東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 毎日の聖書【1月分】
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/01/01

毎日の聖書【1月分】



1日 創世記1章
 神がおられる大前提で、「はじめに神が天と地を創造された。」と語られる(1)。
 神の存在は絶対的。この方なしには、世界も私たちもありえない。この方はことばをもって、世界を造られた。「光、あれ。」と(3)。それは主権者であるからできること。この世界のすべては神のものである。神が意志する=その通りに寸分たがわずことが成る!
この神を知ることが知識の初めだ。年の最初にこの方を知ることから始めよう。

2日 創世記1章
「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。」(26)。「さあ」という意欲が現れている。私たちは偶然存在するようになったのではない。なにせ25節までに、神は人が生きるのに必要なものを、既に備えておられたのだ。準備が整い、「いよいよ!」という段階で、「さあ!」と喜んで神は人を造り、人に世界を治めさせようとしていることがはっきりわかる(26~28)。神のご計画だ。
 あなたも偶然そこにいるのではない。意志され、意図をもって、意味ある者として神の熱心な意欲をもって造られたのだ。それを知らないなら、生きる意味も見えなくなる。神のかたちにデザインされ、神の熱心さ、情熱のうちに造られたあなたであると知ろう。

3日 創世記1章
「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。」(26)。
「われわれ」という複数形には意味がある。神の偉大さを表す複数形との解釈もあるが、個人的には三位一体の神に似せてという意図だと考えている。神は「愛の神」、いつも父、御子、御霊で仲睦まじく愛し合い、協力してこの世界を支え、人を導いてくださる。そのような愛の交わりを互いに持てる存在として人は造られた。だから、三位一体の神にならって、夫婦は一体となる(27,2:24)。教会の交わりも、この神の交わりを目指し、求めていくものだ。愛に生きることこそ、この神に似せて造られたことの大切な意味であろう。

4日 創世記1章
【また、生きるいのちのある、地のすべての獣、空のすべての鳥、地の上を這うすべてのもののために、すべての緑の草を食物として与える。」すると、そのようになった。】(30)
 神は動植物を、人間の食べ物として与えてくださった。あくまでも「与えられた物」であるとわかる。どれも神からの授かり物なのだ。それを人が忘れる時、感謝の祈りもせずに食べ、無駄に残して余らせ捨てる。しかも、ここの最初には「生きるいのちのある・・・」と語られている!いのちをいただいて生きていること、忘れないようにしよう。

5日 創世記1章
【神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。】(31)
神の創造のみわざはカンペキだ。それは完全であるだけでなく、良かった。それも「非常に良かった」。しかも、人の目に良かったのではなく、全知全能の神の目に「非常に良かった」のだ。そのようなすばらしい世界を与えられた私たちだ。
 けれど、それを汚し、破壊し、それゆえに自分で自分の首を絞めているのも、私たち人間だ。人の罪深さと愚かさがそこにある。もう一度神の最高のデザインがあったことに目を留めよう。非常に良い物を確かにいただいている。あとは、私たちがそれをどのように用いるのか?ゆだねられた者として、ふさわしく用いていこう!

6日 創世記2章
 創造の働きを完成をさせたので、7日目には神はすべてのわざを「やめられた」(2)。7日目は何もしない日として備え、この日を聖なる日、安息の時となさった。人は自分を造ってくださった神にならい、この日を休み、神を礼拝する日として、身も心も安らぐべきである。止まることなく働きすぎて健康を害し、家族が壊れていく。
 そして、7節にはこうある。【神であるは、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。】人はなぜ生きていられるのか?肉体だけでは生きられない。神が「いのちの息」を吹き込んでくれたからだ。神の息吹によって生かされていることを忘れないで歩もう!

