東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヨハネの福音書4章27~38節「目を上げて畑を見よう」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/04/15

ヨハネの福音書4章27~38節「目を上げて畑を見よう」

*** 4/14(日)主日礼拝 説教概略 ***

 今年度の年間聖句としてヨハネ435節のみことばを選ばせていただきました(週報に掲載されています)。早いもので、この会堂が建ち5年が経ちました。新しい環境に慣れることを大事にして、この5年間は地固めのような意識でおりました。しかし、いつまでも地固めで、下ばかり見ているわけにはいきませんよね。主が、「目を上げて畑を見なさい」と言われているのです。

 自分たちの教会のこと、自分たちの生活のこと、それらは大切なものです。
 けれども、もっと大切なことがあります。
 イエス様は言われました。

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。(マタイ16:26 
 
 この「いのち」とは、肉体のいのちではありません。イエス様を信じて得られる永遠のいのち、まことのいのちです。フランシスコ・ザビエルが出世コースを後にして、一介の伝道者として導かれたみことばです。

 会堂が立派であったとしても、人が大勢集まっても、どれだけ社会貢献していても、まことのいのちに生きていないのなら、何になるのかと問われます。死ぬほど勉強して優秀な成績を得ても、ビジネスで大成功しても、人のいのちのため、人の本当の幸せのためにならないなら、むなしいのです。せっかく学び、努力しているならば、この真のいのちのため、本当の笑顔のために役に立ちたいと思いませんか。それでこそ苦労して良かった!と思えるんじゃないでしょうか。

 私はお恥ずかしながら、ユースキャンプの働きをし始めた頃、「なんでこんな面倒で大変なことをしなきゃいけないのか」と思ったことがありました。当時の私からすると中高生は宇宙人。得体の知れない面倒と思う相手でした。それでも、「キャンプに来て良かった」、「イエス様の愛が分かった」と涙する彼らを見て、このために労しているのだと励まされました。イエス様は私たちの目を、見るべきものに向けさせ、より大切なことのために労するよう人生の意味を教えてくれます。主の声に聴き、目を上げて参りましょう。

 

1.弟子たちの関心事  


 イエス様の弟子たちの関心はどこにあったのでしょうか。イエス様の弟子ですから、イエス様と同様な関心を持ち、そのために一心不乱に励んでいたのでしょうか。残念ながら全然違いました。それで27節のような反応をしているのです。

27 そのとき、弟子たちが戻って来て、イエスが女の人と話しておられるのを見て驚いた。だが、「何をお求めですか」「なぜ彼女と話しておられるのですか」と言う人はだれもいなかった。

 イエス様はここで、一人のサマリア人女性に話しかけていました。この女性がこれまで、5度も離婚し今6人目の男性と暮らしてることも知っていました。罪深い女性です。甲斐性なく失敗を繰り返してきた女性です。

 けれども、イエス様はこの女性に愛を持って語りかけ、彼女の心を開こうと願ったのです。そこに、食料調達から帰ってきた弟子たちが来ました。もし、彼らが本当の意味でイエス様の弟子ならば、イエス様が何を求めて彼女と話しているのかを察したでしょう。あるいは、なぜ彼女と話しているのか、質問したでしょう。

 そして、「何か手伝えることはあるだろうか」と考えたはずです!ところが、まるでそうではないのです。イエス様の意図には誰も気づかず、聴こうともしないのです。むしろ、全く別のことに関心があるので、彼らは驚いたのです。

 「女の人」とありますが、原語では冠詞がありません。その意味としては「女性という存在」という意味になります。つまり、弟子たちはイエス様が「女なんかと話してる!」という見方をして驚いたのです(あえて差別的な表現でお伝えしています)。その女性」の人格には関心を持たずに・・・です。

 なぜなら、当時のユダヤ人社会では、教師が公の場で女性と気軽に話すことは非常識であったからです。それで驚き、不信にさえ思ったことでしょう。ですから、その女性がどういう生い立ちで、どういう苦労をしてきたのか、今どんな状況なのか・・・そこには関心が向いていないのです。彼女を心配もせず、彼女を知ろうとも思っていません。イエス様のお心にも関心が向かず、自分たちの歪んだ常識に合致しているかに関心がありました。

 私たちもどこを見ているのかと問われますよね。

 弟子たちは人の救い、人のいのちという霊的なことに無関心でした。それで弟子たちは、このサマリア人女性が町に戻り、人々にキリストとの出会いを広めている時、全く別のどうでもよい話をしているのです。31節です。

31 その間、弟子たちはイエスに「先生、食事をしてください」と勧めていた。 

 「その間」とは、どの間でしょう?この罪深いサマリア人女性が、たくさんの人々にイエス様のことを広めている間です。この女性、素晴らしいと思いません?過去に結婚で何度も失敗し、人からの評価は最悪評価でしょう。でも、イエス様と出会い感動し、すぐにイエス様のことを伝え始めています。誰とも交流しないような人だったのに!!弟子たちが見下すような罪深い女性が、その弟子たちよりはるかに神のみこころに励んでいることになります。皮肉ですね。

