東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ルカの福音書24章50-53節「天に昇られたキリスト」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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現在、コロナの感染状況を考慮し、夜の祈祷会はお休みしています。先日の地震で被災された方々の上に神の慰めと支えがありますように。

2022/02/14

ルカの福音書24章50-53節「天に昇られたキリスト」

*** 2/13(日)礼拝 説教概略 ***

ルカの福音書24章50-53節「天に昇られたキリスト」

 以前、牧会の働きのことで悩み考えていた時に、ある先輩牧師にご相談していました。その時に、こんなことばを頂きました。確かにこの地上で歩んで行く中で、教会も色々な試練を通らされるものです。それでも、どんなに傷ついても、教会はやがて美しく飾られたキリストの花嫁としていただける。そこに希望がありますねと。最後には必ず、教会はキリストの花嫁として美しく飾られて迎え入れられる。それで問題が解決されるわけではありませんが、不思議に励まされたのを思い出します。

 つまずこうと、傷つこうと、ドロまみれになろうと。キリストがいのちをささげて贖い出したキリストの教会、そこにいる一人一人は、最後はシミも汚れもない美しい花嫁のように、主イエス様に迎えられ、天の御国、新天新地へと招かれて行くのです。そこに希望があり、勝利が確定しており、天に国籍を持つ者とされていることの幸いを思わされるのです。

 今日のみことばは、その根拠の一つです。いよいよルカの福音書の最後のみことばです。ここでは、主イエス様が天に昇って行かれた様子が語られています。実にここには確かな希望大きな励ましがあります。

 本日は、幾つもの聖書個所を開きますので、礼拝堂に来られている方には印刷されたものをお配りしています。また、インターネットで視聴される方のために画面にも表示されるようにしたいと思います。みことばを噛み締め、天に昇られたキリストの姿に希望と励ましをいただいて参りましょう。

 

1.天に昇られる主

 
ルカの福音書24章25-26節
50 それからイエスは、弟子たちをベタニアの近くまで連れて行き、手を上げて祝福された。
51 そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。

 イエス様は十字架の死から復活し、40日間ほど弟子たちとともに過ごしました。この間に500名以上もの人々に復活されたご自身を示されました。そして、この世を去る時、弟子たちも別れが辛かったでしょうけれど、実はイエス様自身も別れがたい思いだったのはないでしょうか。ここにあるように、イエス様は弟子たちを大いに祝福し、最後の最後まで祝福しながら、天に昇って行かれているからです。イエス様が弟子たちを本当に愛され、大事に思っておられた事が伝わって来ます。
 尚、以前の訳では「天に上げられた」の部分は脚注で扱われていましたが、2017年版では本文に訳し出されています。こうしてイエス様は、死んでこの世を去るのではなく、生きたまま天に昇って行かれました。しかも、弟子たちにその姿の一部始終をお見せになりました。

 それは、弟子たちにとって確かな希望、大きな励ましとなりました。主がまことの神であること、主のおられる天の御国があること、そして主のことばが真実であることが、ますます明らかにされたのです。ヨハネの福音書657-58をご覧ください。聖餐式の時に読まれることもあるみことばです。

ヨハネの福音書6章57-58節
57節 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。 58節 これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」

 イエス様が「天から下って来たパン」と表現されています。天から遣わされて下って来たのですから、帰るのは当然ながら天ですよね。イエス様はこのおことば通りに、まさに天から下って来られたことの証拠として、天に昇って行かれました。そしてまた、このイエス様というパンを食するならば、つまり受け入れるのならば、その人もまたイエス様とともに天の住まいへと導かれる者となるのです。それを主は信じる者に与えてくださいます!
同じヨハネの142-3もご覧いただければと思います。

ヨハネの福音書14章2-3節
2節 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。3節 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。

 イエス様は、このようにも弟子たちに教えていました。そして、本日のみことばでは、まさに天の住まいを用意しに天に行かれるのです。そして、私たちのための天の住まいの用意が終わったらどうされるのでしょう?再び戻って来られ、すべてのキリスト者を天の住まいに導かれます。
 「天の住まい」ってどんなところなのでしょう?楽しみですね。



2.再び天から来られる主 


さて、イエス様はこうして天に上げられた時と同様の姿で、この世界に戻って来られます。使徒の働き19-11を開きましょう。この使徒の働きはルカの福音書の続編です。ですから、ルカの福音書の最後で語られていたことが、ここでも繰り返され、さらに補足も加えられていると言えるでしょう。

使徒の働き1章9-11節
9 こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。 
10 イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。 
11 そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」

 ここでは、天使たちによって弟子たちに明確に、同じような有様でイエス様がまたおいでになるのだと宣言されています。再臨の約束です。しかも、イエス様が私たちをお出迎えし、エスコートしてくださるのです。行く先が決まっているということは、なんと幸いで嬉しいことでしょうか。主キリストは私たちに「平安があるように」とおっしゃいます。

