東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 伝道者の書7章13-14節「これもあれも、神のなさること」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/03/18

伝道者の書7章13-14節「これもあれも、神のなさること」

*** 3/17(日)主日礼拝 説教概略 ***

 ラインホールド・ニーバーという神学者の祈りは日本の教会でもよく知られています。原文から訳してみました。
「神よ、私に与えたまえ!変えることのできないものは、受け入れる平静さを!変えることができるものは、変える勇気を!そして、それらを見分ける知恵を!」 


変えることができ、変えた方が良いものは、もちろん変えたらいいでしょう。勇気をもって。しかし、私たちの歩みにおいては、変えることのできないものも多くあります。神様がそうなさっているのなら、そこに一生不満を抱いて歩むのではなく、信仰をもって受け入れることが必要です。

特に、この伝道者の書は、人にはわからない神の摂理やご計画があることを語ります。それはソロモン王という非常に聡明な王が、あらゆる事をやり尽くすようにして研究して至った結論でした。一見、不条理・理不尽に見える人にはわからないことが必ずある。人の知恵では、どうしても解明できないこと。しかし、世界を造られた神を知る時、すべての問題を解くマスターキーがそこにあるのです。神のみわざに目を留め、神ご自身を見つめることを大切にしていくことです。みことばから教えられましょう。

 

1.神が曲げたもの それは、私たちの大切な一部かもしれない

13 神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできるだろうか。

 「神のみわざに目を留めよ」と語られます。曲がっているかまっすぐであるかよりも、それをなさった神様ご自身を見つめよと教えられているのです。

 ここにある「まっすぐなもの」とは、私たちの目に気に入ること、相応しいと思えることでしょう「曲がったもの」とは、文字通り歪んでいること。私たちが受け入れがたい様々な異常や困難です。この世界は、まっすぐなものと曲がったもの、その両方で構成されていると言えます。

 この箇所はしばしば、生まれながらに体に不自由さや欠点を抱えていることを示すとの解釈があります。人間は誰でも心身ともに弱点や欠点などがあります(もちろん、それ以外のこの世界の様々なことについても同様でしょう)。

 旧約聖書のギリシャ語翻訳聖書の七十人訳聖書では、「神が歪めた彼を誰が正すことができるだろうか」との訳がなされ、解釈が含まれた訳であろうと思います。それは、体に様々な弱さを持って生まれた者たちにとって、「その弱さは神様ご自身がお与えになったもの」だと受け止める助けになるでしょう。

 人は誰もが生まれながらに足りないところ、欠点がある。神ではないのだから。完全ではないのだから。ただ、私たちの多くは、他の人と同じでない部分があると、そこで比較し合い劣等感を抱くようなことが少なくありません。神様が「これがアナタだ」と造られたにも関わらず、私たちは他の人の優れたところをうらやみ、あれもこれも自分に欲しいと思うのです。どこかで、「完璧」へのあこがれがあるのでしょうか。

 しかし、大切なことは「神の主権」がそこにあると知ることです。曲がっていることの中に、神の豊かなご計画と摂理があると信じることです。

 例えば、パウロという人。彼は自分に与えられた「肉体のとげ」がありました。それが実際に何であったかまでは分かりません。しかし、彼はそれで苦労をしたし、それを神様に三度は取り除いて欲しいと祈ったのです。けれど、変わりませんでした。それで彼は、そのことについて祈ることをやめたのです。ですから「何度も」ではなく「3度」で終わっているのです。それは、祈りのうちに一つの結論を示されたからです。

Ⅱコリ12:8-9を開きましょう。
8 この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。
9 しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 

 取り去られなかったとげを、パウロは主にあって受け入れたのです。「わたしの恵みは、そのとげを持ったままのあなたに十分である」。主はそのようにパウロに語られたのです。そのとげこそ、「神が曲げたもの」だったのです。それで良いと神がお与えになったから、それがパウロにあったのです。むしろ、そのとげはパウロに必要な弱さでした。なぜなら、神の力がその弱さに完全に現れるためだったからです。それゆえ、パウロはこのとげを取り去る祈りをやめたのでしょう。彼は弱さを取り除いてもらうのではなく、この弱さを主からの贈り物として「誇る」ことに決めました

私たちにも、神様に取り除いて欲しい欠点や弱さがあるでしょうか。今も受け入れられず、こんなものは不要だと不満の中にあることがあるでしょうか。しかし、もし、主が曲げたものであるとしたらどうでしょうか。そこには、神の力が現れる良きご計画があるのです。その意味で言えば、イエス様の十字架ほどの不条理や理不尽はない。曲がったひどい出来事はない。しかし、それをなさったのは神様ご自身でした。すべての人のために神がなさったことだったのです。

「神のみわざに目を留めよ」とのみことばに耳を開き、主の御声に従いましょう。もしかしたら、その曲がったところこそ、神の力が豊かに働かれる、あなたの大切な一部かも知れません。