7日 創世記2章
 罪人となった私たちの目は、この世界をまっすぐに見られず、歪みをもって見てしまう。だから人を妬み、無駄に比べ合ってしまうこともある。神は確かに、「善悪の知識の木からは、食べてはならない」(17)と命じられた。そこにばかり我々の目はいきがちだ。なぜ、そんな禁止をされたのか・・・と。しかし、その直前の16節にはこうある。【神であるは人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。】なんと言うことだろうか。「どの木からでも」「思いのまま」に食べてよいと言われているのだ。そして、よく見ると「食べてはいけない」と命じられたのも、「あなたは必ず死ぬ」と警告されているように、死なないようにとの神の愛の願いが理由となっている。こうした愛と恵みを見ないで、禁止されたところにばかり目がいくのが我々ではないだろうか?

8日 創世記2章
 神は人を造り、美しいエデンの園に住まわせ、管理させてくださった。時々、労働は罪のゆえに生まれた産物だと考える人がいるが、実はそうではない。労働は幸せな行為、恵みであった。罪が入る前の人間は、エデンの園を耕し、管理していたのだから(15)。
 さらに神は、人が「ひとりぼっち」になることは、良くないことだとおっしゃった。人には仲間が必要だ。だから、「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」(18)と言われている。人はひとりでは弱る。人は友の存在によって成長するとも聖書は語る(箴言17:17)。人との関りは怖さもあるだろう。でも、人との交わりは私たちにはなくてはならない、大切ないのちの源であることを忘れちゃいけない。

9日 創世記2章
【神であるは、その土地の土で、あらゆる野の獣とあらゆる空の鳥を形造って、人のところに連れて来られた。人がそれを何と呼ぶかをご覧になるためであった。人がそれを呼ぶと、何であれ、それがその生き物の名となった。】(19)
 神は人の前に、あらゆる動物、鳥たちを連れて来られた。そして、人間にその動物たちの名前を付けさせた。人間はこうして、この世界の様々な生物の名づけをする立場、この世界を治める権威を与えられていることがわかる。同時に、どの動物も個性的ではあるが、人にふさわしい助けてにはなり得なかった(20)。こうして、男性と対等の価値、立場である女性を造られた。アダムの頭からではなく、足からでもなく、あばら骨という体の真ん中の部位から女性を造られた。こうして、男性、女性は互いを必要とし、結婚して夫婦となる時に、二人は「一体」となる(24)。それこそ三位一体の神の姿にならい、それを理想として!

10日 創世記3章
 蛇の姿を取った悪魔は、エバを誘惑した。神が「食べてはいけない」、「必ず死ぬ」と言われた善悪の知識の木の実。しかし、蛇は言う。「それを食べても死なない。むしろ目が開かれ神のようになれる」と。エバは、その偽りの声に惑わされ、食べたい誘惑に負けて食べてしまった。夫であるアダムも、もらってそれを食べてしまった(6)。何の抵抗もせずに! 
 悪魔は、少しも強制させていない。エバが惑わされ、自分の意志で食べてしまった。アダムも強制されていない。エバから勧められ食べてしまった。人は、結局、自分の意志で選んで罪を犯している。しかも、それを誰かのせいにしてしまう罪も二重に犯してしまう。
 アダムはエバのせいにし、エバは蛇のせいにした。さらには、その蛇を造った神、エバを与えた神をも責めているようにも見える(12-13)。
 他人のせいにせず、自らの意志で選び取っている責任と向き合う必要があるのではないだろうか。

11日 創世記3章
 罪を犯して身を隠したアダムとエバに、神である主は語りかけた。「あなたはどこにいるのか。」と。罪は人間を神から引き離す。やましいことがある人は、自分を隠す。
 この時の人間の心境は「恐れ」であったとわかる(10)。恐れて怖くなり、身を隠したんだ。裸のままで神の前に出ることができなくなった。神はそれが人の不幸の始まりであることをご存じで、こうして呼びかけてくださった。「あなたはどこにいるのか」と。我々も神から呼びかけられている。この声に耳を傾け、神の前に居続ける者でありたい

