東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: アモス7章7-17節「主が召されたので」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/02/02

アモス7章7-17節「主が召されたので」

*** 2/2(水)祈祷会

アモス77-17節「主が召されたので」

 渡辺和子さん著作の『置かれた場所で咲きなさい』というベストセラー本があります。花は咲く場所を選べないので、置かれた場所を受け入れて、そこで精一杯咲くことを大事にしましょうというメッセージがそこにあります。私たち人間も生まれる環境を選べませんが、それぞれに置かれたところで、精一杯生きて行けばいいということでしょう。

 ただ、その時に、誰がそこに置いたのか、誰がそこに植えたのかを考えると、私たちにとってそれは神様であるわけです。偶然そこにいるのではなく、主の良いご計画の中でそこに置かれているのです。

 ですから、主が私たちを今いるところに召してお遣わしになっていることを覚えて、みこころに忠実に生きることこそ、置かれた場所で咲くということの真の意味でしょう。

 羊飼いであったアモスは、まさに主の召しによって預言の働きに召されましたが、彼はたとえ苦しくとも、その召しに忠実に歩んだことがみことばから分かります。

 7章からは、主からアモスに示された5つの幻について語られています。3つ目の幻がこの箇所です。主の召しに忠実に歩んだ姿に教えられます。

 

1. 主が剣をもってさばかれる


7節 主は私に示された。見よ。主は下げ振りを手に持って、下げ振りを使って築かれた城壁の上に立っておられた。 

 「下げ振り」ということばですが、以前の訳では「重りなわ」、口語訳聖書では「測りなわ」と訳されています。これは建物が地面に対して垂直に建っているかどうかを測る道具だそうです。アモスが見た3つ目の幻は、主が下げ振りを手に持って城壁の上に立っている幻でした。そして、主が彼に語られました。8節です。

8節 主は私に言われた。「アモス、何を見ているのか。」私が「下げ振りです」と言うと、主は言われた。「見よ。わたしは下げ振りを、わたしの民イスラエルの真ん中に垂れ下げる。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。 

 アモスの目に映る下げ振り。主は、この下げ振りをイスラエルの真ん中に垂れ下げ、もう二度と彼らを見過ごさないと言われました。今までは、イスラエルの民が神様の基準からだいぶ外れていても、まっすぐ立てず歪んでいても、あわれみのゆえに見過ごされた主でした。それどころか、何度も悔い改めの機会を与えて来られたのです。

 しかし、ここに至ってもう見過ごすことができないほど、イスラエルは悪に満ちていると主は言われているのです。神様の持っておられる「下げ振り」は精密で正しい測りです。それによって、どれだけこの民がみこころから外れているかを正確に測るなら、もはや言い逃れはできないのです。ここで主のさばきが具体的になされることが明示されました。その内容は9節で触れられています。

9節 イサクの高き所は荒らされ、イスラエルの聖所は廃墟となる。わたしは剣をもって、ヤロブアムの家に向かって立ち上がる。」 

 「イサクの高き所」とは、創世記2625節で語られているイサクが神様のために築いた祭壇の事を指していると考えられます。この場所で神様はイサクに祝福を語っておられました。また、続く「イスラエルの聖所」も、そこに神様が祝福を約束しておられたところです。しかし、この時代のイスラエルの民は、主を侮り、聖なる祝福の場所をことごとく偶像礼拝の場に変えてしまっていました

 ですから、これらの場所も敵の手で占領され、奪われていきます。主が剣をもって、ヤロブアムの治世であるこの国にさばきを下すということです。


2.みことばに対する謀反 

 そして、アモスは自身に示された主のみこころですから、これを民に知らせないわけにいきません。

 ところが、これを聞いた祭司のアマツヤはこれに怒りを燃やします。国が滅ぶなどと言うとは、反逆罪であると考えたわけです。祭司が主のみことばの啓示を受け入れないところに、この時代の罪深さが現れていますよね10-11節にそのことが語られています。

10節 ベテルの祭司アマツヤは、イスラエルの王ヤロブアムに人を遣わして言った。「アモスは、イスラエルの家のただ中で、あなたに謀反を企てています。この国は彼のどのことばも受け入れることができません。 
11節 アモスはこう言っています。『ヤロブアムは剣で死に、イスラエルはその土地から必ず捕らえられて行く。』」 

 ただの羊飼いであったアモスです。彼が謀反などできるはずもありません。むしろ王や民を神に導き、彼らのためにとりなしをすべき祭司アマツヤが、主のみことばに反逆しているのではないでしょうか。