 

2.これもあれも神のなさること  

 続く14節にて、いつでも主を求めるべきことを覚えたいと思います。

14 順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ。これもあれも、神のなさること。後のことを人に分からせないためである。 

 「順境の日」とは順調な良い日、あるいは非常に繁栄している時を示します。こうした良い時だけでなく、当然、「逆境」と思われる厳しい時期もあるものです。ヨブ記2:10のヨブのことばを思い出します。不幸で苦しむヨブに、「神を呪って死ぬがいい」と言った妻へのヨブのことばです。

「あなたは、どこかの愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないのか。」 

 神様は実に、私たちの幸いを願って、「繁栄」と「逆境」が、どちらもずっとは続かないように、交互に起こるようにされています。神の知恵によることです。歴史を見ればわかりますが、繁栄が長く続くと、人類は必ず堕落していきますよね。独裁政権や長期政権は人を傲慢にし、堕落を招き、深刻な問題をもたらしますよね。もちろん、反対に苦しい日々ばかりだと人は生きる気力を失うでしょう。

 ですから、その両方を神様は意図的に人に与えるのだと考えられます。その意味では、繁栄だけを望む私たちに、逆境もあることを覚えておくよう、みことばからお語りくださるのは、私たちへの神様の優しさではないでしょうか。

 ここでは、「順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ」と語られています。平穏な日々には、神様がくださっている幸せを丁寧に味わい楽しむのです。それらの幸いをくださっている神様との交わりを楽しみましょう。私たちはこうした事を案外軽視しがちですが、実はとても大切なことです。苦しんでばかりいる人は、順境の時にも関わらず、常に悪くなった時のことを心配し、幸いを味わうことを忘れています。あるいは、繁栄の日々を自分の手柄だと思い込み、神様から目を離してしまう。そうして自分から苦しみを招く人もいるでしょう。良い日々にしっかりと神様を見つめて歩むことで、逆境への良き備えとなります。災害時への備えは平時にしておくわけですよね。勉強は一夜漬けができても、信仰の一夜漬けはできないのです。

 ですから、「逆境の日にはよく考えよ」という教えだけでなく、順境には幸いを味わえと勧められているのです。そして、いざ逆境の日が訪れた時に、順境の日々に神の恵みをどれだけ味わって、親しく歩んで来たかが問われるのです。

 その時には、主との交わりの中で人生を振り返り考える時です。立ち止まって考えるチャンです。ここにあるように、神様に祈りつつよく考えましょう。

 このように順境も逆境も神様からの「贈り物」です。あれも、これも神のなさることだと語られている通りです。「神のなさること」と訳された部分は、「造る」ということばが使われています。多くの英訳聖書で「made」。神がそのように造られ設定されたことです。この世界のおおもとの設定自体を私たちは変えることはできないのです。ですから、その中で、「どう生きるのか」ということに、集中したら良いのではないでしょうか。良いことも、悪いと思えることも。まっすぐなことも、曲がった出来事も。不条理と思えることも、納得のいく筋の通ったことも。どれも神様のみわざです。そこに臨在され、神の主権のもとになされているのです。順境だろうと逆境だろうと、神のみわざに目を留め続けることこそ、喜びに満ちた信仰生活のカギです!! 

また、ここには「後のことを人にわからせないため」ともあります。これもまた神の創造の秩序です。「未来がわかったらいいのに」と考えることがあるでしょうか。しかし。それこそ、未来がわからない無知な人間の安易な考えではないでしょうか。実際、未来が全部わかったらどうでしょう。人はやっていられないでしょう。ワクワクもドキドキもない世界。何かに当たる喜びも、何かに外れる悔しさも味わえなくなります。勝つとわかっても、負けるとわかってもやる気を失います。わからないから楽しめるのです。喜べるのです。ですから、後のことをわからせないこともまた、神様の優しさです。私たちには、未来を知ることは荷が重すぎるのです。

そして、わからないからこそ、私たちは神様を本気で求められるのです。人は未来に対して無力な者。だから、神様を求められるのではないでしょうか。未来を知り、弱さも欠けも取り除かれ、完璧さを求めるなら、人は神を不要な者にしようと願っていることになります。それは人を不幸にします。ですから、人に未来を見通す力を主はお与えにならなかった。それもまた神のなさったことなのです。私たちの幸いを願う神様のご愛がここにあります。

 

 主は親しくお語りになっています。これもあれも、神のなさることであることを知りましょう。曲がったものを必死にまっすぐに伸ばそうと、またそうできないことをずっと不満に歩むことから解放されませんか。みこころなら、相応しい時に主がまっすぐになさるでしょう。

 しかし、曲がったままであるなら、それはあなたに必要で大切な、主のみわざなのです。そこに、神の力と栄光が現れることを信じませんか。神のみわざに目を留めましょう。神ご自身を見つめましょう。


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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