東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 伝道者の書5章8-20節「当てにならない富と人を満足させる神」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2024/01/21

伝道者の書5章8-20節「当てにならない富と人を満足させる神」

*** 1/21(日)主日礼拝 説教原稿 ***
 
 新年礼拝では、困難な中にあっても、主にあって喜び、楽しむ一年にしようと教えられました。今日のみことばでも、神様が私たちに豊かに富や財産を与え、それらを楽しむことを許し、また、心を喜びで満たしてくださることが語られています。
 19-20では、「楽しみ」「喜び」、両方が神様によって与えられていることがわかりますよね。聖書や神様のイメージとして、「難しい」「厳しい」などあるかも知れません。しかし、ここにあるように人を幸せにしたいと願い、喜びや楽しみさえも豊かに与えてくださる神様であるとわかります。実際、私はクリスチャンになってからの人生の方が、ずっと喜びに満ちています。しかしながら、これらの物によって人は満足できず、害を受けることさえあると語られています。神様が良き物として与えてくださっているのに、なぜ、そうなってしまうのでしょうか?



 それは、神が与えてくださっているという最も大切な真理に立っていないからです。与えてくださっている神様を見ず、その富だけを見てその虜になり、富そのものを愛してしまうからです。富や財産自体は、私たちが思っているほど当てになるものではありません。富はむなしく失われる物でもあり、価値が変動し、時に人を奴隷にし、害をもたらす危険もあります。ですので、富や財産を造られた神様に、それらをふさわしく用いて、本当に喜び楽しめる道を教えていただきましょう。


1.労働の実の豊かさを知る王


8節 ある州で、貧しい者が虐げられ、権利と正義が踏みにじられているのを見ても、そのことに驚いてはならない。その上役には、それを見張るもう一人の上役がいて、彼らよりももっと身分が高い者たちもいるからだ。9節 国にとっての何にもまさる利益は、農地が耕されるようにする王がいることである。 

 どの地域でも、貧しい労働者がないがしろにされることがあります。しかし、下っ端の役人ではなく、もっと上の存在が「愛と公正さを持つ者」であるなら、そこには希望があります。その意味では、9節にあるように、一番偉い王様が貧しい農民に敬意を払い、農地を大事にしてくれるならば、国と民にとって大きな希望となります。そして、人間の王様よりもはるかに偉大な神様こそは、誰よりもその「労働の実の豊かさ」を知っておられ、私たちにその価値を教えてくださるお方なのです。神様は、この世の富を造られ、私たちに与えてくださった方です。

その方がおっしゃることは簡単に言うとこうです。
お金に支配されるのではなく、お金をふさわしく管理せよ!お金に働かされず、お金を用いて人を幸せにしなさい!そうするなら、あなたはそこからたくさんの恵みを受けるということです。

 お金に支配され、虜になっているとむなしさと滅びが待っています。ですが、お金の価値や意味を神様から正しく教えられ、良いことのために、愛のために用いていけるなら、むしろそこから多くの喜びと楽しみを、私たちは得られるのです。

 

2.富を愛することの危険


 10節以降の具体的な内容に目を留めて参ります。10-17節で語られていることは何でしょうか。おもに、「お金や富を愛する者が、それらを愛して必死に労苦しているにも関わらず、満たされず、不幸にさえ見舞われる」ことがあるということです。

10節にこうあります。

10節 金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた空しい。

 金銭、富を愛しているのに、そこからはその愛に対する十分な満足が得られないと言うのです。だから、「空しい」と著者は語っています。愛を注いでいるのに、十分な応答がないからです。また、この「空しい」ということばには「わからないこと」「理不尽なこと」といった意味もあります。愛を注いでいるのに、その報いが得られない。それはある意味理不尽で、その仕組みも人には「よくわからないこと」なのです。

 ただ、人にはわからないのであって、神様はそれを造られた方ですからご存知なのです。

 お金を愛しても満たされないのは、当然のことだと神様はおっしゃるでしょう。だから、私たちは神を知る必要があるのですよね。風を追うような虚しい人生を送らないために。実際に私たちも経験するようなことが語られています。

11節 財産が増えると、寄食者も増える。持ち主にとって何の成功だろう。それを目で眺めているだけだ。 

 家や会社など組織が大きくなれば、それを維持・管理するのにより多くのお金もかかります。税金も増え、人を多く雇う必要もあり、悩みや問題も増えてしまいますよね。確かに収入も増えるのだけれど、支出も同様に増える。さらに忙しくなります。規模が大きくなっただけで、自分の幸福度は変わらないということがあるわけです。じゃあ「成功」って何だろうって思いますよね。また、13-14節では、次のようにあります。

13節 私は日の下に、痛ましいわざわいがあるのを見た。所有者に守られていた富が、その所有者自身に害を加えることだ。
14節 その富は不運な出来事で失われ、息子が生まれても、その者の手もとには何もない。 

