アモス8章1-10節「イスラエルの終わり」
かつて東洋経済オンラインの記事で、会社を衰退させるのはそこで働く人々の無関心であるという記事を読んだことがあります。仕事自体に無関心ということではなく、それぞれに自分の目の前の仕事はするものの、この会社がどのようなビジョンを持って歩んでいくべきなのか。どうしたら良くなるのか。そういうことに関心を持たないでいると、会社は衰え、やがて失われていくということです。
誰もが自分のことには必死になれます。自分の益になるか、不利益になるか・・・その部分では大いに関心が向けられます。しかし、それはやはり自己中心と呼ばれるものであって、神のみこころに沿っているとは言い難いのです。
本日のみことばでは、「主の祭典はいつ終わるのか?安息日はいつ終わるのか?」といったかたちで、もはや神様への礼拝やその交わりが形式化している様子が語られています。確かに現代の教会でも、子どもたちなどは、あの先生のお話、いつ終わるのかな~と思っているかも知れませんね。牧師も努力が必要です。
ただ一方で、大人でも自分のやりたいことが先にあって・・・という誘惑はあるでしょう。もはや神様のことが後回しになり、商売や趣味、自分の益が最優先となるとき、私たちは結局自分の益をも失っていくのだということを教えられます。
「神である主は私に示された」との定型句にて、4つ目の幻がここに示されています。
今回示された幻は「一かごの夏の果物」でした。
主のさばきの日、外国から滅ぼされていく日。その日には神殿の歌声は悲鳴に変わると語られます。詩篇の中に、「嘆きは踊りに変わる」という表現がありますが、それとはまったく反対です。主がともにあるならば、様々な嘆き苦しみでさえ、主の豊かな介入によって、益とされ、恵みとなり喜びのダンスに変えられて行くのです。
しかし、今、イスラエルはこの方を拒み、みことばを投げ捨て、人を人とも思わない歩みに終始していました。高らかに歌われていた歌声が悲鳴に変わるとは、なんと悲しいことでしょう。多くの人が命を奪われ、またその遺体も投げ捨てられていきます。
この世界にはすべての人が普通に食べて暮らしていけるだけの物資がある。足りていると言います。それでも、飢えて亡くなる方が絶えずいらっしゃるのは、分かち合わないでいるからです。 しかし、7節に「わたしは、彼らのしていることをみな、いつまでも決して忘れない」とあります。主は一部始終をご存知であり、それを忘れることなどないと言われます。それはとても不幸なことです。
しかし、一つだけ、過去の罪をことごとく忘れていただく方法があります。悔い改め、神に立ち返ることです。