東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Who are you? あなたは何者か?
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/02/09

Who are you? あなたは何者か?

自分が何者であるのか?どういう存在なのか?知っているようで知らない私たちです。
なぜでしょうか?
人は自分の姿を見ることができないからではないでしょうか。
他の人の姿はよく見えます。でも、自分の表情や自分の立ち振る舞い、全体像。
それらは見えないのです。鏡や映像を通してしか自分が見えません。
最近は、そうしたことを考えると神様はあえて私たちをそのように造られたのではないかと思うのです。自分の力で自分を知りつくすことができない者です。そうなるとどうやって自分をより深く知るのでしょうか?


客観的に見てくれている他の人の存在によって、自分には見えない一面を知るのです。

他人から言われて、私ってそうなのか?と気づくことも少なからずありますよね。

でも、不十分です。

彼らは自分では見えない面を見てくれていますが、内面までは見抜けません。心を理解しきれないから誤解も生じます。中には何も知らないのに、不当に批判されたり、外見や一面的な部分で否定されたりすることもありますよね。偏見や恣意に満ちた指摘も少なくありません。だから不十分なのです。

それならば、どうやって私たちは自分のことを正確に知ることができるのでしょうか?
最終的にあなたが何者かということを正しく深く知るためには、自分の造り主であり、内面も外側もよく知るお方から教えられる必要があるのです。
神のみことばを通して、あなたは何者かをともに知る者となりましょう。


創1:26 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」
創 1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。 
 まず教えられることは「神のかたち」として造られたあなたであるということです。神に似た者、神にかたどられた者、神のかたちとして私たちは造られたのです。だから高価で尊いのです。神様が非常に「良いもの」として造られたので、最高に価値があるのは当然のことです。神様は失敗しませんし、最高のデザイナーなのですから。しかも、ご自身の性質に似せて、対等に交わりが出来る存在として造られたのですから。

なんという栄誉でしょうか。
それゆえに、この世界の管理をゆだねられている存在です。
われわれという表現は、父、御子、御霊の三位一体の神が互いに親しい愛の交わりで結ばれ一心同体となられている姿を現すと私は理解しています。
そして、光栄なことに「神のかたち」に造られた人間は、この三位一体の交わりに招かれていると言えるでしょう。愛の交わりを神となすことができる存在です。


さらに、神の創造のみわざは圧倒的です。
同じものが二つとありません。同じに見えるのに、厳密には同じでないということがすごいのです。
雪は一見全部同じに見えます。
けれど、その粒一つ一つを顕微鏡で見れば「雪の結晶」として、どれひとつ同じものがないと気づきます。人間とうさぎを区別できないということはないですよね?猿と人間も明確に違いますよね。でも、人間はみんな同じかと言うと、全員違いますよね。
「人間である」と区別できるのに、人間同士お互いに個性が豊かに存在します。
これこそ偶然ではなく、明確な神のデザインの現れです。
しかしながら、人は造り主を離れてしまいました。その教えを捨て、その愛を見失い、神のかたちの本来の恵みや輝きを失ってしまっているのです。
その原因が「罪」なのです。 
ロマ 3:23 すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、 
罪によって神の栄光を受けることを妨げられてしまっています。もったいない!

