東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ書5章1-5節「苦難さえも喜ぶ信仰」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/03/15

ローマ書5章1-5節「苦難さえも喜ぶ信仰」

*** 3/13(水)祈祷会 説教概略 ***

 神様との平和を土台として持つ人はなんと強いことでしょうか。神様への信頼があるので、苦難の中にさえも、神様のご計画を発見できます。苦難を通して、主が私たちを育ててくださり、練り上げ、希望へと至らせることを知っているからです。これは本当に幸せなことではないでしょうか。苦難さえも喜べるのはなぜか。みことばから教えられましょう。




1節 こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。 

キリストを信じる信仰のゆえに、神の前に罪赦され、義と認められました。そのおかげで、「神との平和」を持つ者とされたのです。平和とは、ヘブル語では「シャローム」ということばに該当します。それは、神様との平和で、とても幸せな交わりがある状態を指します。神と和解し、この平和な良き交わりを回復した者は、2節にあるように神の恵みの中に導き入れられました。恵みをふんだんにいただける立場になったのです。

2節 このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。

 「導き入れられた」とのことば(プロサゴーゲー)は、英語ではおもにaccessと訳されることばです。そこにはキリストの尊い犠牲によって、私たちが大胆に神の恵みの御座に近づくことが許されたという意図があるのでしょう。神様の御座には「恵み」が豊かにあふれ出ています。そんな恵みの御座へのアクセスを許可されたという幸いを伝えているのです。これも割礼や律法遵守の行いではなく、キリストによる尊い犠牲、その背後にある神の愛とあわれみによるものですよね。

その一方で、ローマでキリスト者として生きることは、決して楽ではありませんでした。異教世界の支配のもとにあるのですから、多くの困難がありました。様々な偶像礼拝があふれている社会でありました。しかしながら、神との平和を得て、神の恵みに招かれたキリスト者は、なんと、そうした苦難さえも喜ぶことができる恩恵にあずかっているのです。

3節 それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、

4節 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。 

 「苦難(複数)」ということばは、何かしらの圧力を意味する時に使うことばで、複数形で語られています。それは、特にキリストを信じるゆえに受ける様々な抑圧、迫害などが想定されていたのでしょう

 キリスト者は恵みをふんだんに受け取れる特権を得ました。恵みの御座へのフリー・アクセス権です。しかし、みことばによれば、そこにはキリストにある様々な苦しみをも受けることが伴っているのです。やはり苦難は辛いものです。恐いなあと思いますよね。日本でも、キリスト信仰に対して必ずしも肯定的ではなく、時に迫害やそれに近いものを経験することもあるでしょう。

ただ、苦難もまた神様が関知しないものではなく、むしろ恵みの一部であるのです。

ピリピ129では、次のようにあります。あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。 

この内容は、キリストのゆえに受けた恵みの中に、キリストのゆえの苦しみも含まれていると理解できますよね。「恵み」の枠の中に、キリストのために苦難も入っている。逆ん言えば、こうした苦しみを通って初めて、キリストの十字架の苦しみを、弟子として一つになって受けていると言えるのではないでしょうか。私たちはキリストとともに十字架につけられて初めて、キリストともに復活の栄光にあずかるのです。

 さて、今日のみことばに戻りますが・・・

 4節で、実に、キリストにある苦難によって「忍耐」が養われることがわかります。「忍耐」とは、単なる我慢ではありません望みを持って、痛みや苦しみを積極的に引き受けていく力です。否定的に、下を向いて「仕方がない」と我慢することではないのです。むしろ、このキリストゆえの苦しみを通ることが、キリストと一つにされている証しであり、その先にキリストの栄光にともにあずかることができるという希望があるのです。

 ここに苦難さえ喜んで引き受けていける幸いがあります。パウロが「苦難さえも喜んでいます」と告白しているのはやせ我慢ではないのです。根拠なき精神論ではないのです。この苦難が否定的な悪いものではないと、確かに知っているゆえのことばです。神が与えてくださるもので、不要なもの、意味のないものはないからです。

続く「練られた」ということばは、「不純物が取り去られていく金属などの精錬作業」を示すことばです。試練を通ることで、私たちが握りしめている不要なもの、妨げになるものが、徐々にそぎ落とされていくのです。信仰を妨げる不純物が取り除かれていくのです。練られてそぎ落とされる時、痛みを伴います。また、何かを失ったと思うかも知れません。時に、あなたが握りしめて来た古い性質や要素が失われるのですから。

しかし、それらを手放すことによって、実は前進しているのです。神のみこころにかなった「品性」があとに残るからです。このようにして整えられ、育てられてきた「美しい品性を持つキリスト者」は、神の栄光にあずかる者です。そこに希望があります。

逆に言えば、こうして信仰が練り上げられていくことなしには、余計なもの(古い肉の自分の考えたこだわり)が多すぎて、神の栄光やそこにある希望が見えなくなってしまうのです。結局、本当に大切なものを大切にするというシンプルなことなのです。

5節 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 4節と5節に出て来た「希望」ということばは、2節に出て来た神の栄光にあずかる「望み」と全く同じことばです。ここから、「神の栄光にあずかる望み」とは、「練られた品性から生まれた希望」なのだとわかります。ですから、神の栄光にあずかるためには、苦難における忍耐によって、私たちが練り上げられていくことが必要不可欠なのです。そうして練り上げられた品性によって、神の栄光のあずかるにふさわしい者となるのです。

 

それでいくと、「苦難」がなくなってしまうとどうなるでしょうか。苦難がないということは、忍耐もなくなり、忍耐もしないので練られていくことがなく、品性も生まれない。私たちは何ら変えられていくことなく、成長もなく、神の栄光にふさわしくされていく希望もなくなってしまいますよね。

ですから、神様の恵みの一つとして、キリストにあるゆえの苦しみも賜っているのです。ただ、神様はそれを決して乗り越えられない試練とはなさいません。なぜなら、私たちには、すばらしい助け主である「聖霊」が与えられているからです。そして、この希望が決して失望で終わらないのは、神様の保証なる聖霊が与えられているからです。5節にあるように、「聖霊を通して、神の愛が私たちの心に注がれている」こと。これが保証、これが支えなのです。神の愛に根ざしているために、失望に終わることがないわけです。

 キリストのゆえの苦しみさえ、恵みの一部であることを教えられました。ですから苦難をあまりに否定的にとらえないで、そこにある主のお心に目を留めましょう。苦難にさえも希望を抱いて喜べるのです。まだまだ、練られていない私たちでしょう。神の御霊の助けをいただきながら、美しい品性を持つ者、神の栄光にあずかるに相応しい者へと、日々造り変えていただきましょう。


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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