キリストを信じる信仰のゆえに、神の前に罪赦され、義と認められました。そのおかげで、「神との平和」を持つ者とされたのです。平和とは、ヘブル語では「シャローム」ということばに該当します。それは、神様との平和で、とても幸せな交わりがある状態を指します。神と和解し、この平和な良き交わりを回復した者は、2節にあるように神の恵みの中に導き入れられました。恵みをふんだんにいただける立場になったのです。
その一方で、ローマでキリスト者として生きることは、決して楽ではありませんでした。異教世界の支配のもとにあるのですから、多くの困難がありました。様々な偶像礼拝があふれている社会でありました。しかしながら、神との平和を得て、神の恵みに招かれたキリスト者は、なんと、そうした苦難さえも喜ぶことができる恩恵にあずかっているのです。
3節 それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、
ただ、苦難もまた神様が関知しないものではなく、むしろ恵みの一部であるのです。
ピリピ1章29節では、次のようにあります。あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。
この内容は、キリストのゆえに受けた恵みの中に、キリストのゆえの苦しみも含まれていると理解できますよね。「恵み」の枠の中に、キリストのために苦難も入っている。逆ん言えば、こうした苦しみを通って初めて、キリストの十字架の苦しみを、弟子として一つになって受けていると言えるのではないでしょうか。私たちはキリストとともに十字架につけられて初めて、キリストともに復活の栄光にあずかるのです。
続く「練られた」ということばは、「不純物が取り去られていく金属などの精錬作業」を示すことばです。試練を通ることで、私たちが握りしめている不要なもの、妨げになるものが、徐々にそぎ落とされていくのです。信仰を妨げる不純物が取り除かれていくのです。練られてそぎ落とされる時、痛みを伴います。また、何かを失ったと思うかも知れません。時に、あなたが握りしめて来た古い性質や要素が失われるのですから。
しかし、それらを手放すことによって、実は前進しているのです。神のみこころにかなった「品性」があとに残るからです。このようにして整えられ、育てられてきた「美しい品性を持つキリスト者」は、神の栄光にあずかる者です。そこに希望があります。
逆に言えば、こうして信仰が練り上げられていくことなしには、余計なもの(古い肉の自分の考えたこだわり)が多すぎて、神の栄光やそこにある希望が見えなくなってしまうのです。結局、本当に大切なものを大切にするというシンプルなことなのです。
5節 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
4節と5節に出て来た「希望」ということばは、2節に出て来た神の栄光にあずかる「望み」と全く同じことばです。ここから、「神の栄光にあずかる望み」とは、「練られた品性から生まれた希望」なのだとわかります。ですから、神の栄光にあずかるためには、苦難における忍耐によって、私たちが練り上げられていくことが必要不可欠なのです。そうして練り上げられた品性によって、神の栄光のあずかるにふさわしい者となるのです。
それでいくと、「苦難」がなくなってしまうとどうなるでしょうか。苦難がないということは、忍耐もなくなり、忍耐もしないので練られていくことがなく、品性も生まれない。私たちは何ら変えられていくことなく、成長もなく、神の栄光にふさわしくされていく希望もなくなってしまいますよね。
ですから、神様の恵みの一つとして、キリストにあるゆえの苦しみも賜っているのです。ただ、神様はそれを決して乗り越えられない試練とはなさいません。なぜなら、私たちには、すばらしい助け主である「聖霊」が与えられているからです。そして、この希望が決して失望で終わらないのは、神様の保証なる聖霊が与えられているからです。5節にあるように、「聖霊を通して、神の愛が私たちの心に注がれている」こと。これが保証、これが支えなのです。神の愛に根ざしているために、失望に終わることがないわけです。