東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ書3章1-9節「すべての人が罪の下(もと)に」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/01/11

ローマ書3章1-9節「すべての人が罪の下(もと)に」

*** 1/10(水)祈祷会 説教概略 ***

 ここは普通に読んでいると、とても混乱しやすい難解な箇所に思えます。なぜなら、パウロが主張しているのか、それとも、他の人々が「パウロはこう主張しているのだ!」と、非難していることなのかが分かりにくいからです。

 ですので、まずパウロが言おうとしている結論を抑えましょう。それは9節にあります。

9節 では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。 

 
 パウロの結論としては、私たちユダヤ人たちには、異邦人と比べて神の前に特別に優れているところはないということです。しかし、1-2節では、ユダヤ人には大いにすぐれている点があると言ってます。では、どういう意味で、ユダヤ人も異邦人も違いがないのしょうか。

 パウロがここで言っているのは、ユダヤ人もギリシア人も「罪の下(もと)にある者」という点で全く違いがないと言っているのです。ユダヤ人は確かに、律法を授かり、神の啓示を世界に現す使命を旧約時代からいただいていました。その点は大いにすばらしいすぐれた点だとパウロは認めています。

 けれども、そのみことばを守れない罪人であるという点では、ユダヤ人もギリシア人も、他の異邦人も全く違いがなく、ユダヤ人だけすぐれているとは言えないのだと語るのです。とにかく、この点がパウロの主張であることを抑えて、今日のみことばを理解していきましょう。

 

 パウロは人々の反論を想定しながら語っています。

 その反論は、おそらくこういうものでしょう。「パウロ、あなたの主張によれば、ユダヤ人と異邦人の間には何の差もなく、ユダヤ人が神に選ばれた意義も、割礼を行った意味もないということになる。それはおかしいのではないか」という反論です。

 パウロは、こうした反論を想定して説き明かしているのです。パウロの主張はどのようなものでしょう。2節をご覧ください。もちろん、ユダヤ人には、すばらしい恵みが「あらゆる点から見て大いにある」と語られています。まず、神のことばを委ねられている点であると言いました。ユダヤ人は十戒をはじめとする律法、みことばを授けられた民です。それだけでも大きな恵みをいただいた民だと言えます。

ところが、屁理屈を述べたいユダヤ人は、こう答えるのではないでしょうか。「我々ユダヤ人に与えられたすぐれたものが、律法だと言うのか。しかし、パウロ、あなたはそのユダヤ人が律法に反していて、むしろ神にさばかれる立場にさえあると言ったではないか。あなたが言うように、ユダヤ人が罪深い人間なら、神の真実を示せず、ユダヤ人は神の前に何の役にも立っていないのではないか」と。

 パウロは3-4節で、こうした疑問を想定して答えていきます。

3節 では、どうですか。彼らのうちに不真実な者がいたなら、その不真実は神の真実を無にするのでしょうか。4節 決してそんなことはありません。たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。 

 ここでわかるのは、パウロはユダヤ人たちに不真実な者がいることを、少しも否定していないということです。いや、むしろ、すべての人が神の前では不真実である前提で話しているようにさえ見えます。

 そして、神の真実さは、人の不真実によって何ら影響を受けるものではないと明言します。たとえユダヤ人の全員が不真実だとしてさえ、神は常に真実であることは変わらないのだと語るのです。

 4節後半では、詩篇51篇が引用され、神は常に裁判で勝利をする真実な方であることを証ししています。むしろ、人が不真実であることで、神が義であることの素晴らしさがより鮮明に示されてきたという歴史です。例)光は闇の中で輝くからこそ、その力や意義を発揮する。

 そこで5節では、さらなる疑問について触れています。それは次のようなものです。

「もし、私たちの不真実でさえ、神の真実を現すのに役立つのならば、それに対して御怒りを下す神が不義だということになるのではないか?」という問いです。

 あなたの論理で言えば、我々は神の義を明らかにする立役者ではないか。それならなぜ、我々を「悪者」扱いするのだ?ユダヤ人に怒りを下すのは不当ではないかと。そこでパウロは6節で、「決してそんなことはありません」と強く否定します。神様が不当、不義であるなどとは、どんな時でもあり得ないのだと。そんな偏った方であるなら、神様は世界をさばくことなどできないではないか!と語るのです。パウロ自身、5節の中で、あくまでも「人間的な言い方」であるけれども、と断っていますよね。

 さらには、パウロの論理だと「悪によって神の義が啓示されるのだから、悪いことをどんどんしよう!」となるじゃないか!と、批判するユダヤ人たちもいたようです。もはや、屁理屈でしかありません。ただし、こういう疑問は起こり得ます。罪深い人間であるほどに、結果的に神の赦しを多く深く受けているなら、もっと多くの罪を犯した方が良いのではないか?その方が神の恵みを多く受け、神の義を証しできるのではないか?という問いが生まれます。

皆さんはどう思われるでしょうか。

もちろん、より多く罪を犯した方が、神の役に立つという発想は、明らかにおかしいですよね。

しかし、ある人々は、「パウロがそのように教えている」と言って非難したのです。 

8節 「善をもたらすために悪を行おう」ということになりませんか。私たちがそう言っていると、ある者たちから中傷されています。そのように中傷する者たちが、さばきを受けるのは当然です。 

 パウロはもちろん、罪を犯すべきでないと考えているのです。問題は、罪を犯しているのに「罪などない!」と主張し、自分を義としてしまう人の問題です。ユダヤ人は何とかして自分たちは正しく、道徳的に異邦人より優れていると言いたのです。

 けれど、パウロはあなたがたがすぐれている点は「そこじゃない!」と言うわけです。むしろ、そこは、神の前に同じく罪人であると認めよう!と。

 大前提として、すでにすべての人が多くの罪を犯しているのです。それを認めなさいとパウロは言うのであって、「新たに犯しなさい」と言っているのではないのです。神様の救いの恵みは大きく、完全な赦しがある。だから、あなたがたの罪を隠さず、神様の前にさらけ出し悔い改めなさいと言いたいのです。

それが9節のことばでまとめられていますよね。 

9節 では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下(もと)にあるからです。 

神の前に、誰もが罪人です。すべての人が罪の下にあるのです。その点は全人類共通です。違いはありません。ところが、自分の問題を認めない人は、改善のしようがなく、難しいものです。ですから、パウロは、ユダヤ人たちの自己正当化を深刻な問題としてとらえているのです。

最も治療が難しい病とは何かと言うと、自分は決して病気ではないと思い込んでいるという病です。改善する必要があると認めない、良くなろうと思わないという病。それでは治療を受けることができない、改善しようとしないので、悪くなるばかりでしょう。カウンセリングの世界でも、カウンセリングに通える人は、かなりいい状態の人だと言われます。それなら救いようがある。ですから、私たち、誰もが、罪の下にいること。これを神様の前に素直に認めて参りましょう。問題のない人はいないのですから、認めることから始まるのですよね。

 そして、パウロは、悔い改めて、十字架の赦しを受け取るならば、そこに多くの恵みが加わり、あなたは変えられていくのだと伝えたいのでしょう。それは、ローマ書全体を見れば明らかです。ただ罪を認めさせたいだけでなく、キリストの十字架にある救いを受け取って欲しいのです。そこにある赦しを受け、愛を受けて歩んで欲しいのです。


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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