12日 創世記3章
【神であるは蛇に言われた。「おまえは、このようなことをしたので、どんな家畜よりも、どんな野の生き物よりものろわれる。おまえは腹這いで動き回り、一生、ちりを食べることになる。わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」】(14-15)
 人間を神から引き離そうと誘惑した悪魔に、神はさばきを宣言された。人が罪を犯してすぐの場面。すでにそこに、キリストによる勝利の宣言がなされていることは、人にとってなんて心強いことだろうか。「女の子孫」という表現は、マリアから生まれることを想起させる。人間の子孫として生まれたキリストが、やがて蛇に象徴される悪魔を打ち砕く。悪魔にできることは、せいぜい「かかとを打つ」程度のことだ。頭や心臓を攻撃できるわけじゃない。腹ばいなので、所詮足元だけ!?キリストの勝利は確定しており、キリストにつく者の勝利も同様だ。

13日 創世記4章
 人類最初の殺人事件は、兄弟を殺すというものだった。兄カインは弟アベルに嫉妬し、彼を殺してしまった。事の発端は、それぞれが神にささげ物をした時だった。なる神は、「アベルとそのささげ物に目を留められ」、しかし、「カインとそのささげ物には目を留められなかった」(4-5)。それでカインは激しく怒り、顔を伏せた(5)。
 カインは弟のアベルのささげた物が神に受け入れられたのに、自分のささげた物が受け入れられなかったことが我慢ならなかった。ここでのポイントは、神がご覧になったのはささげられた物よりも、ささげたその人であったということ。カインは神の前に正しくなかった。しかも、アベルを殺す必要など一切なかったが、妬みからの怒りを抑えられず、殺意となった。人間の憎しみ、殺意は、案外小さなプライドや嫉妬心などから起こる。神の前に正しくあることを大事にしよう!妬みや怒りを正しく管理できるよう、その助けを神に祈り求めよう。
 
14日 創世記4章
 深く考えもせず、感情のままに弟に手をかけてしまったカイン。彼は、自分のしたことの重大さを神から示され、その報いを受けるという現実を知った時、到底担い切れるものではないと実感した。「私の咎は大きすぎて、負いきれません」(13)。それに加えて、彼には常に「恐怖心」がついてまわることになった。「私を見つけた人は、だれでも私を殺すでしょう。」と言っている(14)。
 感情のままに血のつながった弟を殺したカイン。だから、他の人も同じように自分を「安易に殺す」と思えてしまったのだろう。殺人罪が明確に定められていない時、人は思ってるよりも簡単に気に入らない人を殺してしまうような性質を持っているのかも知れない。法(律法)に守られていることに気づかされる。
 神は、このようなカインの叫びさえも聞いておられた。「カインを殺す者は七倍の復讐を受ける」と告知され、彼をも守ってくださったのだ。神のあわれみ深さを感じずにはいられない。

15日 創世記5章
【アダムは百三十年生きて、彼の似姿として、彼のかたちに男の子を生んだ。】(3)。
 神が人を創造した時、神の似姿として、神のかたちに創造した。それと同じように、人間は自分に似た存在として子を生む力を神から授かっている。だから、親は育てやすい。もちろん愛着がわきやすいという点もあるし、自分の持っている体の弱さ、苦手な部分、それをどう補うかも教えてあげられるだろう。これが、あまりにも似ていないと、助言もしにくいことだろうと思う。子も、親を見て育ち、親をまねて成長する。だから、その持っている特徴、性格などが、ある程度に通ていることは、子どもにとってもありがたいことのはずだ。似た者として生む力・・・もっと神に感謝し、評価すべきことに思える。

