東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: アモス8章1-10節「イスラエルの終わり」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/02/12

アモス8章1-10節「イスラエルの終わり」

 *** 2/9(水)祈祷会 説教概略 ***

 アモス81-10節「イスラエルの終わり」

 かつて東洋経済オンラインの記事で、会社を衰退させるのはそこで働く人々の無関心であるという記事を読んだことがあります。仕事自体に無関心ということではなく、それぞれに自分の目の前の仕事はするものの、この会社がどのようなビジョンを持って歩んでいくべきなのか。どうしたら良くなるのか。そういうことに関心を持たないでいると、会社は衰え、やがて失われていくということです。


 誰もが自分のことには必死になれます。自分の益になるか、不利益になるか・・・その部分では大いに関心が向けられます。しかし、それはやはり自己中心と呼ばれるものであって、神のみこころに沿っているとは言い難いのです。

 本日のみことばでは、「主の祭典はいつ終わるのか?安息日はいつ終わるのか?」といったかたちで、もはや神様への礼拝やその交わりが形式化している様子が語られています。確かに現代の教会でも、子どもたちなどは、あの先生のお話、いつ終わるのかな~と思っているかも知れませんね。牧師も努力が必要です。

 ただ一方で、大人でも自分のやりたいことが先にあって・・・という誘惑はあるでしょう。もはや神様のことが後回しになり、商売や趣味、自分の益が最優先となるとき、私たちは結局自分の益をも失っていくのだということを教えられます。

 

1節 神である主は私に示された。そこには一かごの夏の果物があった。 

「神である主は私に示された」との定型句にて、4つ目の幻がここに示されています。
今回示された幻は「一かごの夏の果物」でした。

2節にて、いつものように神様が問いかけます。「アモス。何を見ているのか。」

 アモスは答えます。「一かごの夏の果物」ですと。すると主は、「イスラエルの民に終わりが来た」と宣告しました。

 このやり取りは、ヘブル語で味わうととても印象深いものとなっています。実は「夏の果物」の部分は、ヘブル語で「カイツ」と言います。そして同じく2節の鍵カッコ内にある「終わり」は、ヘブル語で「ケーツ」と発音します。

 これは新改訳の脚注にも書かれていますが、掛詞(かけことば)でありまして、似た音を使って「ことば遊び」(簡単に言うとシャレ)がなされているのです。

 主は「夏の果物(カイツ)」の幻をイスラエルに示し、それによって「終わり(ケーツ)」を告げているのです。そして、3つ目の幻の時と同じように「わたしはもう二度と彼らを見過ごさない」という厳しい宣言が続いて参ります。

 

3節 その日には、神殿の歌声は悲鳴に変わる。──神である主のことば──多くの屍が、いたるところに投げ捨てられる。口をつぐめ。」 

主のさばきの日、外国から滅ぼされていく日。その日には神殿の歌声は悲鳴に変わると語られます。詩篇の中に、「嘆きは踊りに変わる」という表現がありますが、それとはまったく反対です。主がともにあるならば、様々な嘆き苦しみでさえ、主の豊かな介入によって、益とされ、恵みとなり喜びのダンスに変えられて行くのです。

しかし、今、イスラエルはこの方を拒み、みことばを投げ捨て、人を人とも思わない歩みに終始していました。高らかに歌われていた歌声が悲鳴に変わるとは、なんと悲しいことでしょう。多くの人が命を奪われ、またその遺体も投げ捨てられていきます。


 このように神殿に終わりが来ることは、実に自明の理でありました。

5節 あなたがたは言っている。「新月の祭りはいつ終わるのか。私たちは穀物を売りたいのだが。安息日はいつ終わるのか。麦を売りに出したいのだが。

「新月の祭りはいつ終わるのか」、あるいは、「安息日はいつ終わるのか」とあります。

 これは、神様に対する礼拝、ささげ物、それらを非常に軽んじている姿です。本来は、神様の定めた祭りも安息日も、栄えある喜びの日。それ自体が恵みです。

 しかし、そこに心はなく、早くそれらを終えて自分たちの欲を満たしたい。特に、早く穀物を売りたい、麦を売りたいと、金儲けのことばかり考えていることが分かります。さっさと礼拝やささげ物のお勤めを終えて、商売でぼろ儲けしたいのだ!という彼らの心の声を鋭く描写していると言えるでしょう。どんなに高価なささげ物をしようと、その心は神様に向かっておらず、早く終わらせてどうやって儲けようかと考えているのです。

