*** 2/20(日)主日礼拝 説教概略 ***
民数記10章29-36節「一緒に行きましょう」
教会は敷居が高い、行くのに勇気がいるとよく言われます。でも、そうであってはならないと思います。教会は普段集っている者たちが自分たちの満足のためだけにあるのではありません。人のために仕えてこその教会です。悩む人、苦しむ人、神を知らない人々のために仕えるのが教会です。初めての方をいつでも歓迎するのが教会です。
今日のタイトルは、「一緒に行きましょう」としていますが、行きましょうの部分、あえて「生きる」ということばを使って、「一緒に生きましょう」という意味を出そうと最初は考えました。しかし、最終的に聖書のことばそのものをタイトルにと考えこのようにしました。ただ、皆さんには、一緒に生きていく、ともに人生を歩んで行こうと言う意味も含めて、聴いていただきたいのです。孤独に生きず、ともに歩んで行くのです。人は人からしか生まれて来ないのです。助け合って楽しく歩んで行く。教会はそういう場所なのです。
1.一緒に行きましょう
民数記10章29節
さて、モーセは、彼のしゅうとミディアン人レウエルの子ホバブに言った。「私たちは、主が与えると言われた場所へ旅立つところです。私たちと一緒に行きましょう。私たちはあなたを幸せにします。主がイスラエルに良いことを約束しておられるからです。」
モーセの義理の父はミディアン人レウエルと言いました。別名ではイテロ。そのレウエルの息子の一人でホバブと言う人がいました。モーセの義理の兄にあたる人物です。ここでは、モーセがその義理の兄ホバブに、これからも一緒に来て欲しいとお願いしているのです。と言うのは、義理の兄ホバブはユダヤ人ではなかったからです。ミディアン人と呼ばれる民族で、彼らは神の民ではありません。ただ、モーセの親族になったので、ここまでは一緒に来てくれたのです。
ところが、いよいよ神の約束の地へ向かう段階となったので、ホバブは自分の地に戻るべきだと考えていたのでしょう。
しかし、モーセは熱心に彼を誘います。「一緒に主が与えると言われた地へ行きましょう!」。さらにモーセは「私たちはあなたを幸せにします」とまで宣言しているのです。
まるでプロポーズのことばのようですね。ここまで明確に語り、一緒に行きましょう!とお誘いできるのは、スゴイことですよね。皆さんは、「私と一緒にぜひ行きましょう!あなたは幸せになれますよ!」と知人に言えるしょうか?
簡単ではないですね。では、なぜ、モーセはこんなことを言えたのでしょうか?
彼が厚顔無恥な、厚かましい人だったからでしょうか。自信過剰だったのでしょうか?
そうではありません。実はモーセは少し前には、「私はことばの人ではありません。とてもこの民を説得するなどできません」と、怯えていた人なのです。
神様から示されても「ことばは苦手です」と断った人でした。では、なぜ、彼はこんなに大胆に言える者とされたのでしょう?
それは、この世界の造り主を本当の意味で知ったからですです。
「私たちはあなたを幸せにします」このことばのすぐ後に、こう続いています。「主がイスラエルに良いことを約束しておられるからです。」
全世界の造り主で、私たちを良い物で満たしてくださる神様がいらっしゃる!この方が私たちに良き事を約束してくださっている。この確信を得たので、この根拠があったので、臆病な彼でもこんなに大胆に義兄をお誘いできたのです。
「自分には力がない。けれども、この民を愛し祝福される神様には、圧倒的な力があり、深いご愛と優しさで満ちている。だから、この神を信じる私たちと一緒に行くのならば、あなたもこの祝福にあずかることができるのです!」
と彼は言えたのです。神様によって、言わせていただけたのです。モーセは32節でも、もう一度このことを繰り返して彼を説得しています。
私自身もモーセと似ていると思えるところがあります。今でこそ、皆さんの前で語る者へと変えられましたが、かつては人前に立つと緊張で頭が真っ白になり、顔は真っ赤になり、声は震え、思っていることの半分も話せない人間でした。
けれども、イエス・キリストと出会い、この方を信じて歩むようにされ、本当に大きく変えていただきました。揺るぎない土台が自分の中に生まれました。人を励ます時に根拠を持って、確信のうちに語れるようにしていただきました。それを自分の生涯のライフワークにしたいと思うようになりました。なんという幸いな働きであろうかと思わされます。
しかも、本当に大丈夫だろうか?という不安な気持ちを持ちながらではありません。確信を持ってお伝えできる喜びがあります。私たち自身は不十分。欠けだらけ、弱い者です。それこそ私たち自身が人を幸せにする力を持っているかと問われれば、とても「はい」とは言えないでしょう。けれども、神様が私を祝福してくださるという確信は持つことができます。
