*** 3/10(日)主日礼拝 説教概略 ***
皆さんは「命令」と聞くと、どのような印象を受けるでしょうか。あまり好きな人はいないのではないでしょうか。特に現代の日本社会ではそうでしょう。かく言う私も命令をするのも、されるのも得意ではありません。しかし、命令ということばを使わなかったとしても、命令は私たちの日常に必要なものです。
子どもに何の命令もしたことがない親はほぼいないでしょう。学校の先生も、すべきこと、すべきでないことを命じなければなりません。例えば「宿題をやりなさい」とか、「いじめてはならない」などです。これらは大切な命令ですよね。
職場ではどうでしょう。適切な命令を下せないなら、その上司は指導力がないと評価されてしまうのではないでしょうか。もしそれが戦場であれば、速やかな命令がなければ死に直結するでしょう。
少なくとも健全な命令というものがなければ、秩序が失われ、時にいのちが失われ、社会は崩壊してしまうでしょう。
しかし、私たちが命令を嫌ってしまう理由も確かにありますよね。それは、悪い命令や理不尽な命令があふれているからではないでしょうか。上の者が自分の欲を満たそうと命じて、下の者をこき使い、従わない者には不当な圧力(パワハラ)を加えるからです。
しかしながら、今日のみことばでは「神の命令は重荷とはならない」と語られています。なぜ、重荷とはならないのでしょうか。三つの点から教えられます。
第一に、「愛しなさい」との良い命令だから。
第二に、神の愛から出た命令だから。
第三に、世に勝利する命令だからです。ご一緒に教えられましょう。
1.「愛しなさい」との良い命令だから
神の命令が重荷とはならない第一の理由は、命令の中身が「愛しなさい」という良い命令だからです。まず、私たちは造り主なる神様を愛するようにと聖書から教えられています。そして、神を愛するならば、当然の帰結として、神から生まれた者をも愛するのです。1-2節です。
1節 イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。
2節 このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。
神の子を憎んだり、傷つけたりするならば、それはその生みの親である神様に敵対することになりますよね。自分の子を傷つけられて、何とも思わない親などいないからです。ですから、私たちは、お互いの存在の背後に、犠牲をささげて彼らを生み出し、愛しておられる神様がいることを覚えるのです。
学生の頃に、クリスチャンの先輩がお付き合いしている女性のことについて話してくれました。彼女を傷つけることは、神様を傷つけること。なぜなら彼女は自分のものではなく、神様の大切な子どもだから。そのような視点で話していることに教えられたものでした。
教会の兄弟姉妹は神様の子どもなのです。もっと言うならば、クリスチャンどころか、すべての人は、神様から愛を込めて造られたひとりひとりです。あなたと同じように、嫌いなあの人もまた神に愛され、大事にされている存在なのです。憎らしいあの人のためにも、イエス様がいのちを注がれたのです。
手前味噌で申し訳ありませんが・・・。大きくなってから子どもたちに質問したことがあります。好奇心での問いかけでもありました。私なら反発しそうだったので・・・
「我が家は結構厳しく指導してきた。漫画も聖書漫画以外は、ある時まで所有禁止。他の子がスマホを持っている時にも、高校生にまでは持たせない。スマホの時間制限、門限など。他にも色々厳しかっただろうと。でも、それに対してあまり反発をしなかったけれど、なぜか?」と聞きました。
すると、その答えの一つとして、このような答えがありました。「確かに他の多くの子たちより、うちは厳しかった。でも、きちんと理由が説明されていたし、それが納得できるものだった。『そうだな』と思える筋の通った(良い)内容だったから」と。
足りない指導だったことは明白です。失敗だらけです。でも、神様に従って伝えてきたゆえに、子どもたちも納得できて、それに従うことができたのだと教えられます(神から出た教えゆえに)。筋の通らない命令、不当な命令は反発しかねかないでしょう。しかし、神様から教えられた愛の命令は、良い教えなので重荷とはならないのです。
2.神の愛から出た命令だから
神の命令が重荷とはならない第二の理由は、神の命令自体が私たちを幸いにするための愛に満ちた命令だからです。この命令が神の愛から出ているからです。3節の最後に「神の命令は重荷とはなりません。」とありますね。
この命令ということばは、実は複数形なのです。英語では「commandments」と、わかりやすく複数に訳されています。ですから、多くあるうちの一つの命令だけが重荷とならないという話ではないのです。あえて訳すなら、神の命令たちは(神の様々な命令はどれも)、重荷とはならないという意味が背景にあると考えられます。
実際聖書には多くの、そして様々な神様の命令がありますが、どれも愛の神から出ている命令です。そのどれも重荷とはならないと言っているのです。なぜでしょう?それらのすべての命令が、私たちを愛するゆえの、私たちの最善を願うゆえの命令であるからです。
そうは言っても、神様は時々私に厳しすぎますという方もあるでしょうか。その命令、その指導、その懲らしめが厳しすぎるのだと。本当に愛はあるのかと疑うこともあるかも知れません。
けれども、本当に愛するからこそ、厳しい命令も与えるものなのです。子育ての学びでよく引用される箴言13章24節にこうあります。
