*** 2/17(水)祈祷会 説教概略 ***
アモス8章11-14節「みことばの飢饉」
11節 見よ、その時代が来る。──神である主のことば──そのとき、わたしはこの地に飢饉を送る。パンに飢えるのではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことの飢饉である。
いよいよもって深刻なことは、みことばを聞くことが出来ないと言う意味での飢饉です。預言者が立てられて主のみことばを聞く機会がありながら、なおそれを拒絶する者たちは、そのみことばさえも取り上げられてしまいます。
預言者がいることは当たり前ではありません。牧師や説教者がいることも当たり前ではありません。
パンでは心の飢えを満たすことは決してできないからです。実際に、イエス様は人はパンのみで生きるのではなく、みことばによって生きるのだということをお示しになりました。悪魔の試みにあわれた時のことです。荒野で悪魔からいくつもの誘惑を受けました。その時にイエス様はどのように応じられたのでしょう。神の奇跡のみわざによって応じたのでしょうか?いいえ。そうではありません。私たちができる方法、みことばによって応じられたのです。空腹がイエス様を襲い、悪魔が石に命じてパンになるようにと、神の子なのだからできるでしょうと誘惑しました。すると、イエス様はこう答えられました。
マタイ4:4 イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」 (参照:申命記8:3)
実はこのイエス様の答えの元になっているのも申命記8:3です。イエス様はみことばを引用しながら、人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るみことばによって生きるのだと悪魔に対抗し、勝利されたのです。イエス様はこの後の悪魔の誘惑にも、みことばによって反論し、悪魔を退けたました。
私たちはみことばの飢饉ではなく、みことばの大豊作を祈り求めていきましょう。どこでもみことばが分かち合われる交わり。みことばによって励まされる歩み。教会のどこでも主のみことばが聞こえてくる。語られる。分かち合われる。私たちと接するすべての人が主のみことばに触れられますように。