16日 創世記6章
主は、地上に人の悪が増大し、その心に図(はか)ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。】(5) 年数を重ねるごとに、世代が代わるごとに、人の罪はより深刻に、より悪が増大した。神はその人間の考えること、なすことがいつも悪に傾くのを見て、心を痛めておられた。6節では、神は地上に人を造ったことを、「悔やみ、心を痛めた」とある。
 それは本当に残念なことだった。なぜ、神は悔やんだのだろうか?なぜ、心を痛めたのだろうか?それは、神が人にもっと良いものを期待していたからだろう。正しい良いものを生み出し、この世界を豊かにする姿を主は期待していたのだと思う。本来、人にはそれができるからだ。今、私たちは、キリストによって神との交わりを回復し、それができる者とされている。この恵みを大切にしよう。もう神が人を造ったことを悔やまないで済むように。

17日 創世記6-7章
 6章の22節で、ノアは「すべて神が命じられたとおりに」行ったと語られている。それはまだ、雨が全く降っていない晴れた日だった。でも、ノアは箱舟を造りはじめ、やがて動物たちを集めてそこに入れた。すべて、主が語られたとおりに
 それで、7章1節に、主は言われた。「あなたがわたしの前に正しいことが分かった」と。なお、7章5節でも同様に「すべてが彼に命じられたとおりにした」と繰り返される。まさに、ノアは「主の心にかなっていた」(6:8)とある通り、そして「全き人であった」(6:9)とある通りだ。高い能力を持っていることや、地位や名誉があることではない。学校や職場で高い評価をされることではない。ただ、私たちは神の前にまっすぐ歩むなら、神の心にかなう人として、主に喜ばれるんだ。

18日 創世記7-8章
 40日40夜、雨は降り続き、高い山々までも水におおわれた(7:20)。陸地がなくなったので、鳥たちまでもやがて力尽きて消滅したようだ(7:23)。150日もの間、水は増え続けたと言うのだから(7:24)神のさばきの徹底ぶりがわかる。それは、私たちにとってはとても厳しさを感じ、厳粛な思いにさせられるもの。
 しかし、唯一神を覚えて、神を恐れて生きるノアの存在によって、ノアに従わせられた動物たちも守られた。8章1節では、「神は、ノアと、彼とともに箱舟の中にいた、すべての獣およびすべての家畜を覚えておられた。」とある。神のみことばに従っていながら、なおその人や動物を滅ぼすことなど、神は決してしない。どのような時でも、あなたが神に従う時、神はあなただけでなく、あなたに従う存在をも守ってくださるのではないだろうか。

19日 創世記8章
 大洪水の水は、150日の終わりに減り始めた(3)。ようやく山々の頂上が姿を現した(5)。ノアは、様子を見ながら最初はカラスを、続いて鳩を窓から解き放ち、陸地が現れてきたかどうかを調べた。11節では、鳩がオリーブの若葉を加えて戻って来た。ようやく地上に戻れるようになりつつあったのだ。さらに7日後に鳩を放った時、もう鳩は戻っては来なかった。帰るべき場所を見つけられたということだろう。
 長い箱舟生活だったが、ノアとその家族は地に降り立ち、新しい歩みが始まった。ここに私たちは神のさばきの厳しさを見るが、同時に、神に従う者へのあわれみをも見つけられる。ノアは主のために祭壇を築いた。これはノアの神への礼拝だ(20)。21節で、「主は、その芳ばしい香りをかがれ」「決して再び人のゆえに、大地にのろいをもたらしはしない」と考えられた。人の罪は醜悪で、良き世界を破壊する。神はそれに対するさばきの厳しさをこの時代に示して、後の時代の私たちへの警告とされた。ノアのように、神の声に従い、神をあがめ礼拝する者として歩んでいくことを大切にしよう

