東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: マルコの福音書15章25~39節「私の代わりに見捨てられた方」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/03/24

マルコの福音書15章25~39節「私の代わりに見捨てられた方」

*** 3/24(日)受難週主日礼拝 説教概略 ***

 先週は岩井先生のご葬儀がありました。息子さん、奥様のそれぞれのお話の中に、ユーモアもあり、暖かさがあり、希望がありました。クリスチャンにとって葬儀は絶望ではありません。なぜなら、キリストにある者は「死」に対して勝利しているからです。

 ローマ書8章には、たとえ「死」であろうとも、主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできないとあるのです(ロマ8:38-39)。



 ですから、私たちは同じ主にある兄姉として、「出会いはあっても別れはない」と確信しています。岩井先生にも「天国でまたお交わりの続きをしましょう」と、そんな思いでいます。今日の礼拝後には神学生ご家族の「派遣式」も行います。世間一般では「送別会」でしょう。けれど、お別れではなく、感謝をもって送り出す思いでいます。いつでも遊びに来て下さいとの気持ち、「お別れはない」という思いで送り出したいのです。

 このように私たちは、死によってさえ引き離されることのない者とされました。絶対に見捨てない方がいらっしゃるので、死でさえ恐れる必要はないのです。時が流れようと、世界が変わろうとも、決して見捨てられることのない愛です。この確信がどれほど私たちを強くすることでしょうか。しかし、この確信の上に立てるのは、明確な根拠があるからです。

 それが「キリストの十字架の死と復活」です。
 この受難週、聖なる神の御子イエス・キリストが、私たちに代わって十字架に死んでくださったことを覚えます。一切の罪の重荷を背負い、人々からも、そして父なる神からも見捨てられ、死に渡されてくださった方を見上げましょう。

 

 25節によれば、イエス様は午前9時には十字架につけられたことがわかります。前日の夜には逮捕され、尋問を受け、殴られムチで打たれました。おそらく一睡もしないままに朝を迎え、満身創痍の状態で十字架に磔にされました。

 30節で、通りすがりの人たちは頭を振ってののしり、「十字架から降りて、自分を救ってみろ」と言いました。31節では、宗教指導者たちもイエス様を嘲笑って言いました。「キリストだと言うのに、他人は救ったが自分を救えない。十字架から降りてきたら信じてやろう」

 そのようにして3時間が過ぎました。その間、主イエス様は、太い釘で十字架に打ち込まれ、激痛の中にいました。体が半ば吊るされており、足が力を失うと重みで体が下がります。内臓や呼吸器が圧迫され呼吸困難になるのです。ほぼ裸にて辱められ、激痛と呼吸困難を繰り返す死刑なのです。何時間も主はこの状態で耐えておられました。

33  さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。 

 ついに昼の12時になったとき、闇が全地をおおいました。この闇は厳粛なさばきへの序曲のようです。前代未聞の神の御子へのさばきです。一つも罪なき聖なる方にも関わらず、すべての人の罪とのろいを背負い、「神の死刑」として執行されるのです。

 あたりが暗くなり、いよいよ三時頃、主イエス様もご自身へのさばきの時が来たことを知り、叫ばれました。34節です。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。  

 皆さんは、このイエス様の叫びをどのように受け止めていらっしゃるでしょうか。私は、初めてこの叫びを知った時、何か情けない印象を受けたのです。神の御子であり、信仰の創始者・完成者なのに、死を前にして怖気づいているのかと。ゲツセマネの園での祈りにて、「わたしの願いではなく、あなたのみこころをなさってください」とゆだねたはずなのに。怖くなったのだろうかと。

 しかしながら、それは、私自身の理解の「浅はかさ」から来るものだと気づいたのです。神から見捨てられる絶望を、私は本当の意味で知らないのです。神様から本当に見捨てられ滅びたのなら、ここに存在しないのですから。イエス様は、だれひとり、そうならないように、見捨てられてくださったのです。では、なぜ、イエス様は神の御子なのに、このような叫びをなさったのでしょうか。もう少し踏み込んで、ご一緒に味わいたいと思います。

 

① 第一に、イエス様は神の御子だから辛くないのではなく、神の御子だから真に辛かったのです。イエス様ほど父なる神と親しい方はいないからです。そしてまた、父なる神から見捨てられることがどれほど恐ろしいことかも、イエス様は一番ご存知だったのです。
 この時、イエス様はすでに多くの人々から裏切られ、見捨てられていました。愛する弟子たちも保身のゆえに裏切り逃げました。それも苦しく孤独だったでしょう。しかし、父の神から見捨てられることは、これらとは比べ物にならないほど、恐ろしいことだったのです。本来神様は、人からどんなに見捨てられても「神様だけは!」と思える最後の砦です。なのに、最後の望みである神様からも見捨てられたら、どうしたら良いのでしょうか。もう他に救いはないのです。「完全な孤独」です。

では、この愛し合う親密な親子を引き裂いたのは誰でしょうか。
他ならぬ私たち罪人です。私たちの罪が引き裂いたのです。この叫びをイエス様にさせているのは、他でもないあなたなのだとご存知でしょうか?