自分が何者かを考える時、神によって造られた「神のかたち」を出発点にしながらも、罪によって本来の輝きを失っている面があることを率直に認める必要があります。
事実、ウソをついたことがない人はいないでしょう。人を傷つけたことがいない人もいないでしょう。正しいとわかっていながら、正しいことができない私たちです。聖書はそれがあなたの罪だと教えます。
何より、造り主なる方を無視して、闇の中で罪を犯しごまかします。 
イザヤ29:15 わざわいだ。主に自分のはかりごとを深く隠す者たち。彼らは闇の中で事を行い、そして言う。「だれが私たちを見ているだろう。だれが私たちを知っているだろう」と。 
私は小学生の頃に親のお金を盗みました。棚に置いてあった小銭です。まさにこのみことばが私の姿です。「だれが私たちを見ているだろう」・・見ていないから大丈夫だ。その時はバレずに済みました。ただ、ずっと大人になっても心がチクチク痛みました。「良心」があるからです。これこそ「神のかたち」に造られた証拠です。だから、良心に反する罪を犯すと、痛み傷つくのです。
人々に見つからなければ大丈夫。ウソを通せば問題ない。
神を恐れることを失うと、人の前にごまかし通せれば何をしてもいいという闇の世界の住人になります。
それで不幸になるのは神様ではなく、私たち自身です。ですから、せっかく良いもので満ちていたのに、神の栄光あるかたちだったのに・・・この世界に悪が増大し、罪と不正と汚職にあふれ、格差は広がり、弱い者は踏みつけられています。
そして、この世界が悪いことを造り主のせいにします。造られた側の人間が造ってくれた神に向かって批判します。
イザヤ書 2916節 ああ、あなたがたは物を逆さに考えている。陶器師を粘土と同じに見なしてよいだろうか。造られた者がそれを造った者に「彼は私を造らなかった」と言い、陶器が陶器師に「彼にはわきまえがない」と言えるだろうか。 
私たちには最高のデザイナー・造り主なる神様がいることを知る必要があります。そして、私たち自身は造られた者であり、この造り主を離れて、見られていないから大丈夫と思い込みます。こうして闇に落ちていくことが、いかに不幸であるかを知る必要があります。
では、どうやって本来の輝きを取り戻すのでしょう?

 自身の闇を知り、神の愛に立ち返ることです。神様は、闇の中にいる私たちをすべて知っておられ、知った上でなお愛の中に招き続けておられます。 
マタイ5:45 父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。 
なぜ、神様はこうなさるのでしょうか?
それは罪があろうともその人を愛し、彼らにもう一度ご自分との交わりを回復して欲しいからです。
そして、その愛の最高潮は御子イエス・キリストを遣わし、人の身代わりとされたことです。 それほどに愛されている存在があなたです。
ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

神様は人にその不幸な状態のままいて欲しくありません。だから、救いの手を差し伸べ、ひとり子を与えられたのです。もはや滅びることがないために。

御子を信じる者は、神のかたちを回復するので、永遠の神の愛に安らぎ希望を告白して歩むことができます。
信じて救われた者はどのような者とされているのでしょうか?

Ⅰコリ 15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。 
これはかつて、クリスチャンを迫害していたパウロの告白です。
以前は迫害する者であり、罪のさばきの中にいた彼でした。滅んでも仕方がない者でした。クリスチャンを見つけては捕まえ、暴力を振るい、牢屋に入れていました。あのステパノという真面目なクリスチャンを一方的に迫害し、殺害した一味でありました。
けれど、彼はそんなにも罪深い行為をしたにも関わらず、神の恵みによって罪赦されました。赦されただけではなく、神の恵みを大いに受け、神の国の働きの最前線で労する立場を与えられたのです。
つまりキリストの十字架の恵みによって「今の私」=「恵みと祝福をあふれるほどに受けられる私」とされたのです。 
聖書には、キリストを信じた者が、神の恵みのゆえにどのような者とされているのかというテーマが多く語られ、様々なことばで伝えられています。
ロマ8:30-32 30 神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。 31 では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。 32 私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。 
ここだけでも、義と認められ、栄光を与えられ、神が味方となっておられ、御子とあらゆるものを与えていただける者とされ、それほどに愛されている者であることがわかります。
他の個所でも、信じたあなたは、神の子とされている。罪赦されている。聖なる者とされている。天に国籍を持つ者・天の相続者とされている。永遠のいのちを持つ者とされている。キリストの使節(大使)とされている。神との平和をいただいている。神の神殿・御霊の宮とされている。キリストの心を持つ者とされている。自由にされている。など、神の恵みによって与えられている立場がどれほど豊かなものかわかります。神の愛から引き離され、捨てられることなど決してないのです。


 あなたは自分のことを何によって知っているでしょうか?

 自分の思い込みでしょうか?人々のあなたに対する意見でしょうか。しかし、罪によって歪んだ自分や人々の意見の奴隷になってはいけません。他の人の意見、喜んで頂戴するといいでしょう。でも、それを決定的なものだと思ってはなりません。なぜなら、決定的な意見を言えるのは神様ただおひとりだからです。

 イザヤ41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

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