20日 創世記9章
 神は大洪水の後、ノアとその息子たちを祝福された。そして、再び「生めよ。増えよ。地に満ちよ」と命じられ(1)、新しいスタートを祝い、新たにこの地を正しく治めるよう命じられている(2)。神はこのように、従う者にやり直しをさせてくださる。
 それとともに、新たな命令として様々な動物を「血のあるままで食べてはならない」と言われた(4)。生で血を飲むように食することは衛生的にも問題だった。ただ、それだけでなく、血はいのちであり、いのちのためには血の価(あたい)を要求すると教えられている(4-5)。神は人間を「神のかたち」に造られた。その人間のいのちの重さを、血を食さないことを通して教えている。人の血を流す者は、人によって血を流される(6)ともある。
 「食べてはいけない」と言われると、私たちは戒めとして否定的に受け取りがちだ。しかし、これを守ることが、いのちの重さや尊さを学ぶ最良の機会となった。キリストの十字架の血潮もまた、これを守り続けた民にとってより大きな意味を持ったはずだ。

21日 創世記10章
 ここはノアの息子の系図だ。セム、ハム、ヤフェテのそれぞれに多くの子が生まれ、多くの民族が誕生していった。神は大洪水の後、人の子孫の繁栄を祝された。しかも、その経過で罪が増し加わり、多くの野蛮な罪深い民族が生まれ出ることを神は知っておられたにも関わらず・・・。エジプト地方の民、バビロン地方の民、ペリシテ人やソドム・ゴモラ地方の民など、この後、非常に罪深い姿で登場する民族について触れられている。
 ひどい悪を生み出すと知ってなお、神は人間を尊重し、いつでも悔い改める機会を与え、立ち返りを待ち望んでおられた。滅ぼすことなど一瞬でできる神。しかし、その悪があるままで尚、忍耐深く生かしてくださったところに神の忍耐深い愛を感じずにはいられない。

22日 創世記11章 
 この時まで、全地は一つの共通のことばを持っていた(1)。それはとても便利で、通訳も不要だし、外国語の学びも不要ということになる。それで、人々はある目的のために協力的に事業を行った。その目的は、神に向かって高い塔を建てるというものだ。4節によれば、「自分たちのために」「名をあげよう」とあり、人が自分を高き者にしようという欲望が垣間見える。
 しかし、主はこれをご覧になり、神が与えてくださったコミュニケーション・ツールである「ことば」を、このような悪いことのために用いるなら、ことばを混乱させようと言われた(7)。せっかく与えられている良いもの、神からのプレゼント(賜物)。それを悪しきことのために用いてはならないと教えられる。むしろ、神の御名をたたえるために、良い知らせ(福音)を伝えるためにこそ、ことばを用いたい。新約で、主イエスが「ことば(ロゴス)」と表現されていることにも目を留めたい。

23日 創世記11章
 「バベルの塔」を作ろうとした人々の動機の中には、「われわれが地の全面に散らされるといけないから」(4)という動機があったことがわかる。神は当時、人に対してどのようなご計画をお持ちだっただろうか。ノアの洪水の出来事の後に「生めよ、増えよ、地を満たせ!地を従えよ!」と命じられていたことを思い出す。世界中へと増え広がり、この地の全域を神の造られた人間が正しく治めるようにせよ!ということだ。
 ところが、人々は散らされることを喜ばず、そうならないよう一致して高い塔を建て、神に反抗したということだ。一緒にいることが悪いはずがない。しかし、神のみこころに反対し自己中心に歩もうとする姿勢が問題だった。それは神のみこころよりも、自分たちの思いを優先する行為。しかし、今、私たちは神の「ことば(ロゴス)」なるキリストにあって一つとされることができる。神のみこころを第一にする時、私たちにはキリストの福音にあって一つとされる恵みがあることを覚えたい。

24日 創世記12章
 多くの場合、私たちは自分の計算でばかり動く。計算が立ち、問題がなさそうで、見通しがきく段階で踏み出したいのである。しかし、信仰の旅路はそうではない。しばしば、先がまるで見通せない中で、神に「行け」と言われれば「行く」ということがある。アブラムはその代表者のようだ。1節で「わたしが示す地へ行きなさい」と主は言われたが、具体的な場所は示されていない。行先も分からない中で、ただ神の道こそ幸いな道だと信じて進んだ。
 実は信仰の旅路に限らず、そもそもこの世界自体、人間の計画通りには少しも行かない。不規則なものや突発的な要素が多くある。そうであるならば、それらのすべてをご存じで、支配しておられる神に従わないとは、なんと不安定なことだろうか! アブラムは神のもとにこそ平安と祝福があると信じて従ったのだ。私たちもそうでありたい。