箴言13:24 むちを控える者は自分の子を憎む者。子を愛する者は努めてこれを懲らしめる。
愛するからこそ、子を叱り、時に厳しく教え導くのです。それを抜きにして、子どものわがままを尊重することは、子を本当の意味で愛していないのだとみことばは教えています。なぜなら、厳しい命令、厳しい指導がないと、子どもたちはわがまま三昧となり、結局は不幸な道に迷いこんでしまうからです。
ここには、「努めて」懲らしめるとさえあります。子どものために決意して、努力して叱るのです。なぜ決意と努力が必要なのか。それは、子どもを厳しく叱ることは親としても「辛い」からです。誰も嫌われたくないのです。
私の母が幾度か、「あなたが大事だから叱るのだ」と涙しながら、私を叱ってくれたことは、やはり記憶に残っています。厳しさの中に愛を感じたものでした。
また、時間をかけて話すのは犠牲が必要です。楽な仕事ではないのです。アグネスチャンという方の子育ての著書を読んだことがあります。クリスチャンで、教育学博士号を持つ人です。彼女は、子どもが自分の愛をわかっていないと気づいた時に、なんと7時間もかけて愛を伝えたと言います。骨の折れる仕事です。犠牲が半端ないです。家事もできなかったでしょう。私なら忙しくて出来ないと考えてしまいます。
愛するからこそ、犠牲を払いながら、その子の最善を願い、何が正しいのかを教えていくのです。そして愛するゆえに、時に厳しい命令をもするのです。
先ほど、子どもたちになぜ反発しなかったのか?という率直な質問をしたとお話しました。その時に、別の答えもありました。それは「厳しかったけれど、愛されていると感じたからだ」というものでした。私たちは、愛においても不完全過ぎる親でした。誇れるような子育てはできていません。それでも、子どもたちがそこに愛を感じられたことは、背後にある神様のご愛のゆえ、多くの方の祈りとご指導のゆえでしかありません。
ここから改めて教えられるのは、聖書の言う通り、「重荷とはならない命令」があるということです。愛から出ている良き命令は、たとえ厳しくともその愛が伝わるのです。愛からのものなら、人は前を向いて従えるのです。真の愛から出た命令は重荷とはなりません。
3.世に勝利する命令だから
神の命令が重荷とはならない第三の理由は、神の命令が世の悪しき誘惑に勝利するものであるです。4-5節に語られています。
4節 神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
5節 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。
ここで言う「世に勝つ」とは、この世の罪の誘惑や悪しき習慣、引いてはその背後にある悪魔に対する勝利だと言えます。赤信号、みんなで渡れば怖くないと、皆がしていれば正当化されるのが「この世」です。
むかつく相手は、愛さなくていいのだ。むしろ傷つけてもいいのだ。目的のためには悪いことにも目をつぶれ。そうした声にあふれています。この世を牛耳ろうとする悪魔の命令に従う時、人は自分の心を殺し、互いにつぶし合ってしまうのです。さばき合い、憎み合い、足を引っ張り合います。しかし、私たちはそこに立たない道、むしろ人を赦し、愛し、神の前に正しく生きるようにとの、神の命令をいただいているのです。
神に造られた私たち人間の良心においては、悪いことを命じられることほど苦しいことはありません。筋の通らないルールに従わせられることは苦痛です。実際、この世では往々にしてあります。社会人時代、私はそれを体験しました。これはまずいことなんでは?正しくないことでは?そう思えることも、上司から命じられました。その命令は苦痛でした。自分の心が「これはおかしい!」と、「マナーや法令に反するのでは?」と心がアラートを発していました。上司に食い下がり、何度も議論をしたのを思い出します。どこの組織でも、悪いこと、良くないことを「させられる」という戦いがあることでしょう。出世したいなら、多少の汚いことには目をつむれと言われるのです。
その時からすると、牧師の働きはなんと幸いなことかと思わされます。いつでも正しいこと、良い命令に従っていればいいのですから!
そう思うと、神様のご命令は本当に良いもので、「正しいことをせよ」、「愛しなさい」と命じていただけることは、なんと幸せなことでしょうか。
正しい良いことをして、何のお咎めも受けずに、それをまっすぐ評価してくださる方が私たちの天のお父様なのです。なんと嬉しいことでしょうか。だから、神の命令は、重荷とはならないのです。それは決して当たり前のことではありません。でも、この世に勝利する神の命令をいただき、それを喜びとして仕えることができるのです。最後まで、この良き命に生きる者とならせていただきましょう。
ご一緒に教えられて参りました。主は私たちに語っておられます。
わたしの命令は愛の命令で、最高に良いものである。これに聴き従うことをあなたの喜びとしなさいと主は言われるのです。私たちにとって、主の命令は全く重荷とはならないと教えられました。それどころか、この命令に従うことは幸いへの道であり、喜びなのです。悪しき声に惑わされず、神の最高に良き命したがって参りましょう。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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