 富がいかに当てにならないものであるかが語られています。ある時には非常に役に立ち力を発揮します。しかし、富は急に価値を失いもします。災害や窃盗で失うことがあり、貨幣の価値が下がることも体験しています。色々な物が20年前の倍ぐらいの値段になっています。ですから、実質、貨幣の価値が半分近くに下がっていると言えるでしょう。大事に愛して見つめているお金が、時間とともに価値を失っていくわけです。

 そして、14節にあるように、不運な出来事はいつ起こるか分かりません。子が生まれて一番必要という時に、失われているかも知れません。その意味で、私たちが思っているよりもずっと「当てにならない」のです。当てにならない、不安定な物という意味では、資産を色々な物に分けて管理するというのが賢い方法かも知れません。

 現金だけで持っていれば、現金の価値が下がると大損です。何にしても、私たちが思うほど当てにならないと考えておくことから、リスクマネージメントという考えも生まれて来ますよね。なんだか、資産運用の講演みたいになりましたが(笑)。

 申し上げたいことは、富や財産を愛して、そこにすべてをかけてしまう時、期待を裏切られ、害を受けることさえあるという現実を知るということです。

 極めつけは、15-16節です。そこでは、人は裸で生まれ、裸で土に帰っていくので、死後の世界に富を持って行けないという事です。

 イエス様はそれゆえに、この地上の宝を愛するのではなく、神のみこころを行って天に宝を積むようにと励ましておられます。お金も富も当てにならず、永遠に残るものではありません。私たちの人生を、むなしく消え去るものにささげてはならない。もっと尊いものだと神様は気づかせてくれます。お金を愛しても満たされず、愛に対する十分な報いがないのは、それらが愛され信頼されるに値しない物だからです。

 お金や富は、私たちの全身全霊の愛や信仰を受けるにふさわしくない存在なのです。その程度の物に、貴重な愛や信頼の心を与えてやるなんて、なんてもったいない無駄遣いでしょうか。皆さんの大切な心を、むなしく消えていく一時的な富に注ぐというのは、もったいなすぎる空しい行為です。神様はわかっておられるのです。

 

3.富や財産を神のしもべとし、愛の道具として用いよ

では、当てにならないから意味がないのでしょうか。そうではありません。「富や財産を神のしもべとし、愛の道具として用いよ」と神様はおっしゃるのです!18節に目を留めると、人の受ける分として、神様から日々の労苦の実としていただいた物を楽しみ、喜んでいいのだと分かります。神様が、私たちに受けるふさわしい分として下さっている。それらを神様のみこころの中で、感謝して用いるということです。

19節にもこうありますよね。

19節 実に神は、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。 

富や財産、これらを神の賜物として感謝して受けましょう。人を助けたり、人を幸せにしたり、人に感動を与えるために用いるようにと主が与えられた賜物です。お金や富に支配されるなら悪魔を喜ばせる行為です。悪魔の手先にすることです。そうではなく「神のしもべ」として用いたいのです。

 ある時、義理の兄がTVのインタビューに応じている映像を見ました。花屋で奥さんに花束を買った時のことでした。実は、誕生日でもなく何の記念日でもありませんでした。この時、自分の趣味の物を買うこともできたでしょう。でも、自分のためにではなく奥さんへの感謝、愛を表わすためにお小遣いを用いた。それは奥さんにとってだけでなく、義兄にとって喜びとなったことでしょう。富を与えてくださった神様に感謝し、神様のみこころに沿って用いていく時、人はこれらの「楽しみ」や「喜び」で、心をいっぱいにしていただくことができるのです。 

20節 こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返さない神が彼の心を喜びで満たされるからだ 

 「あれこれ思い返さない」というのは、「必要以上に多くを思い出さない」という意味です。なぜなら、神様がその人の心を喜びや楽しみで満たすからです。

 ある英訳聖書は興味深く、神がその人を喜びで忙しく(busy)されるので、昔の余計なことを思い出させないと訳されています(NTL, NASB)

 お金に支配される思いでいっぱいになるのではないのです。お金や財産を神様が望まれる用い方をすると、お金の支配から解放されます。神様がそのことで、私たちの心を楽しさや喜びで満たしてくださるからです。

ぜひ20節の「こういう人」になりたいですね。では、再度確認です。「こういう人」ってどういう人なのでしょうか? 三択クイズです。
①お金や財産に心を奪われ支配されている人。 
②お金や財産は何の価値もない、不要だと考える人。 
③お金や財産を、神様がくださった贈り物として感謝し、愛の動機で用いる人。 

当然③ですね。
その人は、神様によって、心を喜びで満たされるから。与えられているもので満足させていただけるからです。

富というものは、どれだけ所持しているかではなく、何に用いるかでその価値が決まる。

 私は神様からそのように教えられています。お金を手に持ってただ眺めていても、それはただの金属と紙切れでしょう。しかし、悩み苦しむ人に希望をもたらすために、子どもたちの笑顔のために、人々の救いのために用いられ、お役に立てたなら、その価値は無限大でしょう。



引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *