東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: レビ記6章8-13節「祭壇の火を燃え続けさせる」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/03/15

レビ記6章8-13節「祭壇の火を燃え続けさせる」

*** 3/15(日)主日礼拝 説教概略 ***
レビ記6章8-13節「祭壇の火を燃え続けさせる」

今日のみことばは、今の時ほど心に染る時はないように思えます。

祭壇の火を燃え続けさせること。

この火は消してはいけませんでした。


祭司が責任をもって、燃え続けさせるのです。この火が祭壇の上に絶えずあり、燃え続けている。それはイスラエルの民にとって、いつでも神様との交わりを覚えるものであり、神による救いの恵みがそこにあることを意識できる「目に見えるしるし」でありました。


私たちの信仰の火も消してはいけません。燃え続けさせる必要があります。

私たちが掲げるキリストの十字架も人々から見えなくしてはいけません。いつでも高く掲げ続ける必要があります。神の聖さにあずかる罪のゆるしときよめ。この福音の「炎」を燃え続けさせ、人々から見えるようにしていなければなりません。祭壇の火を消してはならないのです。

新型コロナウィルスの感染は拡大を続けています。WHOが「パンデミック」宣言を出しました。つまり、「世界規模での危険な感染症の流行」であると宣言したということです。

このような状況で、私たちは集まることについて制限の中にあり、時には反対の声もあるのではないかと意識しながら、それでも主のみことばがヘブル10:25「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。」と語っていることから、ともに集まっているのです。

ある姉妹が、先週は家から出ずにインターネットを用いての礼拝をささげました。それも確かに感謝な時であったと言われました。けれど「やっぱり教会に行って皆さんと礼拝したいです」とおっしゃられました。私はそのことばだけで、どれほど励まされたことでしょうか。

色々な判断があります。何か一つが正解ではないでしょう。集まっての礼拝を中止せざるを得ない方々もあり、他人事ではありません。祈らされます。

でも、できるうる限り私は皆さんに、祭壇の火がここで燃え続けていることをお見せしたいと思うのです。この祭壇の炎が消えないように燃やし続けることが、私の使命であると思っているのです。

そして、薪は1本ではあまり燃えません。長く燃えず、火も大きくなりません。

けれど小さな細い薪でも、ともに集まり合わされば大きな火となり、より長く燃えることができるのです。

本日は祭壇の火を燃え続けさせるとは、現代を生きる私たちにとってどういうことなのか。ともに教えられたいと思います。



1.祭壇の火を燃え続けさせる意義

6:9 「アロンとその子らに命じよ。全焼のささげ物についてのおしえは次のとおりである。全焼のささげ物そのものは、一晩中、朝まで祭壇の上の炉床にあるようにし、祭壇の火をそこで燃え続けさせる。 


今日の場面は再び「全焼のささげ物」の話に戻っています。「全焼のささげ物」自体の意味は「自分自身を献げる=献身」の意味がありました。イスラエルの民が神様に受け入れられるように動物の犠牲をささげます。まさに「礼拝」行為であったと言うことができます。


ただ、その時に大きな妨げになるものがあります。何でしょうか?


私たちのうちにある「罪」や「汚れ」です。


神様にささげる時、私たちのうちにある罪を神様は喜ばれませんし、それは受け取られませんよね。ですから、この罪を取り除くことが必要でした。


そこで、必要なのが「火」でありました。

聖書において火の一つの役割は罪を燃やし尽くす「きよめ」でありました。


マタイ3:11-12ではバプテスマのヨハネがキリストを指してこう言っています。開きましょう。「私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめられます。麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」


イエス様がもたらす炎によって「きよめ」がなされ、罪や汚れといった不要なものが燃やされます。キリストの十字架こそ、罪を焼き滅ぼす炎と言えるでしょう。


レビ記に戻りましょう。祭壇の上で燃え続ける「火」にはささげた者たちの罪や汚れを取り除き、神に受け入れられるものとする大切な働きがありました。

反対に、この炎なしには、罪や汚れを除かれることもなく、従って神に受け入れられるささげ物となることはできませんでした。


 それゆえ、この火は燃え続けさせるべきものとして命じられていたのです。12-13節

12 祭壇の火はそのまま燃え続けさせ、それを消してはならない。祭司は朝ごとに、その上に薪をくべ、その上に全焼のささげ物を整え、その上で交わりのいけにえの脂肪を焼いて煙にする。13 火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない。消してはならない。 


正直くどいと思えるほど強調して祭壇の火を燃え続けさせよと命じられています。祭司は朝も夜も、夜中もこれを見張り燃え続けるように心を割かなければなりませんでした。そう思うと私にはちょっと無理そうだなと思ってしまいます。けれど、それほど燃え続けさせることが大切だったのです。


なぜなら、常に祭壇の火が燃やされているということこそ、神の聖なる炎によって常に「きよめ」がなされているという「しるし」だったからです。いつでもそこに行けば「罪の赦しの救い」が確かにあるという「証し」だったからです。


人が自分の罪深さに押しつぶされ絶望しそうな時、神に見捨てられたのではないかと不安に思う時、この燃え続ける祭壇の炎を見るならば、ああ主は生きておられる!主は見捨てることなく絶えず私たちの罪と悪を滅ぼし、私たちを受け入れておられる!あそこに救いがある!と人々は意識することができたのです。






2.現代を生きる私たちにとって


 現代を生きる私たちはどうでしょうか?