 北イスラエル王国が失われることは、耳を塞ぎたくなる事実でしょう。祭司アマツヤとしても、受け入れたくない現実です。「それでも、主のおことばですから」とへりくだって聞くことが、最大の脱出の道であり、救いの道なのです。欲しいことばだけを聞き入れるなら、自分が欲しい情報をネットで探してそれだけを得るのと何ら変わりません。そのような自分勝手な求め方なら、聖書から教えられる意味がないでしょう。

 主はどんなささげ物よりも、へりくだって主の御声を聴くことを最良のささげ物と言われるのです。耳に痛いことばほど、私たちに本当に必要なみことばでさえあります

 12-13節で、アマツヤはアモスに言います。この北のイスラエルにおいて預言をするな!と。南のユダの地へ行き、そこで生活し、そこで預言するがいいと。自分たちの目の前では二度と預言するなと厳しく戒めます。国外追放です。こうして自ら神のみことばから、遠ざかるイスラエル王国の歪んだ姿が語れています。


3.主が召されたので

 
 一方で、このように厳しく責められたアモスはどのように応じているのでしょう。

14節 アモスはアマツヤに答えた。「私は預言者ではなかったし、預言者の仲間でもなかった。私は牧者であり、いちじく桑の木を栽培していた。 
15節 しかし、主が、群れの世話をしていたところから私を取り、主が私にこう言われた。『行って、わたしの民イスラエルに預言せよ』と。 

 アモスは自分の個人的な感情で今ここにいるのではないことを明らかにしています。自分はただの牧者(羊飼い)だった。いちじく桑の栽培をしていた。そして、群れの世話をしていた。しかし主がそこから私を取り、私にこう言われたのだ。

『行って、わたしの民イスラエルに預言せよ』と。

 15節の「主」ということばは太字となっています。原文では「ヤハウェ」ということばで、主の名前が語られているのです。ヤハウェなる方が、明確に私を召して、ご自身のことばを語るようにと命じられたのだと言います。

 アモスが主のことばを伝えるのに多くの理由はありませんでした。
 ただ、「主のおことばだから」です。

 エルサレム入城前に、イエスさまがロバの子を連れて来なさいと命じられた時、弟子たちは、「なぜ連れて行くのか?」と言われても、「主がお入り用なのです」と応じるようにイエス様から言われていました。

 多くの理由は必要ありません。この世界の主が、あなたが必要だとおっしゃったのなら、従うのに足る十分な理由がそこにあると言えるのではないでしょうか。

そして、16-17節にあるように、彼は権力者を恐れることなく、むしろ、その問題を明確にしながら、神様から与えられたことばを彼らに語ったのです。

 私たちもそれぞれ、別の場所から神様によって取り上げていただき、召されて神の国の協力者とされ、この教会に置かれました。あるいは「行ってみことばを告げよ」と語られている一人一人であると思います。

 パウロは御霊の賜物の一つとして「預言すること」を熱心に求めよとⅠコリント14:1で語っています。「預言する人は、人を育てることばや勧めや慰めを人に向かって話します」と説明します。愛を動機とすることが大前提で、その上で人を育てることば、勧めや慰めを語られるようにと指導しているのです。

 確かにいわゆる説教者として立つ人は多くはありません。けれども、すべてのキリストに生きる者もまた、人を育てることば、愛の勧めや慰めのことばを語るように召されているのではないでしょうか。主が取って、私たちを今ここに置かれている。それぞれの生活の場、それぞれの学校・職場に置かれている。そこに主の召しがあるのです。この召しに忠実に、そこでどのように神の国を建てるのかが問われているのです。

時に、主に召された場所に忠実に立ち続けることは、非常に厳しいことでもあります。

モーセとアロンは、何度その民から批判や暴言を受けたことでしょうか。預言者エレミヤはどれほど涙を流したことでしょうか。パウロが受けた迫害、困難は数えきれないほどであったことでしょう。そして、主イエス様ご自身が誰よりも父なる神の召しに忠実でしたが、誰よりもその召しの中で苦しみを通られた方であると言えるでしょう。

 けれども彼らは、主の約束から目を離しませんでした。苦しくとも、その先にある永遠の喜びに目を向け、主にある苦しみを必要なプロセスと受け止めてやがて来る天の御国に向かって励んでいたのです。

 私たちも主のみことばに立ち続け、このみことばを伝え続けることは戦いがあります。快く思わない人はいくらでもいらっしゃいます。コロナウイルスのこの感染状況において、誰もが不安と恐れに支配され、責任逃れをし、右に左にブレながら歩んでいます。

 だからこそ、変わることがない永遠の真理を示す主のみことば、そこに立ち続けるクリスチャンがこの世の光であると確信しています。



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