東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: レビ記4章1-12節「罪のきよめのささげ物」

聖書

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)

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2020/02/17

レビ記4章1-12節「罪のきよめのささげ物」


レビ記4章1-12節「罪のきよめのささげ物」


罪のきよめに必要だった「ささげ物の教え」から学びます。
前回もお話ししましたが、ここに語られている儀式自体は、すでにキリストの十字架に取って代わられたものであって、現代の私たちがするものではありません。

また、これだけ読むと表面的には難しいと感じるものかも知れませんが、その奥にある神様のご計画をよく味わい、ここにある宝物を一緒に発見していきましょう。

今日はおもに12節までの部分から教えられます。それは祭司が罪を犯した場合のささげ物の規定です。その後の13節からは「会衆全体が迷い出て罪を犯した場合」、22節では「族長が罪を犯した場合」、27節では「個人で」というように分類されています。ほぼ内容は共通ですが、ささげる動物が少し異なります。それは置かれている立場や経済的事情への配慮であり、神様のきめ細かい気遣いを感じることができます。


1. 祭司も罪のささげ物をまずささげる

 祭司は人のためにとりなし、贖いの儀式をすべき人です。ところが聖書は、真っ先に祭司の罪のささげ物について取り扱っているのです。

3節 油注がれた祭司が罪に陥って、民が責めを覚える場合には、その祭司は自分が陥った罪のために、傷のない若い雄牛を罪のきよめのささげ物として主に献げる。 

祭司の規定が真っ先に語られていることには意味があります。祭司といえどもごく普通の人間から選ばれます。やはり罪を犯すのです。聖書が語るように人は生まれながらにして罪人であり、神の前に完璧な義人は一人もいません。ですから、まず祭司から罪のきよめがなされる必要がありました。

しかし、こうして祭司自らが真っ先に自分の罪を覚えてささげ物をすることは、祭司自身も他の人々と同様の弱さをまとっているとの自覚に至り、弱いひとりひとりを思いやる事ができると言えます。

ヘブル5:2-3 大祭司は自分自身も弱さを身にまとっているので、無知で迷っている人々に優しく接することができます。また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のゆえにささげ物を献げなければなりません。 

現代の牧師も同様です。自分を正しいとし、他の人にのみ悔い改めを迫るようではあわれみの心など持てないでしょう。
誰かが罪に陥っているのならば、まず先に自分はどうだろうか?と顧みなければなりません。自分にも罪があることを自覚した上で、ともに祈っていくものです。

私もしばしば、気が付かないうちに上から目線で人をさばいてしまう事があります。私が教えてあげなければ、私が指導してあげなければ・・・この傲慢さは人を助けるどころか、人を倒れさせてしまいますよね

祭司こそ、真っ先に自身の罪に涙し、そのために犠牲がささげられていることを真摯に受け止めなければならないのです。

しかも、祭司の場合には民全体の罪の時と同じ「雄牛」の犠牲がささげられるのでした。つまりそれは、民全体が罪を犯したのと同等の犠牲ですから、祭司の罪の影響の大きさを意識させられます。祭司は他の人以上に、自分の罪深さを受け止め、誰よりも謙遜にならなければならないと言えます。

私は教会において牧師だけでなく、信徒の中からも主事や長老といった霊的指導者が増えていくことを期待しています。でも、その働きに就く人に求められることは、まさにこの事です。能力ではありません。

誰よりも自らの罪に涙し悔い改められる人、謙虚に人々の弱さに寄り添える人であることです。そうでなければ、人の心は開かれないですよね。

2. 罪の赦しのために血が流された

 さて、「罪のきよめのささげ物」の最大の特徴についてお話します。それは、動物の血の取り扱いにありました。「罪の赦しのためには、血による贖いがなされる必要がある」のです。
5-7節 5 その油注がれた祭司はその雄牛の血を取り、それを会見の天幕に持って入る。
6 その祭司は指を血に浸し、主の前で、聖所の垂れ幕に向けてその血を七度振りまく。7 祭司はその血を、会見の天幕の中にある、主の前にある香り高い香の祭壇の四隅の角に塗り、その雄牛の血をすべて、会見の天幕の入り口にある全焼のささげ物の祭壇の土台に流す。

交わりのささげ物等とは違い、会見の天幕の中に血を持って入りました。その血は神の臨在される至聖所の垂れ幕に七度振りまかれました。神様と人とを仕切る垂れ幕です。この血できよめられることなしに、神様との親しい交わりが回復することはありません。

人のうちにある罪が、神様との親しい交わりを傷つけたのです。その回復のためにこれがなされました。同様に天幕の中にある、「香り祭壇」の四隅にも塗られました。香りの祭壇は、神へのかぐわしい香り=祈りや賛美を象徴します。

キリストの十字架の血潮なしには、祈りも賛美も主に受け入れられるものとはならないということです。どんなに良い歌詞であっても、私たちがキリストにあってそれを歌うのでなければ、この世の歌で終わってしまうのです。

