*** 1/17(水)祈祷会 説教概略 ***
今日のテーマは「赦された罪人としての交わり」ということです。ちょうど、昨日のママsカフェでも、子どもたちが自分の過ちを認められるように育てていくというテーマでありました。そこで大切なことは、罪を認めること。そして、自分たちが罪人であることを、率直に言い現わせる交わりを築くことです。
10節 次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。11節
悟る者はいない。神を求める者はいない。12節 すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」
10-12節は、詩篇14篇や53篇の引用として語られています。とにかくここでは、罪なき完全に正しい人は一人もいないのだということが語られています。聖書の語る罪は、心の中にある汚れも含めてですし、何よりも罪を認めないという高慢を神様は一番悲しまれます。
実際、一度も人を傷つけず、一度もウソをつかず、一度も不信仰に陥らず、一度も人を愛さなかったことがないなどという人はいませんよね。この12節では、善を行う者はいないとあります。良いことをすべきだと分かっているのに、すべきでない悪をしてしまうことがあるのです。これは、パウロ自身も悩み葛藤した上での結論だとわかります。7章18-21節で、そのことが証しされています。
18 私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。19 私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。20 私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。21 そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。
どうでしょうか。私たちも少なからず心当たりがありますよね。今日は人をさばかないで、人を傷つけないで、穏やかに過ごそうと朝決めても、「できなかった」とため息をついて一日を終えることがあるでしょう。仲良く愛し合って歩みたいのに、また憎まれ口を叩き、言い争ってしまった。愛を示せなかったということもあるでしょう。こうした内容を考えても、私たちには罪があることは明らかです。
3章に戻りましょう。13-14節ではことばにおける罪の問題があります。
13節 「彼らの喉は開いた墓。彼らはその舌で欺く。」「彼らの唇の下にはまむしの毒がある。」14節 「彼らの口は、呪いと苦みに満ちている。」
いずれも私たちのこの口がいかに汚れているのかを明らかにしています。ことばは、どんなに言い訳をしようが、やはり私たちの内側から、心から出ています。そして、これらも詩篇からの引用です。「彼らの喉は開いた墓」とは、詩篇5:9の引用。唇の下にはまむしの毒があるというのは詩篇140:3。さらに14節は詩篇10:7の引用となっています。
パウロは自分のことばだけで、ローマのキリスト者を説得しようとせず、旧約のみことばによって人々に語っているのです。結局みことばに力があるのですよね。詩篇が書かれた時代にも、パウロの時代と同じように、義人はいなかった、神の前に「善を行えています!」と胸を張れる者はいなかった、舌と口とで常に罪を犯していたという事実が、みことばから分かります。
神の民ユダヤ人の先祖たちも、決して正しい立派な人ではなく、このように明確に罪ある人の集まりであったと分かります。そして、私たちの時代にあっても、ことばの問題は誰もが悩んでいますよね。
15-17節ではこうあります。
15節 「彼らの足は血を流すのに速く、16節 彼らの道には破壊と悲惨がある。17節 彼らは平和の道を知らない。」
これらは人間同士の様々な争い、戦争の問題、さらには被造物の破壊、悲惨をもたらす様々な問題、人が平和を作り出さず、かえって平和を破壊していること等に触れています。これも今、私たちもまさに、現実的な問題として直面していることですよね。
そしてここでも旧約聖書を引用していることがわかります。今度はイザヤ書57章7-8節からの引用です。イスラエルの罪の歴史が如実に語られていることがわかります。絶え間ない血塗られた争いの歴史が横たわっているのです。
はっきり言えば、ユダヤ人の歴史、イスラエルの歴史は「愛と平和の歴史」とは言い難いのです。そこには多くの無慈悲や破壊、争いという歴史が記録されているのです。歴史を通して、ユダヤ人たちはみな罪人であると、聖書の記録から明らかにしているのです。
そしてパウロは、再び詩篇を引用し、18節でこう語ります。18節 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」 詩篇36篇1節のことばです。これはある意味では、ここまで語られてきた罪の問題の「根っこ」にあることです。神を恐れないので、多くの不道徳、多くの不義がなされ、争いも絶えないのです。
パウロはこうして、読者たちに、歴史全体を通して、自分たちユダヤ人が異邦人より聖さにおいて優れているなどとは到底言えないことを明らかにしました。それどころか、ユダヤ人に与えられた特別な恩恵である「律法」も、ユダヤ人の正しさを立証するものではなく、ユダヤ人の罪深さを明らかにするために役立ったことを指摘します。19-20節です。
19節 私たちは知っています。律法が言うことはみな、律法の下にある者たちに対して語られているのです。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。20節 なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。
人は神の前に例外なく、誰もが罪人であるという事実。これを律法は明らかにし、すべての人にキリストの十字架による罪の赦しが必要であることを示されたのです。こうして、律法は人々をキリストのもとに導く養育係となりました。さばく人ほど自身の罪を棚に上げていますが、律法と旧約の歴史とは、この事実に気づかせてくれるのです。私たちは、このように聖書の律法が、私たちをさばくためではなく、神の聖さを教えるとともに、人の罪深さに気づかせてくれる恵みを持つことを覚えたいのです。
そして、今日のみことばでは、色々な罪が列挙されていました。こうして列挙されることで、各人が自分は「ここは大丈夫だけれど、こういう面では罪を犯して来たな」と気づかされるのではないでしょうか。
実に、罪に対する弱さも人それぞれに違うのですよね。誘惑にあいやすい分野が各人で違うのです。
ある人は地位や名誉の誘惑に弱いのですが、ある人は地位や名誉には関心がありません。ある人はお金の誘惑に弱いのですが、ある人はお金に執着がありません。ある人は性的な誘惑に遭いやすいのですが、ある人は性的なことがあまり誘惑になりません。また、人をさばきやすい弱さを持つ人もいれば、そうでない人もいます。感情的に罪を犯しやすい人もいれば、論理的すぎて感情的に罪を犯しやすい人の苦しみがわからない人もいます。
このようにひとりひとり、弱さが違います。ですから、自分の強い分野を他の人の一番弱い分野と比較しても意味がありません。ですから、「あの人は、あんな罪を犯すなんてダメな人だ」と、自分の強いところだけを見て安易に裁くべきではないですよね。
でも、共通していることは、誰もが例外なく罪に対して弱い部分が必ずあることです。ですから大切なことは、罪を言い現しにくいさばき合う交わりにしないことです。言ったらさばかれる。言ったら責められる。恥をかかされる。そう思えば言えなくなります。悔い改めていない人には、罪を指摘する必要がありますが、本人が悔いているなら、もう責める必要はなく、むしろ徹底して赦すことが大切ですよね。隠すしかないという状況をお互いに作らないことが大切ではないでしょうか。
なぜなら、罪は隠すと次の罪を呼び込んでしまうからです。隠蔽するほどに、ますます悪くなるからです。何より神様から離れて行ってしまいます。
しかし、聖書は、罪は隠すのではなく神の前に「言い現す」べきものだと教えています。
なぜなら、神の前には赦しがあるからです。十字架の赦しが先に備えられているからです。神の圧倒的な赦しがあるのですから、正直に告白できる恵みが与えられています。
ですから、イエス様が教えておられるように、私たちも互いに赦し合う交わりを大事にしたいのです。自分の過ちを語れる交わり、赦しを宣言し合える交わり。実にこれによってこそ「隠蔽」の問題から解放され、神の赦しの恵みに歩める幸いな道、さらなる愛が増しく加わる道を歩めるのです。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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