東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ書4章18-25節「望みえない時こその信仰」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/03/07

ローマ書4章18-25節「望みえない時こその信仰」

*** 3/6(水)祈祷会 説教概略 ***

 「きっと大丈夫だろう」とか、「そこそこの確率でこうなるだろう」と思えるものを信じるのに、あまり信仰はいらないかも知れません。それは「確率論」と言った方がいいでしょう。でも、信仰は、確率がどうであろうと関係ありません。たとえ、人の目には0%だと思えるような時でさえ、神様が「そうする」と言われたものはそうなるからです。
 アブラハムの信仰は、望みえない時こその信仰でした。パウロは、その信仰について説き明かしています。



18  彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。 

 ここに、アブラハムの信仰の具体的な姿勢が教えられています。それは、「望み得ない時に望みを抱いて信じ」たということでした。望み得ない時とは、どのような時でしょうか。人間の常識においては希望を持つことが全くできないような時です。

 実際にはどういう状況だったのでしょう。19節です。

19  彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であることまたサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした 

 ここにありますように、アブラハムが100歳。奥さんのサラが90歳という年齢でした。そして、アブラハムにおいても、サラにおいても「死んでいる」ということばが使われています。それは、自分の子を生み出すことにおいては、肉体が死んだも同然の状態であったということです。

 実はここに、神様には、死からもよみがえらせる「いのちの力」があると信じるある種の復活信仰があると言えます。これは、アブラハムがわが子イサクをささげるように命じられた時にもあったものでした。ヘブル書11:18-19ではこうあります。

18  神はアブラハムに「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」と言われましたが、19  彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。 

 ここから、アブラハムは、神様には死者をもよみがえらせる力があると信じるある種の復活信仰があったとわかりますね。

 さて、19節最後の「その信仰は弱まりませんでした」の部分ですが、実は「信仰」は、原文では主語ではありません。どちらかと言うと、アブラハムは信仰において弱まることはなかった」と訳す方が相応しいように思います。信仰そのものがというよりは、その信仰のうちにあってアブラハムが弱くなっていくということはなかったという理解でしょう。神様を信頼するゆえに、あきらめて、弱っていくことがなかったということです

 実は20節も同様です。

20節 不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、 

 とありますが、「信仰が強められて」というよりは、神様への信頼のゆえに、アブラハムが強められてと理解する方が文法的にも、意味的にも自然だと思われます。そのように解釈する学者も少なくはありません。

 私たちは「信仰の強さ」を求めるのではなく、神が力ある強い方であることによって強められるのです。ただ信頼して、神様に力強く働いていただくのではないでしょうか。ですから、21節でも、アブラハム自身の信仰が強いからではなく、神様にこそ約束を果たす力があるのだと、彼が信じていたことが確認されています。

 昨日まで一橋大のクリスチャン学生たちの合宿が、当教会で持たれていました。「信仰の成長、信仰の自立」というテーマでした。そこで、私の方で少しお話したことは・・・
「信仰の成長とは、信仰そのものを見つめることではなく、信仰の対象である神様をみつめ、いかに親しくなるかにかかっている」ということです。

21節でも、信仰が強ければ実行されるなどとは少しも言われていない。神様には実行する力があると、確信しているのだとみことばは語ります。

ここから教えられるのです。
どのような時でも、自分の信仰の強さで乗り切ろうとするとしくじります。信仰自体は神様ではないですよね。信仰そのものに力があるのではなく、主ご自身にこそ力があるということです。この点をどれだけ深く受け止め、この方に信頼して求めていくかが問われているのです。望み得ない時こそ、無理だと自分の考えにより頼むことをやめて、神様にまずは祈り求めていきましょう。

今、福音自由の関東の青年会も、地区のJYLCも一つの過渡期を迎えているように思います。経験のある青年たちが結婚やコロナや、色々な影響で減ってしまった。より若い世代が、コロナで分断された交わりを再建しようとしています。JYLCも、顧問も入れ替わり、スタッフも中心的に担って来たベテランが抜け、若い人が多いようです。

なんだかんだ言って、経験のあるベテランが抜けたことは大きいでしょう。今の委員、スタッフとしては不安でもあるでしょう。今のこの状況で、果たしてどれだけのものができるのかと。このような時こそ、死者をもよみがえらせる主の大いなるみわざに期待し、主に信頼して求める時です。

アブラハムは自分の体が、すでに死んだも同然と思える中で、自分の体を当てにしないで、力ある神様とその約束を信じました。神様には約束したことを実行する力があるし、それをなしてくださる真実なお方であると確信していたのです。

 

人間の常識で考えれば不可能、望みがないと思われる状況が多くあります。どうなってしまうのだろうかと心配になります。しかし、主は真実なお方です。信じてより頼む者、神のみこころを行おうとする者に、力を与えないはずがありません。22節にあるように、アブラハムはこの神様への信頼ゆえに、「それが義と認められた」と語られています。

そして、私たちがどんな時でも主を信頼するの信仰は、多くのキリスト者に良い影響をもたらしますね。励ましになります。信仰は伝染するのです。 23-24節前半。

23  しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、24  私たちのためでもあります。

 アブラハム自身は、後の時代の人々の信仰を思って行動したわけではないでしょう。しかし、神様はそれを後の時代の人のための霊的な教材、信仰の励ましとされたのです。私たちもこのアブラハムの信仰を聞いて、励まされるのです!

 そして、このアブラハムの信仰は、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じる信仰へとつながっていることも教えられます。

24後半~25節 すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。25  主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。 

 ここでは、このアブラハムの信仰がキリスト信仰へとしっかりとつながっていることを意識しているように思うのです。先ほど、アブラハムの復活信仰に触れましたが、まさにここでキリストの復活が語られています。私たちが義と認められる根拠として、キリストの十字架の死と復活があるのです。

 

 ご一緒に語られて参りました。神様には死者を復活させるいのちの力があります。望み得ない時に、望みをもたらす主の力、主の真実があります。私たちはあきらめるのが早すぎます。常識人すぎませんか。人の常識を打ち破る、非常識をなさるほどの神様に期待し、祈り、求めていこうではありませんか。



引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会 
 

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