*** 1/7(日)主日礼拝 説教概略 ***
新しい一年を迎えました。今年は年始から大きな地震や飛行機の事故があり、前途多難な年明けという印象です。亡くなられた方、被災地で苦闘されている方がおられます。私たちも被災地のために祈りつつも、一緒になって落ち込まないことが大切だと思っています。
元自衛官の女性芸人の「やす子」さんという方がいます。その方に、ある人が被災地のために、自分ができることは何でしょうかと尋ねたそうです。その答えの一部をご紹介します。「日常を送れる方はいつも通り日常を楽しむこと」、また「今、皆がいる場所で精一杯日常を生きるのが大切」というものでした。
なるほどと思いました。私たちが何かしようとジタバタし、不安ゆえに何かをしないといけないと思う時、かえって浮足立ってしまい、疲れ果て、問題を増やしてしまいます。ですから、まずは、自分が元気にしっかりと笑顔で歩むことです。そうしてこそ、他の人を助ける力も蓄えることができるからです。ですから、私たちは落ち着いて、主にあって日々を楽しんでいけるよう、みことばによって励ましをいただいて参りましょう。年間指標聖句にありますように、主のみことばの光によって道を照らしていただきましょう。
今日、主によって与えられていますみことばは、ハバクク書のみことばです。その中でも、特に3章18節にある「主にあって喜び躍り、救いの神にあって楽しもう」というハバククの信仰から、私たちも励ましを受けたいのです。しかも、この告白は、これから自国が滅んでいこうとする暗黒の時代になされたものでした。新年早々、私たちの周りには多くの悲惨なことが起こっています。しかし、その中にあっても、キリストにある救いの望みをしっかりと告白し、主にあって胸躍らせ、楽しむ一年とすべきです。主のいのちのみことばから、ともに教えられ、力をいただいて参りましょう。
まず、これを著した預言者ハバククの名前の意味には、「抱きしめる、からみつく」などの意味があるとされています。彼の信仰の歩みを見る時に、試練の中にあっても主に抱かれて歩む強さを見る思いがします。また、ハバクク自身も、主にしがみつくようにして歩んでいたのではないかと思うのです。ですから、私たちもハバククの名にちなんで、主に抱かれ、主にしがみつく一年にしたいと思うのです。
さて、この時代は北のイスラエルは既に滅び、南のユダがバビロン帝国に侵略されて、捕囚とされていく時代でした。特に、ハバククが最初に仕えていたヨシヤ王が死んでからは、衰退の一途を辿ります。神の民は、みことばに耳を傾けなくなり、偶像礼拝は続き、弱い者が虐げられました。ですから、この書はハバククによる神様への嘆きと訴えによって始まっています。1章2-3節をご覧ください。
2節 いつまでですか、主よ。私が叫び求めているのに、あなたが聞いてくださらないのは。「暴虐だ」とあなたに叫んでいるのに、救ってくださらないのは。3節 なぜ、あなたは私に不法を見させ、苦悩を眺めておられるのですか。暴行と暴虐が私のそばにあり、争い事があり、いさかいが起こっています。
ハバククは、滅びに向かうユダ王国の現状を激しく嘆き、神様に救いを訴えていたのです。「いつまでですか」「なぜ見過ごしておられるのですか」と問いかけ訴えていますね。自国の窮状、堕落の中で神様が黙って見ておられるように思えたのです。これらは、しばしば私たち自身の叫び、訴えであるようにも思います。預言者は非常に信仰深く強い人のように思えます。しかし、みことばを味わう時、私たちと同じように弱さを持つ普通の人であったと分かります。
神様はハバククに答えます。このイスラエルの惨状に対して、カルディア人の国バビロンを用いて、さばきをなさる計画を持っていたのです。しかし、自分たち以上に不道徳なバビロンによって滅ぼされるというのです。ハバククが納得できなかったのも無理はありません。ただ、神様は一時的にバビロンを用いて、ユダを滅ぼさせ、後にバビロンへもふさわしいさばきをなさるご計画でした。
その時については、2章3節に主の答えとしてこうあります。
2:3 この幻は、定めの時について証言し、終わりについて告げ、偽ってはいない。もし遅くなっても、それを待て。必ず来る。遅れることはない。
私たちの目には遅いと見えても、必ず神のさばき、神の救いはなるのです。遅れることはないということです。事実、バビロンはペルシャに滅ぼされ、その結果イスラエルは自国の回復・復興へと歩みを始められるようになりました。しかも、バビロン捕囚という大きな試練もまた、信仰の回復という大きな救い、勝利のために必要な経験となったのです。そして、今日の箇所3章ではハバククの祈りと賛美、信仰の告白があります。1-2章での神様との対話を通して、疑いが信頼へ、嘆きが賛美へと変わっていきました。
今日のみことば3章17節にこうありますね。17節 いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木には実りがなく、オリーブの木も実がなく、畑は食物を生み出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。バビロン帝国の攻撃によって、精魂込めて育てた農作物がダメにされ、家畜も失われようとしていました。とても悲惨な状況です。
