その特権を自分のものとするには、どうしたらいいのでしょう。
それが、18節にある「御霊に満たされる」という方法です。実は、今日の中心聖句の20節は、厳密な文章のくくりとしては、18節の「むしろ」からつながっている一つの文の結末なのです。節ごとに文が切れているわけではありません。原文では、18節後半から一つの文が20節まで続いているのです。では、この長い文の主たる動詞はどれかでしょう。それが「御霊に満たされなさい」なのです。
ですから、20節の感謝しなさいの所は、文脈的には「御霊に満たされて、感謝しなさい」ということです。御霊によって、神のみこころを悟り、あらゆることについて感謝できる者とされていくのです。これを知らないために、感謝できないままであります。
この御霊は、他の聖書箇所では「助け主」と言われます。私たちの人生・信仰生活を確かに助けてくださるのです。また別の箇所では、「キリストの心」とも語られ、神のみこころの深みまでも私たちに示すお方だと言うのです。
御霊に満たされるとは、自分の心の統治権をキリストにゆだねることと同じです。ですから、あなたがキリストに自分の心の王座を明け渡し、キリスト中心に生きようとするなら、御霊が豊かに働き、みこころがわかる者とされます。これによって、今まで気づかなかった神の良きご計画やそこにある愛と恵みに気づかされていくのです!!
そうすることで19節にあるように、「 詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美」ができるようになります。主が歌わせてくださるのです。そして20節にあるように、いつでも、すべてのことについて、感謝をささげる者とされるのです。
どなたでも、一見、歓迎できない出来事があるでしょう。けれども、御霊に満たされて、神のみこころが何であるかに目を留めるならば、そこに光が当てられていきます。過去の辛い出来事、思い返したくないような悲しいこと。それらをもう一度、神の視点で、福音の光に照らして見詰め直したいのです。私たちの過去のすべてを福音の側に買い戻していきたいのです。
神の子は、10節にあるように、「何が主に喜ばれることなのか」を吟味する者となることができます。さらには17節にあるように「みこころを悟る賢い者」とされていきます。これらはすべて、「御霊による」のです。クリスチャンでなくても、良いことへの感謝はできるでしょう。しかし、御霊の思いは、良くないと見える中でさえ、感謝の光が見える者とされていきます。
プロゴルファ中島常幸さんのお証しを少し紹介します。中島さんはある時期、イップスという精神的な弱さを持ち、クラブを持つ手が震えてうまく打てないという病になりました。それゆえに思うような成績が残せず、長いスランプを通ったのです。クリスチャンであった奥さんは、ご主人のために祈り支えようとしました。しかし、中島さんは「祈るな!俺はお前の祈りがないと勝てないと言いたいのか!」と、奥さんにも当たったと言います。奥さんはそういう試練の中で、もう一度神様に向き合い信仰面で成長し、一方で常幸さんにも転機が訪れました。テレビ番組で、脳腫瘍にかかったお子さんの姿を通して気づきが与えられました。その時、『人間は生きているだけで素晴らしいんだ』とその子が語りかけてきたそうです。常幸さんは、スランプの中で、『こんな弱い自分は自分ではない』と自分を否定していたのです。しかし、その子のことばから自分はなんと傲慢だったのかと気づかされたと言います。大好きなゴルフができている。たくさんの応援してくださる方がいる。それだけで感謝なことなのだと。その時から、スランプについての考えも変わりました。むしろ、『スランプは、自分に気づきを与えてくれる先生なんだ。このスランプを乗り越えた先の新しい中嶋常幸に会ってみたい』と思えるようになったと言います。
キリストを信じ、御霊によって生きる者ととされ、中島さんはスランプさえも、自分に気づきを与えてくれる先生だと受け止められるように変えられました。彼はこの出来事を「神様の備え」であると振り返っています。キリストなしには、スランプは最悪な出来事でしかありませんでした。奥さんの祈りさえ拒絶していました。しかし、キリストを通して、御霊の助けをいただいて、嘆きが賛美と感謝へと変えられていったということでしょう。
これは、キリストによって神と和解し、御霊に満たされるようになった神の子の特権なのです。人間の目には悪く見えることでも、神様のみこころに目を向ける時、そこには良いご計画があるからです。愚かにも肉の目で見えることがすべてだと考えるなら、感謝もなく、未来への希望も見えないでしょう。それぐらい暗闇の世界だからです。
けれども、一見そう見える世界の背後に、神様の豊かな最善のご計画があることを悟るならば、そこに光が見えます。これは、私たちキリスト者にしかできないことです。この光について証しすることが、神の御霊をいただいた私たちの特権であり、使命ではないでしょうか。
ご一緒に教えられて参りました。みことばは、いつでも、すべてのことについて感謝せよと教えています。それがキリスト者の特権であり、証しとなるのです。ただ、それは肉の思い、自力では不可能です。みことばにある通りに、キリストによって神との交わりを回復し、その上で御霊の満たしによって真の賛美と感謝をささげる者となりましょう。キリストに私の心の統治権をゆだね、キリストの心なる御霊に導いていただくのです!