*** 2/2(水)祈祷会
アモス7章7-17節「主が召されたので」
渡辺和子さん著作の『置かれた場所で咲きなさい』というベストセラー本があります。花は咲く場所を選べないので、置かれた場所を受け入れて、そこで精一杯咲くことを大事にしましょうというメッセージがそこにあります。私たち人間も生まれる環境を選べませんが、それぞれに置かれたところで、精一杯生きて行けばいいということでしょう。
ですから、主が私たちを今いるところに召してお遣わしになっていることを覚えて、みこころに忠実に生きることこそ、置かれた場所で咲くということの真の意味でしょう。
羊飼いであったアモスは、まさに主の召しによって預言の働きに召されましたが、彼はたとえ苦しくとも、その召しに忠実に歩んだことがみことばから分かります。
7章からは、主からアモスに示された5つの幻について語られています。3つ目の幻がこの箇所です。主の召しに忠実に歩んだ姿に教えられます。
1. 主が剣をもってさばかれる
7節
主は私に示された。見よ。主は下げ振りを手に持って、下げ振りを使って築かれた城壁の上に立っておられた。
「下げ振り」ということばですが、以前の訳では「重りなわ」、口語訳聖書では「測りなわ」と訳されています。これは建物が地面に対して垂直に建っているかどうかを測る道具だそうです。アモスが見た3つ目の幻は、主が下げ振りを手に持って城壁の上に立っている幻でした。そして、主が彼に語られました。8節です。
2.みことばに対する謀反
そして、アモスは自身に示された主のみこころですから、これを民に知らせないわけにいきません。
10節
ベテルの祭司アマツヤは、イスラエルの王ヤロブアムに人を遣わして言った。「アモスは、イスラエルの家のただ中で、あなたに謀反を企てています。この国は彼のどのことばも受け入れることができません。
11節 アモスはこう言っています。『ヤロブアムは剣で死に、イスラエルはその土地から必ず捕らえられて行く。』」
ただの羊飼いであったアモスです。彼が謀反などできるはずもありません。むしろ王や民を神に導き、彼らのためにとりなしをすべき祭司アマツヤが、主のみことばに反逆しているのではないでしょうか。
北イスラエル王国が失われることは、耳を塞ぎたくなる事実でしょう。祭司アマツヤとしても、受け入れたくない現実です。「それでも、主のおことばですから」とへりくだって聞くことが、最大の脱出の道であり、救いの道なのです。欲しいことばだけを聞き入れるなら、自分が欲しい情報をネットで探してそれだけを得るのと何ら変わりません。そのような自分勝手な求め方なら、聖書から教えられる意味がないでしょう。
主はどんなささげ物よりも、へりくだって主の御声を聴くことを最良のささげ物と言われるのです。耳に痛いことばほど、私たちに本当に必要なみことばでさえあります。
3.主が召されたので
一方で、このように厳しく責められたアモスはどのように応じているのでしょう。
14節
アモスはアマツヤに答えた。「私は預言者ではなかったし、預言者の仲間でもなかった。私は牧者であり、いちじく桑の木を栽培していた。
15節 しかし、主が、群れの世話をしていたところから私を取り、主が私にこう言われた。『行って、わたしの民イスラエルに預言せよ』と。
アモスは自分の個人的な感情で今ここにいるのではないことを明らかにしています。自分はただの牧者(羊飼い)だった。いちじく桑の栽培をしていた。そして、群れの世話をしていた。しかし主がそこから私を取り、私にこう言われたのだ。
『行って、わたしの民イスラエルに預言せよ』と。
15節の「主」ということばは太字となっています。原文では「ヤハウェ」ということばで、主の名前が語られているのです。ヤハウェなる方が、明確に私を召して、ご自身のことばを語るようにと命じられたのだと言います。
アモスが主のことばを伝えるのに多くの理由はありませんでした。
ただ、「主のおことばだから」です。
エルサレム入城前に、イエスさまがロバの子を連れて来なさいと命じられた時、弟子たちは、「なぜ連れて行くのか?」と言われても、「主がお入り用なのです」と応じるようにイエス様から言われていました。
多くの理由は必要ありません。この世界の主が、あなたが必要だとおっしゃったのなら、従うのに足る十分な理由がそこにあると言えるのではないでしょうか。