さらに、7節の終わりではこれらの血は祭壇の土台に流すとあります。ひたすらに動物の血を用いるわけです。罪深い自分の代わりに動物のいのちが注がれているのだという思いが強まりますよね。

これほどの犠牲がありましたが、これらはキリストの登場によって終わりを告げます。

ヘブ7:27 イエスは、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のために、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。イエスは自分自身を献げ、ただ一度でそのことを成し遂げられたからです。 


先ほどお話したように、祭司は「まず自分の罪のために」ささげるのです。

そして、毎日毎日、何度も繰り返されていた動物のいけにえ。それがもう終わりを告げた理由がこれです。

神の子キリストの血の重みを感じますね。数えきれないほどの動物の犠牲、大量の血が流され続けた歴史が、たった一人のたった一度の犠牲で完全にされるのですから。

私が神学生の頃の話です。一緒に同じ地区で奉仕していた先輩の神学生がいました。中高生JYキャンプで一緒に劇をしました。キャンプファイヤーのプログラム中にキリストの十字架の劇でした。その先輩がアドリブでこんな内容のことを言いました。

「イエス様が十字架で死んでくださって感謝!ということは!これまで動物の犠牲を何度も何度もささげてきたが、もう動物の犠牲をささげなくていいのか!なんとありがたい!」といったセリフです。

「私の罪のためにありがとう!イエス様!」で済みそうな場面なのに、わざわざいけにえの説明を加えていました。

「中高生向けの劇でわざわざその長い説明をつけるのか?中高生わかるんだろうか?」と突っ込みたくなりましたが、彼なりに十字架の重みを伝えたかったのだと思います。

確かにこれらの教えを学ぶときに、私たちは罪の赦しというものを重みをもって知ることができるのではないでしょうか。他人事ではなく、私たちの罪がイエス様を十字架につけたと受け止めたいのです。

MEBIGという子ども伝道の働きから生まれた賛美があります。そこに参加していた子の詩を賛美にしたものらしいです。
「ぼくこそ十字架のくぎ あなたの手に傷をつけた 十字架のくぎ  ぼくこそ十字架のくぎ あなたの足に傷をつけた 十字架のくぎ あなたを傷つけ 傷つけ 傷つけ Ah Ah  ぼくこそ十字架のくぎ あなたのすべて 傷つけた その傷 救い」

3. キリストについて行く

今日教えられる3つめのことは、キリストについて行くということです

12節 すなわちその雄牛の残りすべてを、宿営の外のきよい所、すなわち灰捨て場に運び出し、薪の火で焼く。これは灰捨て場で焼かれる。

この罪のきよめのささげ物は、その血を幕屋の中に持って入りましたが、その雄牛の体の部分は宿営の外のきよい場所で処分されました。これはキリストがイスラエルから見捨てられ、拒まれることにご自分から従われた姿を示します。イエス様はエルサレムの囲いの中ではなく、囲いの外で十字架に磔にされました

 なぜでしょう?イスラエルの民にとって宿営の中こそ聖なる場であり、外は汚れた場所という理解がありました。エルサレムの中が聖なる場所で、エルサレムの城壁の外は汚れた場所という考え方です。

イエス様は罪ある者・汚れた者として、外に捨てられたということです。

まことの王なのに、聖なる方なのに、エルサレムの中にイエス様の居場所はありませんでした。

しかし、不思議なことに、汚れた場所に捨てられたのにも関わらず、イエス様の十字架こそ罪のきよめを成し遂げた聖なる場所となったのです。ヘブル人への手紙は、このことを説き明かしています。

ヘブ13:11-13  11 動物の血は、罪のきよめのささげ物として、大祭司によって聖所の中に持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるのです。12 それでイエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました13 ですから私たちは、イエスの辱めを身に負い、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。

 イエス様がおられるところ、神のみわざがなされる場こそが聖なる場所です。居心地の良い罪のたまり場から出て、イエス様にこそついて行きましょう。

イエス様とあなたがいる場所が、新しい恵みの場になります。

ある姉妹のお父様が最近教会に来られる機会が増えました。
以前は全く興味を持たれていなかったのですが、最近は行く気満々だそうです。

そして、最近になってなぜ娘さんが教会に熱心に集うのか、自分にも分かるようになってきたとおっしゃったそうです。

しばしば私たちもキリストを信じるゆえに、批判されること反対されることがあります。お誘いしても拒まれることも多いでしょう。

でも、イエス様のおられるところ、みことばが語られるところ、愛の交わりがあるところ。この恵みの場に私たちが身を置く時、主イエス様に従って囲いの外に出ていく時・・・やがて批判していた人たちでさえそこに導かれて参ります。

先に出ていく者があるからこそ。証しがあるからこそです。
恐れずキリストについて行きましょう。

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