けれどもこう続くのです。
18節 しかし、私は主にあって喜び躍り、わが救いの神にあって楽しもう。
文頭の接続詞は、「しかし、私は」「それでも、私は」と逆境が意識されています。暗闇の時代にありながら、なお神の御手の中にあることが幸いであることを教えています。ハバククは、非常に大きな苦難を見ているのです。にもかかわらず、信じる者の喜びを奪うことはできないのです。ここにある「喜び躍る」ということばは、「大喜びする、歓喜する」との意味です。時に「ウキウキする!(英訳:exult)」といった意味も見受けられます。辛いことがあっても、喜び勇んで主の元に向かうのです。それらは決して小さな喜びではありません。歓喜し、心躍るような喜びです。「楽しもう」のところも同じように「喜ぼう」とも訳せますが、新改訳は「楽しもう」と訳すことで、意味に深みを出しているように思います。
これらの動詞は文法的にはcohortative(勧奨法)というものです。「私は」という一人称の時に使う表現で、他の人がどうであろうと「私は~しよう!」と、自分を励まし、決心していく表現です。環境が悪かろうと、成果がなかなか出ない時であろうと、私はこの方を信頼して、この救いの神にあって喜び躍り、楽しく歩んでいこう!というハバククの信仰を表現しています。励まされるのです。神様に嘆き、訴え、悲観的であったハバククです。しかし、主にその叫びをぶつけ、対話を続ける中で主を知っていったのです。
ここでは、さらに興味深いことに、「わが救いの神」のところに「イェシュア」ということばが使われています。この「イェシュア」は、イエス様のヘブル語名です。ですから、「わが救いの神にあって楽しもう」とは、私たちの救い主イエス様にあって、楽しもうという暗示にも思えるのです。ハバククは、まだ救い主を見ていません。まだ来られていません。見えているのは、自国の堕落と衰退、バビロンの脅威です。しかし、神の救いの恵みを先取りして、信じて喜び楽しもう!と決めたのです。私たちも、主イエス様を見上げる時、そこに救いがあるのです。この方のもとにあるのならば、慰めだけでなく、歓喜し心躍る楽しみさえあるのです。
今は自分の生活、自分の置かれている状況を楽しめないという方も少なくないでしょう。一日を乗り越えるのに毎日必死だという方もあるでしょう。超低空飛行の日々ですと言う方もあるでしょう。しかし、超低空でもいいのです。自分の力で高く飛ぶことは不要です。主がふさわしい時に、引き上げてくださるからです。19節にもこうあります。
19節 私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。指揮者のために。弦楽器に合わせて。
実は、サムエル記や詩篇にも同じように、「私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる」との表現があります。ですから、ハバククが思いついたものではなく、信仰の先輩たちの格言、信仰告白として語り継がれてきたものなのかも知れません。私たちは、切り立った崖を飛び跳ねことなど、到底できないと思えます。しかし、まるで、主が私たちに「雌鹿の軽やかな足」を与えてくださるかのように、軽々と崖を飛び回り、高いところを歩ませてくださるというのです。「神は私の力」であるとある通りです。
私もしばしば恐れを抱きます。自分がそんなにできるとは思えません。体が強いわけでもありません。権力も財力もありません。ゆだねられている責任の重圧に、「負いきれない」と感じるここともあります。やはり恐いのです。しかし、神様のみわざは遅れることがありません。私の目に遅いと見えたとしても、すでに神は新しいことをなさっています。ご計画をもって着々とみわざを進めておられるのです。それを私たちは知らないだけなのです。そこには主の守りがあります。いや、極限の中でさえも主は私たちを喜ばせ、あるいはその救いの恵みを楽しみ味わえるようにしてくださるのです。
昨年30周年を迎えたこの教会も、振り返れば、決して楽だったわけではありません。涙なしには語れない程の様々な痛みや苦悩を通りました。でも、楽しくなかったのか?辛いことばかりだったのか?と言えば、そうではないのです。主にあって喜びがありました。すばらしい主のみわざに感動しました。賛美がありました。そして楽しかったのです。これからも主は楽しませてくださいます。感動を与えてくださいます。
信じているからと言って、危険や苦難がなくなるわけではありません。時に耐えがたいと思える試練も確かに通るのです。私たちの足取りは重く、引きずるようにして、その日を歩むでしょう。しかし、主は雌鹿のように軽やかにし、高く引き上げてくださいます。高いところからの景色を見せてくださるのです。
救いの神にあって、私たちは足取りを軽くしていただきましょう。実際の足でジャンプしなくていいのですが、心は小躍りして飛び跳ねつつ、主にあって楽しむ一年にしようと、信仰をもって決心して参りましょう。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会