これは私たち自身も問われる部分がありますね。礼拝はいつ終わるのか、説教はまだ終わらないのか(笑)、早く終わってあれをしたい、これをしたい・・・。もしかしたら、そんな思いを抱くことがあるかも知れません。あるいは、そうは思わないにしても、礼拝中や集会中に仕事のこと、遊びのこと、勉強のこと、他のことをあれこれ考えてしまって、神様に心がまるで向いていない。誰しもそういう経験があるかも知れません。


 ただし、ここには別の課題も語られていることに気づきます。

 5節の途中から6節にかけて、弱者をいかに騙して自分たちだけ利益を得られるか・・・そんなことに心を奪われている様子が語られています。

5節後半~ エパを小さくし、シェケルを重くし、欺きの秤で欺こう。

6節 弱い者を金で買い、貧しい者を履き物一足分で買おう。屑麦を売ろう。」

 ここには人々が気づかないように測る重りを変えてしまい、騙してボロもうけしようという魂胆が現れています。民は気づかないとしても、神様はすべてお見通しなんですよね。

最近、買い物をしたりすると包装は全然変わっていないのに、内容量が減っているなんてことがあり、いつの間に?と思うことがあります。ただ、その場合は、よく見れば表示にはきちんと正確な数字が記されているので「虚偽」とはならないでしょう。

それでも、自分たちから「同じ金額ですが内容量が減っています」と申し出る企業はほとんどありません。

自分たちの利益にならないからです。苦しい事情の中での「苦肉の策」なのだと思います。それでも、あわよくば人々が気づかないでいてくれたらと・・・そんな魂胆が見え隠れするとガッカリしますし、物によっては「もう買わない」と思ってしまう場合もあります。

すべてを知っておられる主の前に誠実に生きるとは、どういうことなのか考えさせられます。 ここでは、貧しい者を奴隷としてどれだけ安く買えるか、あるいは「くず麦」と売りつけてやろうといった、とかく自分勝手で他者への愛もあわれみもない姿に、神様が非常に胸を痛めておられることが伝わってきます。

 この世界にはすべての人が普通に食べて暮らしていけるだけの物資がある。足りていると言います。それでも、飢えて亡くなる方が絶えずいらっしゃるのは、分かち合わないでいるからです。 しかし、7節に「わたしは、彼らのしていることをみな、いつまでも決して忘れない」とあります。主は一部始終をご存知であり、それを忘れることなどないと言われます。それはとても不幸なことです。

 しかし、一つだけ、過去の罪をことごとく忘れていただく方法があります。悔い改め、神に立ち返ることです。

 私たちは罪を犯したならば神様に正直に悔い改めの祈りをすべきでしょう。キリストの十字架を仰ぎ見るのです。そこに完全な赦しがあるのですから。主はキリストにあって赦した罪を、もう思い出さないと言っておられます。

 ただ、この時のイスラエルはもはや救いようがない状態でした(悔い改めがない)。

 9-10節で、主のさばきがくだると、どのようになるのかが語られています。

9節 その日には、──神(ヤハウェ)である主のことば──

わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くする。

10節 あなたがたの祭りを喪に変え、あなたがたの歌をすべて哀歌に変える。

すべての腰に粗布をまとわせ、頭を剃らせる。

その時をひとり子を失ったときの喪のように、その終わりを苦渋の日のようにする。

9節の「真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くする。」は、実際に日食などが起こるということではなく、比喩的なものであろうと思います。そして、その悲しみの深さは10節にある通りです。それは国中が喪に服すような状態で、深い嘆き、後悔がかけめぐることでしょう。

そんな後悔はごめんです。神の国とその義を第一に求めましょう。必要なものは主から来るのです。いや、もっと良き豊かなもので私たちを満たしてくださいます。



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