東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ書5章6-11節「キリストによる神との和解」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/03/27

ローマ書5章6-11節「キリストによる神との和解」

*** 3/27(水)祈祷会 説教概略 ***

 今週は受難週です。今週の金曜日が暦の上でイエス様が十字架に架かられた日として理解し、夜に受難日礼拝を持つ教会もありますね。私たちは先日の日曜礼拝と、この水曜の祈祷会において、主の十字架をともに見上げます。順番にローマ書を講解していますので、別の個所からとも考えました。ただ、内容的にイエス様の受難を覚えるのにふさわしい箇所であることを示されたので、そのままローマ書から語らせていただこうと思います。



6節 実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。 

「まだ弱かったころ」とは、どういうことでしょうか。この節の後半では「不敬虔な者たちのために」と言い換えられています。さらに8節では「私たちがまだ罪人であったとき」ともありますよね。ですから、まだ弱かったころとは、キリスト信仰を持たず、罪赦されていなかった時、神を信じない不敬虔な歩みをしていた時のことです。

 つまり、キリストは、人々が正しい敬虔な信者だから死んでくださったのではなく、不信仰で罪深い者たちのために、死んで下さったのだということです。そして、定められた時にとあるように、神のご計画に相応しく、新約の時代になってそれが成し遂げられました。

キリストが罪深い不敬虔な者のために死んでくださったことが、いかに大きな愛に基づくものであるのか。それが7-8節で語られています。 

7節 正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。
8節 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

 正しい、善良な人のためになら進んで死ねる人もいるかも知れません。それでも、それは決して多くはなく、むしろ稀ではないでしょうか。皆さんは、あの人は正しい良い人だ!と分かったからと言って、その人の代わりに進んでいのちをささげられるでしょうか。簡単ではないですよね。

 そうであるならば、罪人のために喜んで死んでくださるというのは、もはや常識ではあり得ないようなことです。8節にあるように「私たちがまだ罪人であったとき」に、キリストは私たちのために死なれたのです。悔い改めたから、キリストは「じゃあ、彼らのために死のう」と死なれたのではありません。悔い改める前に、罪人たちのために死なれたのです。そう考えると、そこに示された神の愛はなんと大きなものでしょうか。そのキリストの犠牲はなんと尊く、得難いものでしょうか。ユダヤ人には色々な意味で耳が痛いことばであったでしょう。「私たちがまだ罪人であったとき」ということばが、正しいと思っていたユダヤ人には受け入れがたかったでしょう。また、無割礼な異邦人と同列に扱われていることもまた、受け入れがたいことだったのではないでしょうか。

 このことを知る時、私たち自身の愛についても問われるのではないでしょうか。私たちは、その愛に「多くの制限」を設けていないでしょうか。受け入れやすい人、それなりに礼儀正しい人、話をよく聞いてくれる人。そういう人のことは愛せる。でも、言うことを聞かない人、抵抗する人、批判したり敵対したりする人のことは、私たちの「愛の枠」の対象外に置いてしまうことはないでしょうか。

 しかし、マタイ5:46に、このようなイエス様のことばがあります。「自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょう。取税人でも同じことをしているではありませんか。」 

同じように第一ペテロ220-21節にこうあります。

20節 罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。21節 このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。 

 隣人に対して善を行い、でも、相手がなおも私たちに敵対することもあるでしょう。しかし、その中で愛をもって耐え忍ぶ時にこそ、主がよくやったと喜んでくださいます。ですから、周囲にいい人ばかりで耐え忍ぶ機会が少ないと、神様に大喜びしていただくチャンスが減ってしまいますね(笑)。

 キリストの犠牲が罪人のために無条件でなされたことがわかる時、9-10節で語られているような確信が与えられていきます。
 
9節 ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。
10節 敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。 

 非常に罪深く、救ってもメリットが少ないような者たちのために死んでくださったのだから、神の召しにあずかり義とされた私たちが、神の怒りから救われる恩恵にあずかることは、いっそう確かな事実であるということです。罪人であった時でさえ、私たちは愛されていた。だから、罪赦され、神の前に義とされ、神の子とされた私たちは、なおのこと神の怒りからは遠い位置に置かれているというわけです。

 同様に10節では、さらに、私たちが神の敵であったとさえ語られています。神に背き敵対する者のためにさえ、御子は十字架で死なれ、神との和解を与えてくださったのです。敵であった時でさえ良くしてくださった主。だから、もはや味方となり、身内となった者たちを豊かな救いの恵みで覆って下さるのは、ますます確かなことであると言います。これらは、救われた者の救いの確信をより鮮明にしてくれるみことばですね。

ローマ828では、「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」とあります。第三版では「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」との訳を採用していました。

 義とされ、救われた者、召された者のためには、神様はすべてを働かせて、有益な良きものとなしてくださる。これは私たちの確信ですよね。

 敵であった私たちのために御子をも惜しまず与えてくださったのですから、信じた者に御子に加えてあらゆる恵みをくださるのは当然のことです。最後に11節でこう語られています。 

11節 それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。 

 私たちは救われる前には神は恐ろしいお方であったかも知れません。しかし、御子によって神と和解した私たちは、神様の存在もその交わりも、喜べる者とされました。和解をいただき、深い交わりをいただいて、この方のすばらしさを知る者となったからです。

 このように、私たちは信じる前から、罪赦される前から、すでに愛されていて、すでに犠牲が払われていて、あとはイエス様を信じれば良いだけの状態でした。まさに、私たちが愛したから、神も愛し返してくださったのではなく、神が私たちを初めからずっと愛していてくださったのです。そして、救われて後はなおのこと、神様との深い交わりの中でその愛に生きることが許されました。ですから、私たちもまた主イエス様の後に従いたいのです。そうして、神のご栄光を現すために、その愛を世界に示すために私たちは召されたのですから。

Ⅰペテ 2:12 異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。 

 未信者の方々との関係の中で悩むことがあるでしょう。傷つけられることもあるでしょう。しかし、たとえ相手が良い対応をしてくれなくても、私たちは神様の前に、愛によってベストを尽くしていきましょう。批判され、ののしられても!やり返さず、愛と祝福を返すのです。そうれば、定められた時に、その人があなたのゆえに神をあがめるようになると信じます。イエス様は、私たちがまだ罪人のままであった時から愛してくださったのですから。私たちもこの愛にならいたいのです。


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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