ある宗教家が「どの神様を拝んでもいいんですよ!」と言いました。なぜなら、「神様はそんなに心が狭い方ではないので、どれを拝んでもあなたの信仰心を喜んでくれますよ」と。物は言いようだと感じたものです。
こうした教えは、一見すると心地よく聞こえます。寛大、寛容、どの神を信じようが大丈夫。しかし、本当にそうなのでしょうか。
今日のみことばの1節では霊だからと言って、何でも信じてはいけないと教えられています。本当に神からのものか、悪魔的なものなのか見分けなさいと。実際、多くの罪深い人間の教え、カルト・異端があふれています。多くの方が騙され、財産や家族を失っています。
神様は、あなたが間違ったものを信じ、悪魔に仕えたりして滅んで欲しくないのです。愛しているからこそ、真理を伝えておられるのです。頂上に続く正しい道が本当は一本なのに、道を尋ねてきた人に、崖へと続く危険な道を教えて平気でしょうか。その人の顔色を伺うように「どの道を行っても大丈夫ですよ」と言うとしたら、その人がどうなっても構わない、という無関心があるからではないでしょうか。
神様は私たちに、「わたしの目にはあなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している」と言われます。ある個所ではあえて、わたしは「妬む神である」とさえあります。心が狭いのでしょうか。いいえ、「あなたを、妬むほどに愛している!」という熱烈な愛の表現なのです。あなたを救いたい、あなたが大事だからこそ、何でもいいよと言わないのです。
神から出たものは、この神の愛がわかります。この方が、ご自分の最も大切なひとり子、イエス・キリストを私たちにお与えになったからです。
1. 偽りの教えを見分ける
この手紙が書かれた時代に、まさに人を神の救いから遠ざける偽りの教え、人間的な教えがキリスト者を誘惑していました。1節にこうあります。
1節 愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。
偽預言者と呼ばれる存在があることを再び語っています。特に「グノーシス主義」と呼ばれる異端の教師が入り込んでいました。彼らは、「霊はきよいが肉体は悪である」と考えました。「神が肉体を持つなんてことはおかしい」と言いました(霊肉二元論)。
それで、イエス様がキリストであるとする教えを否定したわけです。肉体を持つ人間となれば、悪や汚れを帯びるからキリストは絶対に肉体を持たないはずだと言うのです。だから、十字架で死ぬなんてこともあり得ない。肉体を持っての復活も受け入れがたい。
彼らは、こうした人間的思想でイエスがキリストであることを否定しました。当時、教会に集うクリスチャンたちも、少なからずこうした教えに惑わされ、混乱したのでしょう。
ですから、イエス様のすぐ横でともに歩んだ使徒ヨハネは、この偽りの教えに対して、きちんと吟味して見極めるよう教えています。
では、その「見分ける方法」とは何でしょうか? 2-3節にかけて語られています。それは明確でした。
2節 神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。
3節 イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。
ここにあるように、真理の御霊に導かれる本物の預言者、教師ならば、イエスがキリスト、救い主であると告白するものだというのです。神からの霊を受けている人は、いつでもイエス様が、私の救いの神であると信じて生きているのです。非常にシンプルにこれで見分けられると言います。
もし、私がこの講壇から、驚くほど興味深く話し、多くの人が感動の涙を流し、あるいは非常に役に立つ教えをしたとしても、私が「イエス様こそが、まことの神の子キリストです!」と少しも言わないなら、私は偽牧師でしょう。神から出た者ではないということです。ぜひ、クビにしてください。教会がそういう姿勢を保つことが大切ですので。
あるいは、証しが非常に劇的で、感動的であったとしても、イエス様こそ私の救いの神です!と少しも告白しないような人の証しは、偽物の証しです。
すると、逆にこう言えないでしょうか。
たとえ、あなたに劇的な体験がなかったとしても、あるいは、あなたが決して強く立派な信仰者ではないとしても、「イエス様は間違いなく私の神、私の救い主だと信じています」と告白しているのなら、あなたは最高に素晴らしいキリスト者であると。
また、過去にどのような歩みをしてきたか。それも重要ではありません。それよりも、今、あなたがキリストとともにあるのなら、それをもって、私たちは兄弟姉妹である、信仰の友であると言えるのではないでしょうか。
2.キリストだけが救いの道
キリストの教会、クリスチャンは、徹底してイエス・キリスト信仰なのです。なぜなら、イエス様だけが、「父なる神への道」であるからです。この方以外に救いの名はなく、この方以外に神と和解する道はないのです。それはイエス様ご自身がおっしゃる通りです。