 しかし、もしこの地上の日々だけが守られるということで、「死後は知らないよ」という話なら、今から死を恐れ不安で仕方がないのではないでしょうか。ところがキリストにある者は、そうではありません!年を取るということさえ、イエス様とお会いできる日が近づいたということであり、イエス様が用意された天の住まいに入居できる日が近づいたということです。

 イエス様を信じてさえいれば、誰でも確実に天の住まいに入居できますから安心ですね。抽選とか早い者順とか、「お金がないとダメ」なんてことはありません!漏れなく!確実に!天の住まいが備えられています。

 神様は、毎日の歩みにおいても助け、支え、喜びまでも与えてくださいますが、肉体の死後にも、平安に満ちた天の住まいでの歩みを用意されているのです。黙示録によれば、神様の備えておられる新しい住まいでは、涙をことごとくぬぐい取られ、もはや死は存在せず、悲しみも叫びも苦しみもないとあります。



3.とりなしてくださる主 

 
 さて、天に昇られた主イエス様は、住まいの備え以外には、何をしてくださるのでしょうか。ローマ書8:34では、私たちのためにとりなしてくださっていることが分かります。
ローマ書8章34節
だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。

「とりなし」とは対立する二人の間に別の誰かが入って、関係を回復してくれることです。信じてなお罪を犯してしまう私たちのために、父なる神様に向かってイエス様が弁護してくださる。本当に嬉しいことに、イエス様が間に立って、関係を取りもってくださるのです。

第一ヨハネ2:1では、「私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます」ともあります。天の御座におられるキリストが、私たちの前に立ってくださることで、父なる神様はキリストの義を通して、私たちを見てくださるのです。キリストの義、無罪のしるしが、私たちを覆っているのです。ですから、私たちは安心して父なる神様のふところに飛び込んで行けるのです!それどころか、私たちの内に住んでくださる神の御霊・聖霊も、私たちを助けとりなしてくださいます(ロマ8:26をご覧ください)。ということは、天ではキリストが、地上ではうちにおられる主の御霊が、「二重のとりなし」をもって、私たちと父なる神様との親しい交わりを支えてくださるのです。 



4. キリストにある望み

 そして、これらの天に昇られたキリストにある望みが弟子たちを励まし強くしました。
ルカ2452-53節です。

 21章25-26節
52 彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、
53 いつも宮にいて神をほめたたえていた。

 本来ならば、イエス様がおられなくなってさみしいはずです。不安なはずです。しかし、彼らの心は喜びに満ちていました。

なぜでしょうか? イエス様が死に勝利され、天国への道を弟子たちに現わし、神の栄光を見せてくださったからです。主がおことば通り、生きたままで栄光のうちに天に帰って行かれた。天において主が生きておられるからです。

「主が天において我らのために住まいを用意し待っていてくださる!だから、自分たちも地上で主の御名を伝えよう!」そんな勇気を与えられたことでしょう。彼らは天に上げられた主イエス様を礼拝し、この方がまことの神であるとの確信の中で、喜びながら神をほめたたえたのです。

主イエス様は、物理的には離れて行かれたように見えます。しかし、キリストの御霊によって、私たちのうちで主の臨在に触れさせ、絶えずとりなしてくださるのです。主は世の終わりまで、とこしえまで、信じる者とともにおられるお方です。決して見捨てられることはありません。

そして、先ほど使徒の働き1章も読みましたが、そこにあったように、キリストは天に上げられた時と同じようにして、再びこの地上に再臨されます我らを迎えに来られるのです

死は終わりではありません。もはや、キリストが死に勝利し、信じる者たちもこのキリストのいのちにあずかっているのです。ここに確かな希望があります。

この望みが私たちを強くするのです。

ディートリヒ・ボンヘファーもその一人でした。彼はナチス・ドイツに最後まで抵抗した牧師で、やがて逮捕されナチスに処刑されます。しかし、収監されても尚、死が目前に迫ってもなお、この確かな希望の中で平安のうちに歩んでいたことが証しとなり、多くの人を励ましてきました。彼が強制収容所から愛する婚約者やその家族に送った手紙、そこにあった詩は歌となって語り継がれ、現代も歌われています。私たちの教会でも何度かささげた賛美です。

2番の歌詞にはこうあります。「たとい主から差し出される杯は苦くても、恐れず感謝をこめて、愛する手から受けよう。」 私たちの歩みの中では、苦い杯を飲まなければならない事が確かにあります。それでもその背後に主のご愛と良きご計画があるのです。恐れず感謝を込めて、愛する主の御手からそれを受取ろうという告白です。

そして、この歌のサビではこう歌われています。「善き力に守られつつ、来たるべき時を待とう。夜も朝もいつも神は、われらと共にいます。」 どんな状況にあろうと神の善き力、愛する者たちの善き力に支えられいる幸いを彼は獄中でも確かに感じていました。死が目の前にありながら。愛する者から引き裂かれていながら、尚、彼の心には光があったのです。平安に包まれていたのです。いつも神がともにおられ見捨てられることのない平安がありました。

なんと力強いキリスト者の姿でしょうか。死に既に勝利された主が、われらと共にいます。



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