25日 創世記13章
 アブラムはエジプト~ネゲブと移動し、ベテルとアイの間に滞在した。ところが、5節にあるようにたくさんの羊や牛の群れがあったが、放牧地が十分ではなかったのだ。そして、ついに7節にあるように、アブラムの牧者たちとロトの牧者たちの間で、つい争いが起こってしまった。そこでアブラムは8節で、彼は「争いがないようにしよう」とロトに相談した。
 その中で注目すべきは、「私たちは親類同士なのだから」ということばだ。「親類」とは「兄弟」とも訳せることばだ。私たちは神の家族、兄弟なのだから、争って結論を出すのではなく、争わないで解決しようとアブラムは考えたのだ。「その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた」と7節にあるように、目と鼻の先に異邦人がいた。彼は異邦人を前にして、自分たちが内輪もめをすることはふさわしくないと考えたのだ。私たちも教えられる。しばしば、クリスチャン同士が争ってしまい、外に対して一致も協力もなく、証しにならないことがある。戦うべき相手を間違えてはならないと教えられる。

26日 創世記14章
 ソドムに住んでいた甥のロトや財産が奪われた(12)。奪ったのは、エラム国のケドルラオメル王とその連合軍だった(1-11)。そこでアブラムは奮起し、318人の仲間を連れて戦い、彼らから財産や親類、他の人々もみな助け出した(14-16)。その時ソドムの王は、ほぼ何もできなかったくせに、ソドムの住人を自分のもとに返し、財産だけはあなたが取るがいいと言った(21)。当時のルールでは、取り返した者が所有者になるが、ソドムの王は不公平な取引をしようと近づいたのだ。
 その時アブラムはどのように応じたのだろうか。「私は、いと高き神、天と地を造られた方、主に誓う。糸一本、履き物のひも一本さえ、私はあなたの所有物から何一つ取らない。それは、『アブラムを富ませたのは、この私だ』とあなたが言わないようにするためだ。・・・」(14:22-23)。欲がなかったわけではないだろう。でも、アブラムはそれを平然と放棄した。ソドムの王に『アブラムを富ませたのは、この私だ』と言わせないためだった。アブラムは、ただ神からの恵みだけで十分だ!と信じていたからだ。私たちもこの信仰に歩みたい。

27日 創世記15章
 14章で、人間に富ませてもらう必要はないと考えたアブラムだった。むしろ、そう言わせないようにさえした。そのすぐ後、この15章で神が驚くほどの祝福を約束されていることは、とても興味深い。「神だけが私を富ませる」という信仰が、確かなものであることを証明している。幻のうちに主はアブラムに現れ、「あなたへの報いは非常に大きい」と言われた(1)。何をくださるのかと問うアブラム(2-3)。神はアブラムを外に連れ出し、言われたのだ(5)。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」と。さらに主は、「あなたの子孫は、このようになる」と言われた。
 人類は、現代の科学力をもってさえ、宇宙の星の数を正確に割り出すことはできないだろう。「数える」という最も原始的な作業すら、人は未だに完全にはできないのだ。人知をはるかに超えた神の力を前にし、同時に、数えきれない星のごとくに子孫を与えるとの約束を受けたアブラム。なんとスケールの大きな神だと感じたことだろう。6節で、「アブラムはを信じた。それが彼の義と認められた。」とある。私たちはこのお方の前に、ただへりくだり、このお方をただ信じて歩もう。