ですから、私を通して働かれる神様が、あなたを祝福され、必ず幸いな道と導いてくださる!「ぜひ、私たちと一緒に行きましょう」とお声かけさせていただけるのです。
新約聖書でパウロという宣教者が、確信を持って語ることができたのもこの確信によるものでした。彼は絶望し、自害しようとしていた人にこう言いました。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも、あなたの家族も救われます」と。私たちは本来、絶望している人に語られることばなどありません。無力です。でも、「大丈夫!主イエス様を信じてごらん。あなたも、そしてあなたの家族も大丈夫だから」と言える。こんなに嬉しいことはありません。
2.必要とされているということ
さて、このモーセの熱意と確信あることばによって、義理の兄ホバブは決断できたのでしょうか。30節を見るとこのような彼の応答が語られています。
民数記10章30節
彼はモーセに答えた。「私は行きません。私の国に、私の親族のもとに帰ります。」
熱烈にお誘いしたのに、あっさりハッキリ断られてしまいました。彼は自分の親族がいるミディヤンの地に戻ると言いました。人生は甘くないですね・・・笑。
ただ、彼がこのように断ることによって、モーセの口からはまた別のメッセージも語られました。断られることもまた、意味があることで、神様の導きがそこにあると言えるでしょう。31-32節です。
民数記10章31-32節
31 するとモーセは言った。「どうか私たちを見捨てないでください。というのは、あなたは、私たちが荒野のどこで宿営したらよいかご存じで、私たちにとっては目なのですから。
32 私たちと一緒に行ってくだされば、主が私たちに下さるはずのどんな良きものも、あなたにお分かちできます。」
32節の部分は先ほどの繰り返しになっていますが、31節は別の角度から、語られています。モーセはなんと言ったのでしょうか。「私たちを見捨てないでください。あなたは私たちにとって目なのですから」というメッセージでした。
ホバブという人が、この荒野の旅路において、まさに目の代わりになるほど、地理に詳しい人であったことが分かります。特に水場がどこにあるか等、細かい部分で彼の助言が非常に役に立ったのでしょう。
ここには結果が記されていないのが聖書のお洒落なところです。ただ、士師記を読むと、そこに彼が一緒に行ったんだなと思える記述が出てきます。彼の子孫がこの民に加わっているのです。
新約聖書において、教会に属するひとりひとりは、体の各器官であると語られています。まさに、目であり耳であり、口であり鼻である一人一人。それぞれの個性、賜物が生かされ、折り重なるようにして神の国の働きが進んで行くのです。
何より、モーセがここで伝えた事実は何かと言うと、「お兄さん、あなたが私たちには必要なのです」というメッセージです。「どうか私たちを見捨てないでください」とのことばもあります。
とある教会の礼拝に、ある方が初めて参加されました。人数も少なくて、この教会、大丈夫かなと感じたそうです。「ぜひまた来てください」と懇願され、じゃあ、こんな自分だがお役に立てればとの思いで集うようになったそうです。そんな風な理由で集い始める方もいらっしゃるのだなと新鮮に感じたものです。
でも、きっと、そこに自分が必要とされていると感じたのではないでしょう。そして、その方にとって「あなたが必要です」と言われることがなくてはならない大切なことだったのだと思うのです。
神様がその方を必要とし、教会がその方を必要としたのです。
人にはこのように「必要とされる居場所」がどうしても必要なのです。
マザー・テレサが言うように「人生最大の悲劇は、誰からも愛されていない、誰からも必要とされていないと思い込んで死んでいくことだ」と私も思います。
ですから、神様があなたを必要だとおっしゃっている声を、どうか聴いてください。不要な人など一人もいません。もう1回言います。不要な人など一人もいません。もう1回言います。不要な人など断じて一人もいないのです。自分で決めちゃダメです。
不要かどうかはあなたが決めることじゃなく、周りの人が決めることです。誰よりもあなたを造られ、この世界を造られた神様が決めること。
神様は目的を持ってあなたを造られた。神様のご計画のためにあなたが必要なので、あなたが存在している。役に立つ者なのです。
ぜひ、一緒に行きましょう。私たちはあなたが必要です。
ぜひ、一緒に行きましょう。神様があなたを求めておいでです。