ある暴力団組員が自分の罪の重さに耐えかねて教会を訪れました。その時、イエス様の十字架の話を聞きました。その牧師さんは、こう考えてはどうかと話されたそうです。あなたの頭で悪いことを考えた、それゆえにイエス様が茨の冠をかぶり、血を流された。あなたがその手で人を傷つけたゆえに、イエス様は手に太いくぎを打たれた。あなたの足が行くべきでない所に行ったゆえに、イエス様の両足は磔にされたのだ。そして、あなたの心の罪深い思いゆえに、イエス様は槍でお腹を突き刺されたのだ。「そう考えてはどうか?」と。

確かにこれらは聖書が直接言っていることではありません。けれども、私たちがこの全身で犯している罪のすべてが、イエス様を十字架につける原因であることは間違いないでしょう。罪を犯していないなら、必要のない十字架なのです。「ぼくこそ十字架の釘」との歌詞を作った少年は、キャンプでこのことに気づいたのです。イエス様を十字架に磔にしたのは、ローマ人やユダヤ人ではない。この人やあの人じゃない。ぼく自身なんだと。私たちは他人事としてイエス様の苦しみを見ていないでしょうか。私はそうだったのです。だから、神の御子なのに「情けない叫びをして!」と思ったのです。私たちは、十字架の主の前にまっすぐに立って、自身の罪と向き合い、そのゆえに、この苦しみを引き受けられたイエス様に感謝をささげたいのです。

② イエス様が神の御子なのに、この叫びをなさった第二の意味は、私が叫ぶべき嘆きを、主がご自分の叫びとして引き受けてくださったということです。この叫びは本来、「私がしなければならない叫び」であったのです。なぜなら、私こそが、見捨てられるべき汚れ切った罪人であったからです。イエス様が見捨てられる必要など微塵もなかったのに、罪人の私たちのために、さばかれ見捨てられ、死に渡されたのです。自分勝手な罪人である私たちこそ、呆れられ、見捨てられても仕方ない者ではないでしょうか。

 しかし、神様はあまりにも忍耐深いのです。イエス様はあわれみ深いのです。ゆえに、御子イエスを私たちの身代わりとなさったのです。そこに神様の深い愛があるのです。 

 34節で「見捨てる」と訳されたのは「サバクタニ」とのアラム語です。これは、助けることができる状況なのに、手をさしのべないでいることを意味しています。助けられないのではなく、あえて助けないのです。

 なぜ、でしょうか。御子を助ければ、私たちの罪は残ったままになるからです。罪へのさばきがなされないからです。神様は罪人である私たちを愛してくださっているから、ご自分の大切な御子が苦しんでいても救い出しませんでした。できるのに、なさらなかったのです。なんと耐えがたい苦しみでしょうか。助けられるのにしないのです。傷つき血を流しています。愛する子が正しい良いことをしているのに、ののしられているのです。「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んでいるのです。私の代わりに主は見捨てられ、父なる神も見捨てる痛みを愛のゆえに通られたのです。

 ここに救いがなりました。

 このイエス様の叫びは、詩篇22篇のダビデのことばからの叫びです。この詩篇は十字架の預言です。ですから、その続きが気になるのです。「どうしてお見捨てになったのか」との叫びでは終わっていないのです。

 22篇を開きましょう。

 特に6-8節では、イエス様の十字架の苦しみが暗示されています。本日のみことばの前半で、その通りに成就していたのです。ただ、その後です。19-21節前半にかけて、救いを求める切なる祈りがあります。その願いと祈りは答えられたのでしょうか。

 なんと、21節後半で。「あなたは私に答えてくださいました」とあります。神様はこの救いを求める祈りに答えてくださったのです。

 そして、ここからこの詩篇は神様への賛美に変わっていきます。最初は孤独な祈りでした。しかし、主が答えてくださり救いをくださると変わっていきます。22節で「私は あなたの御名を兄弟たちに語り告げ、会衆の中であなたを賛美します」と語られています。孤独な私個人の叫びでしたが、ここでは「兄弟たちに」あるいは「会衆の中で」とあり、多くの人々を意識することばへと変わっています

 十字架で見捨てられた圧倒的な孤独でしたが、どうしても救いたいとのその祈りが答えられたのです。十字架の死後の復活によって信じるすべての者が救われ、ともに神の子となって主を賛美するようになったのです。そして、この通りに、イエス様の十字架のみわざが、世界の人の救いとなったのです! 

 マルコに戻ります。35-36節のところで、ある人々はイエス様の叫びを聞き、エリヤを呼んでいると勘違いしました。それは、イエス様をまっすぐに見つめない者の姿です。そのことばを聞き分けない姿です。イエス様が何を語り、何をなさろうとしているのかを知ろうとしない人の姿でしょう。それは39節の百人隊長とは対照的です。

 ついにイエス様が息を引き取られた時、ある事が起こりました。38  すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 「神殿の幕」は神が臨在される最も聖なる至聖所を仕切るものでした。こうして遮られていないと、罪に汚れた人間が聖なる場所を見るならば、汚れのゆえに滅んでしまうからでした。しかし、その幕がイエス様の死と同時に裂けたのです。それは、もはやこの幕が不要になったことを意味しています。キリストの十字架の死によって信じる者の罪の汚れが取り除かれたからです。誰もが父なる神様の恵みの座に大胆に入ることが許されたのです。神との和解、交わりの回復です。

 そして、39節のローマの百人隊長のことばが印象的です。「この方は本当に神の子であった」と。この時まで信じていなかったことでしょう。でも、このみことばは、「イエスの正面に立っていた」と語ります。それは目の前の主イエス様とまっすぐに向き合う彼の姿勢をも示す意図があるのかも知れません。ルカは、彼が神をほめたたえてこう言ったことを補足しています。

 私たちも十字架の主イエス様の前に、まっすぐに立ちたいのです。他人ごとではありません。あなた自身のために、主キリストはただひとり十字架に死なれたのです。父なる神からも見捨てられて・・・。その叫び、その死は、私たちの身代わりでした。見捨てられるべき罪人の私のために。そして、キリストは死からよみがえられました。それは、私たちに復活のいのちを与え、「死」でさえも、私たちを神から引き離すことがないようにするためでした。ですから、主は私たちを決して見放さず、また見捨てないのです。




引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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