 その間、弟子たちの目は一体何を見ていたのでしょうか。節穴中の節穴です。彼らは、ご飯の話をしているのです。イエス様がお気に召す食べ物は何だろうかと。もっと言うなら自分たちの「地位」のことです。イエス様に気に入ってもらい高い地位を得るために、「先生、食事をしてください」調達してきた食べ物を熱心に勧めているのです

 イエス様が「ご馳走を持って来い!珍味を持って来い!」そんな風な方だったら、誰もついて行きませんよね。他の偉ぶっている教師たちと同じに考えてはなりません。

 他の聖書箇所でも、弟子たちは事あるごとに誰が一番偉いのかと議論していましたよね。イエス様が王となる時、その隣に座らせて欲しいと求めていたのです。なんと「情けない弟子たちの姿」でしょうか。ヨハネはそういう意図をもって、この書を書いているのでしょう(自分も含めながら)。

 

2.イエス様の喜ばれる食べもの  


 イエス様は、弟子たちの関心事が、この世のこと、自分中心のものであることに気づいていたのです。そこで言われたのです。

32 ところが、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」 

 弟子たちにもっと大事なことに目を向けさせようと、全く別次元の食べ物があると言われました。ただ、弟子たちの反応は、やはりズレています。 

33 そこで、弟子たちは互いに言った。「だれかが食べる物を持って来たのだろうか。」 

「先を越された!誰か他のやつがイエス様に取り入ろうとして、美味しい珍味を差し入れたのかもしれない!」と。そのような目で見ていたのでしょう。
 このように分からないでいる弟子たちに、イエス様は丁寧に教えてくださいました。私たちも主イエス様の優しい説き明かしに、しっかりと心を開きたいと思います。

34 イエスは彼らに言われた。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。 

 イエス様が好まれる食べ物とは、「神のみこころを行い、成し遂げること」でした。イエス様が三度の飯よりも大事にしていたこと、大好物は、弟子たちが隣人を愛し、その人々のいのちのために献身する姿勢でした

 イエス様はひとりの傷ついた孤独な女性に関心を持ちました。それが弟子たちに対する模範です。彼女はとても罪深い歩みをしてきたし、多くの失敗をしてきた。人目を避けて生活し、友人もいない生活でしょう。孤独です。自信も持てなかったでしょう。

 でも、求めていたのです。本当の愛を。本当の救いを。

 イエス様は彼女の中に、その飢え渇きを見つけたのですそして、弟子たちにもそこに目を向けて欲しかったのです。そこに立って欲しかったはずです!でも、弟子たちはイエス様のことも理解できていません。イエス様を食べ物で釣ろうなんて!!ヨハネはこの書を記す時、きっと恥じたでしょう。「自分たちはなんて愚かだったのだろう」と。霊的に盲目な自分たち、未熟な自分たち。ご飯のことばかり。差別と偏見に満ちた世的な常識に囚われてばかり。イエス様のことも、飢え渇いている人のことも、何も見れていない。それでよくイエス様の隣の座に着かせて欲しいなどと言ったものだと。

しかし、私たちも他人事ではないでしょう。私たちは何を見ているでしょうか。どこを見ているでしょうか。

救われてここにいるのは何のためでしょうか。この会堂が与えられたのは何のためでしょうか。問われます。もっと多くの絶望している人に福音が届けられる必要があるのではないでしょうか。あなたが苦しんできたのは何のためでしょうか。試練を乗り越えさせていただけたのは何のためでしょうか。自分だけが良ければそれでいいのでしょうか。人々の痛みに寄り添い、人々を励まし助けるためでしょう。人のいのちのために労することができるように、信仰を主は与えてくださった。人にいのちをもたらすために、試練を乗り越えさせてくださったのでしょう。

 

3.目あげて畑を見なさい  


 イエス様は自分の身の回りばかりを世的に見ている弟子たちに言いました。「目を上げて畑を見なさい」と。あなたの前には、今日生きることも困難な、まことの食べ物がなくて、飢えている人々がいるではないか?求めている人々がいるではないか?

収穫に例えて話しています。

35節 あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。 

 まだ時ではないと言い訳を続ける私たちです。私はまだ聖書を良く知らないので。まだチャンスがないので。でも、主は言われます。「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」と。

主はもう、みわざを始めておられます。私たちがこの世の食べ物にことに心を奪われている最中に。「あなたは、一体どこを見ているのか」と問われます。私たちは自分の傷を見つめているとかえって、その傷に囚われます。自分の苦しさを見つめていると苦しみが増すのです。でも、他の人に目を向けませんか。より痛んでいる人がいます。同じように悩み苦しむ人がいます。望みも平安もなくうめいている人がいます。

 この群れも、この会堂にいつまでも満足して浸っている場合ではないでしょう。自分たちが安定して過ごせるから、もう十分だ、今が程良いとあぐらをかいている場合ではないでしょう。飢え渇き、苦しみながら求め、もがいている方々がいます。さっさと教会債を返済し、さらにそれぞれが成長し、一人でも多くの方にこの素晴らしい福音を伝えていきませんか。


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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