ヨハネ14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
とても狭い道だと思われるでしょうか。色々な道があっていいじゃないか!!色々な方法の救いがあっていいじゃないか!!と思いたい人もいるでしょう。
でも、それらが偽りの道だったとしても、それらの道を紹介するのは「愛」なのでしょうか。 イエス様はまことの神様、愛の方、救い主ですから、ウソをついて人を滅びに至らせることを、誰よりも悲しく思います。自分はどんなに批判されようと、「わたしが道である」と叫ばれるのです。人を愛しておられるからです。
3節にこうあります。
3節 イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。
なぜ、ヨハネは、ここまで厳しく明確に言っているのでしょうか。さっきの例で言えば、「崖に続く道も悪くないよ」と曖昧にしてしまうと、間違って崖から落ちて亡くなる方が起こるからです。崖があるなら、「そっちも悪はくない」ではなく、「そっちは崖だよ」と真実を語る必要があるからです。この道が正しい道だよと示す必要があります。
「イエス・キリストを告白しなくても救われる」などと言って、救いから遠ざかる人がいたなら、それこそ神様に敵対し、神様を悲しませることになりますよね。
神様は、誰ひとり滅びることを望まないで、愛する大事な御子イエス様を遣わしてくださったほどなのですから。
ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
3. ヨハネのキリスト者への励まし
そして、読者であるキリストを信じる者たちをこのように励ましています。4節です。
4節 子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。
原文だと少し語順が違います。「あなたがたは神から出た者です!(カンマ) 子どもたちよ!」と続きます。読者を力強く励ます意図を感じます。
あなたがたは、神から出た者なのですから!だから、偽りの教師や偽りの預言者たちを恐れてはならないよ!と熱意を持って伝えているようです。
そして、あなたがたは「彼らに勝ちました」と伝えています。完了形が用いられ、神の側に留まっているのだから、何も恐れなくていい状態なのだと励ましているのです。キリストにあって罪と滅びに既に勝利した立場にある。なのに、なぜ、そこから離れようとするのか?と。
既に勝利の立場を得ているのです!なぜなら、この世のそれらしい教えをするどんな人よりも、私たちの主である神様は圧倒的に偉大だからです。どんなに良さそうに見える教えでも、人間から出たものは不完全で、消え去るものです。朽ちる人間、朽ちるこの世から出ているからです。
しかし、永遠の神から出ている教えは廃れることも消えることもありません。だから、神の教えを、受け入れやすいからという理由で人間の教えに変えてはならないのです。
けれども、当時、キリストが肉体を持つ人間となられたことを受け入れない人々は、結局は、人間の知恵に頼っていたのです。自分の小さな脳と歪んだ理性で、全宇宙を造られた無限の神様を、「こうであるはずだ」と決めつけたのです。自分がそうであるように、肉体を持っていれば常に汚れがあると思い込んでいたのです。神が「死」を通るなんてあり得ないと決めつけ、納得いく形でしか神を受け入れませんでした。
それは「人間の理性に閉じ込められた小さな神」しか信じられないことになります。
所詮それは、人間の勝手なイメージで造り出した偶像に過ぎません。
私たちが納得しやすい神でいて欲しいだけなのです。
ですから5-6節のようになります。
5節 彼らはこの世の者です。ですから、世のことを話し、世も彼らの言うことを聞きます。
6節 私たちは神から出た者です。神を知っている者は私たちの言うことを聞き、神から出ていない者は私たちの言うことを聞きません。それによって私たちは、真理の霊と偽りの霊を見分けます。
イエス様を受け入れない人は、この世から出たままですから、価値観もこの世の価値観に終始します。神の世界のことが全く分かりません。
しかし、イエス・キリストを信じた者は、キリストの御霊が与えられ、神様を知ります。神のみこころがわかるのです。ですから、ヨハネたち使徒の教えがわかります。聖書がわかるようになります。真理と偽りとを見分ける力を、上からの知恵としていただけるからです。
私たちが、こうしてみことばにいつも聞き、イエス様に留まるのなら、私たちは「神から出た者」です。そして、神から出た者だからこそ、キリストというお方のすばらしさ、その何にも代えがたい価値を理解できるのです。
ですから、聖歌にあるように「キリストには代えられません。世の宝もまた富も。」と歌うのです。「有名な人になることも、人のほめる言葉も、この心を引きません。」、「キリストには代えられません 世の何物も」と歌うのです。
この世の富や誉れ以上に、キリストを知っていることを誇りとできる者とされています。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会