28日 創世記16章
 アブラムとサライの夫婦は、ここで人間的な弱さに陥った。神の契約があるにも関わらず、サライは自分には子を産めないと考え、女奴隷ハガルによって子孫を残そうと決めた(2)。これは、サライだけでなくアブラムも同意をし受け入れている。アブラムは妻に、「それは違うのだ、主が私たちに子を与えるのだ。信じよう!」と言えなかった。
 人間的にはとても現実的であり、確かな方法に見えたのだろう。しかし、私たちの歩みを確かになさるのは神である。結果、ここに家庭の問題が増し加わってしまった。ハガルは身ごもったゆえに、主人であるサライを見下すようになった。アブラムとサライの夫婦仲も悪くなった(4-5)。神のみこころを軽く見てしまい、人の目に良いと思える道を選択してしまう時、意外にも自分で自分の首を絞めていることになる。詩篇16篇2節にあるように、「あなたこそ 私の主。 私の幸いは あなたのほかにはありません」と告白して歩みたい。

29日 創世記17章
 人生にはいくつかの節目と思われる時がある。転機と思われる出来事がある。聖書ではそのような時に、神から新しい名を与えられるということがある。「アブラム」は、この17章で「アブラム」という新しい名を与えられた。1節によれば、この時「99歳」を迎えていた(16章最後では86歳)。人は何歳であろうと、神の転機を迎えることができる。遅すぎることはないのだ。
 さて、一見、あまり変わっていないように見えるが、新たな意味がそこに加わっている。「偉大なる父」という漠然とした意味だったが、「群衆(ハモォン)」という意味が加わり、「多くの国民の父」という意味となった。神の約束がより明確に、より前進していることが分かりやすく示された。この直前、アブラハムは失敗をした。人間的な方法で子孫を増やそうとし、神に頼らなかったのだ。それにも関わらず、神は約束を進めてくださった。神とはこういうお方だ。失敗しても、何度でも神に立ち返ろう!

30日 創世記18章
 3人の人がアブラハムとサラのもとを訪れた。おそらく天使と考えて良いだろう。そして彼らは、いよいよ息子の誕生を預言した。来年の今頃、「サラには男の子が生まれています」と(10)。しかし、サラは信じられず、バカらしくて、心の中で笑った(12)。驚いたことに、心の中で笑ったにも関わらず、この3名にはわかってしまった(13)。
 このサラの笑いに対して、「主にとって不可能なことがあるだろうか」(14)と、彼らは語った。サラは恐ろしくなって、とっさに「笑っていません」と打ち消している(15)。簡単に言えば、ウソをついてごまかしたのだ。私たちには、信じられなくて、無理だと思い込んで笑ってしまうことがしばしばある。でも、この笑いをなくしたいと思った。私たちの教会の会堂建設も「とても無理だ」と多くの人が思った。でも、事は成った。神のみわざだ。最初からあきらめて笑うところからは、何も始まらない。馬鹿にされても真剣に神に祈り求め、夢を語り合うところに、神のみわざは起こり始めていくのだ。

31日 創世記18章
 18章後半はソドムとゴモラの町の滅びが語られている(16節以下)。しかし、ただ滅ぼされたという話ではなかった。神はその滅びのことを人間であるアブラハムに告げるべきだとお考えになられた(17-19)。ここがとても大切だと思わされる。神は人に、ご自分の計画を伝えてくださる。相談してくださる。警告してくださる。だから、アブラハムも神に懇願した。少しでも正しい人がいれば、この町を滅ぼさないで欲しいと伝えた。
 全知全能で全権を持っておられる神と、小さな有限な人間が、このように語り合えるとはなんという神のあわれみだろうか。人と語り合い、人の声に耳を傾けてくださる神の姿がここにある。神は私たちに、このようにご自身と語り合う交わりを求めてくださっているのだ。神との対話は、人間の特権だ。なぜ、この特権、この恵みを十分に活かしていないのだろうと改めて自戒させられる。


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

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