そして、実際、完成したものによって、色々な味わいが出ますよね。
優しい感じ。
華やな感じ。
落ち着いた感じ。
清潔感。
癒される感じ。
あるいは斬新さがあるかも知れません。
それは飾る人自身の手にゆだねられています。
神様と私たちの関係もこれを似ているかと思います。
神様が「私たちという花」をどのように活けてくださるのか。
どんな環境に置こうか?どんな配置にしようか?
どんな人たちと関わり、協力するようにしようか?どんなことに用いようか?
私たちは置かれた場所、与えられたところで、自分らしく神の御手で造られた輝きを放てば良いと思います。
一昔前にスマップというグループが「世界に一つだけの花」という歌を歌いました。「ナンバー1にならなくてもいい。元々特別なオンリー1」なんだ。それぞれの良さがあるから、自分らしく花を咲かせればいいと。
本当にそうです。神様は私たちを世界でただ一人の、代わりのきかないオリジナル作品として造られたのですから。同じ人はいないのです。
しかし、私たちの多くは互いに優劣を比べ合ってしまいがちです。
聖書の中でも、そのように比べてしまった場面があります。
Ⅰ列王記19:4にて、預言者エリヤという人が登場しますが、彼が疲れ弱り、自己憐憫に陥っていたときのセリフがあります。
彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」
私は先祖たち、先輩たちのようにはできません!彼らにまさっていないのです!
このようなことは、私たちにもありますよね。
「私はあの人のようにはできません。無理です。」
頭でわかっているけれども、つい比較をして苦しむのです。
だから、私は「比較しないように」とは言わないことにしています。
問題なのは比較によって優劣をつけること。違うことで相手をさばくこと。
無理やり同じにさせよう、同じになろうとすることです。むしろ、同じになっちゃダメなのですよね。同じにさせてもいけません。神様のデザインがあるのですから!!
ルカ21章
2節 「向こうの村へ行きなさい。そうすればすぐに、ろばがつながれていて、一緒に子ろばがいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。
3節 もしだれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐに渡してくれます。」