くことによって、私たちがキリストと一つにされていることに目を向けさせます。

3  それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。 

「キリスト・イエスにつくバプテスマ」と語られていますね。バプテスマ(洗礼)には、「浸す」という意味がありますが、それはイエス様に完全に浸るようにして、一つとされることを意味しています。

 水のバプテスマを受ける時に学ぶ大切な真理は何でしょうか。水の洗礼には、キリストとともに死んで、キリストと一緒に新しいいのちによみがえるという大切な意味がありますよね。洗礼においてはそれがとても大事なことです。4-5節では、より詳しく語られています。

4  私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。
5  私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。

 つまり、私たちは「洗礼」によってキリストの死にあずかり、キリストとともに葬られたのです。もちろん、バプテスマそれ自体に改心させる力や、キリストとの関係をもたらす力があるという意味ではありません。洗礼式の時の水そのものに、特別な力があるのではありません。「バプテスマ(洗礼)」が意味を持つのは、それが生きた信仰と結びついた時です。儀式そのものに人を生まれ変わらせる力があるのではなく、実際にイエス様を信じて受け入れ、イエス様と霊的に一つにされることで、私たちは御霊の洗いを受け、新しくされるのですよね。ただ、パウロはそこにある意味を再確認することで、キリスト者が、何者とされているのかを明らかにしているのです。キリストにつく者、キリストと一つにされた者なのです。


 キリストと一つになっていることは、なぜ、そんなに重要なのでしょうか。それは4節のことばでは、「新しいいのち」に歩むために必要な事だからです。5節のことばでは「キリストの復活とも同じようになる」ためです。この点は、ニコデモという人物がなかなか理解できないことでした。「老人になった者たちが、どうやって新しく生まれることなんてできるのか」と、ニコデモは疑問を抱きました。イエス様は、御霊によって新しく生まれる「新生」ということを話されていたのです。新しく生まれたということは、古い自分は死んだのです。古いままなのに、「私は新しい!」というのはおかしいですよね。

第二コリント517にこうあります。

ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 私がキリストとともに死んで、ともに新しいいのちに生きる者となったことを覚えることが大切です。もう古い自分はすでに死んだのです。キリストとともに新しい者へと造り変えられたのです。だから、御霊に導かれる私たちは、罪の中にとどまろうとは思わないのです。思ってしまうのは、古い肉の自分の声です。その支配者はサタンです。

でも、新しくされた者は、キリストと一つなのです。キリストにつく者とされたのです。キリストの声に聴き従うことが重荷ではなく、喜びであり、幸せなのです。同じ第二コリントの515にはこうもありますね。 

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。 

私たちはもう自分のものではありません。キリストのものとされたのです。礼拝で歌った賛美曲にも「我らはキリストのもの」という曲がありましたね。キリストと同じいのちを共有する者となったのです。元々神のものでしたので、神のもとに立ち返ったとも言えます。ですから、イエス様によって救われてからは、罪とこの世のしもべとして生きるのではなく、イエス様を「わたしの主」として、イエス様とともに生きるのです

 皆さんは、自分の体を、自分の生活を、自分の人生を、いまだ「私の物」と思っていませんか。それは古い考えです。私たちはキリストのものとされたのです。主につく者とされたのです。私たちはキリストのものなのです。もはや、私のために死んでよみがえった方のために生き、生かされているのです。

 ですから、私たちのからだを生きた供え物として、主にささげませんか。あなたの手のわざを主のために、あなたの歩む足を主の道に。あなたの賜物を悪魔の道具とせず、神のしもべとして用いましょう。趣味にしても、遊びにしても、あなたの欲を喜ばせるためではなく、主にあって楽しみ喜び、そうして主の栄光を現したいのです。自分のためだけの人生ほどむなしく、何も残らないものはありません。永遠に残るものはすべて、キリストのうちにあるのです。


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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