2019/11/03
神に近づく道
その全焼のささげ物の頭に手を置く。それがその人のための宥(なだ)めとなり、彼は受け入れられる。(レビ記1:4)
実はレビ記の本来のタイトルは「レビ記」ではなく、「そして彼は呼んだ」というヘブル語一語とされています。
出エジプト記の最後で幕屋が完成しましたが、神の栄光が満ちておりモーセは中に入れませんでした。
それで、レビ記の最初ではその幕屋から主なる神がモーセに呼びかけ語ってくださったのです。
いつでも神の招きが先にあり、招かれて初めて私たちは神のもとへと近づくことができるということを教えられます。
ここで語られたことは、幕屋でどのようにして神礼拝をなすのかということでした。
神に受け入れられる道筋が教えられているのです。
礼拝の初めに「招きのことば(招詞)」というものが読まれます。
それは、神がまず私たちを御前に召してくださるということであり、それなしには礼拝をささげることすらできない私たちなのです。
圧倒的な聖、輝かしい栄光の前に、人は本来そのままの姿で神に近づけば自ら滅ぶことになります。しかし、神が備えられた道、すなわち罪のきよめのささげ物を通して神のあわれみのうちに受け入れられていくのです。
罪ある人間が滅びずに聖なる神に受け入れられるために、動物のささげ物の頭の上に手を置いて祈ることを主は教えておられます。傷のない動物が選ばれ、私たち罪ある人間の身代わりとしてささげられるのです。
これはまさに神の子羊イエス・キリストの雛型(ひながた)です。
神が聖なる方であるように、私たちもキリストの十字架の贖いによって罪赦され、聖なる者とされて神に大胆に近づけるようにされたのです。
このために神が払われた尊い犠牲に感謝します。