東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: アモス8章11-14節「みことばの飢饉」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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現在、コロナの感染状況を考慮し、夜の祈祷会はお休みしています。先日の地震で被災された方々の上に神の慰めと支えがありますように。

2022/02/17

アモス8章11-14節「みことばの飢饉」

*** 2/17(水)祈祷会 説教概略 *** 

アモス811-14節「みことばの飢饉」

 私たちは新型コロナウイルスの影響で、一時期教会堂に集まれないという経験をしました。初めての事でした。そうなって初めて、ともに集まって礼拝することが「当たり前ではない」ということに気づき、集まること交わることへの飢え渇きが起こったように思うのです。

 人間には失って初めて、ようやく気づける・・・そういう弱さがいつもあるように思います。「まさか失われることはないだろう」と、タカをくくっている部分があるのですよね。

 そして、当たり前にそこにあるという感覚が、次第に与えられていることへの感謝・ありがたみを分からなくさせてしまうことがあります。

 「みことばがある」ということの恵みも、いつでも様々な手段で聖書を読める現状では、意外にも見えなくなってしまうものなのかも知れません。現代ではスマホでもPCでも読めますよね。色々な人のメッセージがインターネットで自由に視聴できる時代でもあります。

 しかし、自分の聞きやすい好きなメッセージを選り好みするようになる時、実はみことばの飢饉がそこに訪れているのかも知れません。みことばは聖書のあらゆる部分から語られる必要があり、また、好みで寄せ集めるものではないからです。本来のみことばの持ついのちの力が失われることがないようにと願います。

 

 本日のみことばに聞いて参りましょう。

11節 見よ、その時代が来る。──神である主のことば──そのとき、わたしはこの地に飢饉を送る。パンに飢えるのではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことの飢饉である。  

 いよいよもって深刻なことは、みことばを聞くことが出来ないと言う意味での飢饉です。預言者が立てられて主のみことばを聞く機会がありながら、なおそれを拒絶する者たちは、そのみことばさえも取り上げられてしまいます。

 預言者がいることは当たり前ではありません。牧師や説教者がいることも当たり前ではありません。

また、聖書が読めることさえも実に当たり前ではないのです。国によってはキリスト教を禁じています。聖書を自由に読めない人々もいます。教会に集まることも自由にできない国、状況がいくらでも起こり得るのです。それはもちろん、罪深い歩みしたからそうなった・・・とは限らず、求めていても迫害などの中で奪われることもあります。

ですから、みことばが与えられている時を無駄にしてはいけないのです。

今、みことばを聞ける、聖書を学べる。

これは神様からいただいている大きな恵みであって、それを拒んで、みことばを求めなくなる時、主はそれさえも取り上げられることがあるのだと教えられます。

ところが、私たちははしばしば、みことばよりも目の前の必要に心が奪われがちです。しかし、パンや食べ物は人の肉体を生かすのに必要ですが、みことばは私たちの心と魂を生かす上で欠かすことができないものです。

パンでは心の飢えを満たすことは決してできないからです。実際に、イエス様は人はパンのみで生きるのではなく、みことばによって生きるのだということをお示しになりました。悪魔の試みにあわれた時のことです。荒野で悪魔からいくつもの誘惑を受けました。その時にイエス様はどのように応じられたのでしょう。神の奇跡のみわざによって応じたのでしょうか?いいえ。そうではありません。私たちができる方法、みことばによって応じられたのです。空腹がイエス様を襲い、悪魔が石に命じてパンになるようにと、神の子なのだからできるでしょうと誘惑しました。すると、イエス様はこう答えられました。 

マタイ4:4 イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」 (参照:申命記8:3) 

実はこのイエス様の答えの元になっているのも申命記8:3です。イエス様はみことばを引用しながら、人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るみことばによって生きるのだと悪魔に対抗し、勝利されたのです。イエス様はこの後の悪魔の誘惑にも、みことばによって反論し、悪魔を退けたました。

 

アモス書に戻ります。みことばが与えられていることが当たり前ではない。いざ欲しいと思うときにはもう手に入らない。そういう現実が確かにあることが語られます。12節。

12節 彼らは海から海へと、北から東へとさまよい歩く。主のことばを探し求めて行き巡る。しかし、それを見出すことはない。 

 どんなに探しても見つけられない。そういう暗黒の時代が起こり得ます。そして、神様のいのちのみことばを受けられないとすると、13節のように、心や魂が飢え渇いて衰えはててしまいます。

13節 その日には、美しい若い女も、若い男も、渇きのために衰え果てる。

 象徴的ですよね。美しい若い女性、美しい若い男性、すなわち美男美女という容姿の美しさがある人々。しかし、どんなにそうした外見の美しさが与えられていようと、魂が飢え渇き日照りのようになってしまえば、結果外側も含めておとろえ果ててしまうのです。とても力強く歩んでおられる年配の信仰者の皆さんを見ていると、やはり心に火が灯っているのですよね。力強い年配の牧師先生を見ていると、やはり宣教の情熱、人の救いを願う熱い思いがそこに見えます。みことばの感動がそこにあります。それが人を生かしているのだと教えられるのです。

 

14節 彼らは、サマリアの罪過にかけてこう誓う。『ダンよ、あなたの神は生きている。』『ベエル・シェバの道は生きている。』しかし、彼らは倒れて二度と起き上がれない。」

 神の民は誓う時に「主は生きておられる」と言って誓うことがありました。

しかし、それは、本当に生きて働かれる主がおられることが大前提です。ところが、もはやこの時のイスラエルは、生けるまことの神ではなく、何の力もない偶像を指して誓います。『ダンよ、あなたの神は生きている。』『ベエル・シェバの道は生きている。』と言いますが、もちろんそこには何の力もないのです。ダンしてもベエル・シェバにしても、偶像礼拝が盛んになされた地です。それらの偶像礼拝の神にすがったとしても、彼らは何もできませんので、いかに空しいものであるかが明らかにされているのです。

 私たちは生けるまことの神様から、私たちを生かす「いのちのみことば」をいただいているのです。みことばにはそのいのちの力があります。

ヘブル4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

 神のみことばは生きていて、力がある。私たちはこのみことばのいのちの力によって生かされていくのだということをいつも忘れずにいたいと思います。

 みことばへの無関心が、みことばがまっすぐ語られることを失わせて行くからです。みことばが絶えず語られることに関心を持たないと、それらは気が付いた時には目の前になく、また、求めても中々手に入らないということさえ起こるでしょう。

 多くの預言者がそうやって退けられ、殺された現実がそれを物語っています。

 私たちはみことばの飢饉ではなく、みことばの大豊作を祈り求めていきましょう。どこでもみことばが分かち合われる交わり。みことばによって励まされる歩み。教会のどこでも主のみことばが聞こえてくる。語られる。分かち合われる。私たちと接するすべての人が主のみことばに触れられますように。



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