「万人祭司」ということばが示すように、すべてのクリスチャンが祭司の役目を担っています。私たちが受けた救いの炎を、消してはならずまた隠してはなりません。それが人々にとって希望の炎だからです。


教会に与えられている「祭壇の火」を消してはなりません。いつでも私たちがここで主を賛美し、ともに祈り、神のいのちのみことばに生き抜き、ここに「神の救いの炎」があることを絶えず示し続ける使命を担っているのです。


主は命じておられるのです。

祭壇の火はそのまま燃え続けさせ、それを消してはならない。

火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない。消してはならない。



 教会はどんな時でも、人々が逃れて来ることができる逃れの場でありたいと願います。海を照らす灯台の灯りを頼りに、多くの船が港にたどり着くことができたように、私たちもこの地で灯台となって、彷徨っている多くの人々を導きたいのです。ここに「救いの港」があることを示し続ける使命を帯びているのです。




苦しんでいる人々にここにいやしと慰めがあることを示さなければなりません。


見捨てられている人々に、ここには決して見捨てられることのない神の愛があることを示す使命があります。


真理を求める人々に、真理の光がここにあることを見えるようにしておかなければなりません。


確かに私たちには具体的に助けになれず、無力さを感じることも多くあります。

金銭を求めて来られる方もいらっしゃいます。ペテロが言ったように確かに金銀は私たちにはほとんどありません。


介護の苦しみを抱えて来られ、助けて欲しいと言う方に、確かに代わりに介護をして差し上げることもできません。


コロナウィルスを前に、特効薬を開発する力もないでしょう。私たちは無力だと思うかも知れません。




しかし、私たちは無力でも、私たちには指し示すことのできる「祭壇の火」があります。


「祭壇の上で燃え続ける火」を指し示すことができるのです。


 すなわち、神の救い、罪の赦し、キリストの十字架です。そこにある慰め、いやし、平安、希望です。



それしか出来ないと考えるでしょうか?


それとも、それを指し示せることが何にも優るものと考えるでしょうか?


皆さんはどちらでしょう?

 

もちろん後者ですよね。

なぜなら、すべての苦しみ、すべての困難、すべての悩みの根底には、必ず「罪」の問題があるからです。人間のあらゆる不幸の根底に「罪」という問題があるからです。マスクも日用品も足りなくなるのは、まさに自己中心の罪の問題です。差別が起こるのもコロナウィスルが原因ではなく、人の心に潜む差別意識が表面化しただけの話で、元々あるものです。むしろ、人の心の奥に潜む闇が、コロナウィルスをきっかけにして表面化したに過ぎないのです。


そして、ある人はコロナウィルスさえ無くなればともう安心だと思うでしょうか。


残念ながらまた別のウィルスが私たちを苦しめるでしょう。


私たちの根本的な問題の解決には、魂の救い、全人格的な救いが必要なのです。一つの危機が去れば安心というのは、その場しのぎに過ぎず、去った時には既に次の不安におびえているのです。


 この根本的な問題への唯一の解決こそ、祭壇の火であるイエス・キリストの十字架です。私たちはあらゆる時代の、あらゆる問題の根にある「罪」という死に至る病に対して、「最高の特効薬」を手にしているのではないでしょうか。


この世のあらゆる悪人もウィルスも、災害もせいぜい私たちの肉体までしか滅ぼせません。たましいを滅ぼし、たましいを生かす力を持つ神様を味方とできる良き知らせ、福音を私たちはゆだねられているのです。


 この困難な状況において私たちがすべきことは何ですか?何ができるのでしょうか?他の人々と一緒に怯えて隠れて祈ることでしょうか?それはイエス様を信じていない人でも誰でもしていることです。私たちがすべきは何でしょうか?


 祭壇の火を与えられた者として、火を燃え続けさせ、人々にここに救いがあることをお知らせすることではないでしょうか。死の恐怖に対する最大の解決は「死への勝利」しかありません。


 新約時代の祭壇の火、すなわち「キリストの十字架」こそ、私たちがいつでも燃やし続け、人々に示し続ける炎です。


10代の娘が、教会の年配の姉妹を見て言うのです。「自分は年をとったら、〇〇さんのように、ああいうおばあちゃんになりたい」と。


普通、今どきの女子高生が言うでしょうか?


多くの女子高生は、お年寄りを見て「ああはなりたくない」と言います。


でも、彼女は教会で若々しく、いつも神様を賛美しながら感謝にあふれて生きているおじいちゃん、おばあちゃんを見ているのです。すばらしいモデルが教会にいらっしゃる。良い目標、良いモデルです。そこに熱い信仰の火が燃えているからです。


 蒔が一本ではすぐに消えてしまいます。でも、蒔が多くくべられるほどに火は大きく、長く続きます。この時こそ、この火に皆で薪をくべ続け、暗闇の世界に灯りをともし続けましょう。


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