東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ルカ21章2-3節「主がお入り用なのです」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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現在、コロナの感染状況を考慮し、夜の祈祷会はお休みしています。先日の地震で被災された方々の上に神の慰めと支えがありますように。

2022/02/23

ルカ21章2-3節「主がお入り用なのです」

*** 2/22(水)ほっとカフェ 講演 *** 
「手軽にお花を飾ろう!」のイベントにて

 お花を飾るというのは、野に咲いているままを鑑賞するのとはまるで違いますよね。

「それぞれのお花の良さをどう生かして飾るのか」

 ということで、選択肢は無限にあると言っていいでしょう。


 お花を選ぶところから始まります。そして、どう組み合わせるのか?
 一輪だけなのか、あるいはたくさんの花を飾るのか?
 どういう配色にするのか?葉の形や大きさなども関係あるでしょう。
 どういう向きにするのか?飾る人によって千差万別です。

 そして、実際、完成したものによって、色々な味わいが出ますよね。

 優しい感じ。

 華やな感じ。

 落ち着いた感じ。

 清潔感。

 癒される感じ。

 あるいは斬新さがあるかも知れません。


 それは飾る人自身の手にゆだねられています。

神様と私たちの関係もこれを似ているかと思います。

神様が「私たちという花」をどのように活けてくださるのか。

どんな環境に置こうか?どんな配置にしようか?

どんな人たちと関わり、協力するようにしようか?どんなことに用いようか? 

 私たちは置かれた場所、与えられたところで、自分らしく神の御手で造られた輝きを放てば良いと思います。

 一昔前にスマップというグループが「世界に一つだけの花」という歌を歌いました。「ナンバー1にならなくてもいい。元々特別なオンリー1」なんだ。それぞれの良さがあるから、自分らしく花を咲かせればいいと。

 本当にそうです。神様は私たちを世界でただ一人の、代わりのきかないオリジナル作品として造られたのですから。同じ人はいないのです。


しかし、私たちの多くは互いに優劣を比べ合ってしまいがちです。

聖書の中でも、そのように比べてしまった場面があります。

Ⅰ列王記19:4にて、預言者エリヤという人が登場しますが、彼が疲れ弱り、自己憐憫に陥っていたときのセリフがあります。

 彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」 

私は先祖たち、先輩たちのようにはできません!彼らにまさっていないのです!

このようなことは、私たちにもありますよね。

「私はあの人のようにはできません。無理です。」

頭でわかっているけれども、つい比較をして苦しむのです。

だから、私は「比較しないように」とは言わないことにしています。

むしろ「比較しちゃってください!比較していいですよ!」と申し上げます。

ただし、正しく比較しましょう!

実は比較自体は悪いことではありません。私たちは他の人と比較しないと、自分の良さも特徴も課題も、そして他の人の豊かさも違いもわからないのです。

「話し合えばわかる」とよく聞きますが、話し合って同じ考えになるという意味ではないですよね。話し合えば意見が一致するというのは幻想です。むしろ、そう思っていると、なぜ、同じになれないのか?と悩み苦しみます。

「話し合えば、違いがわかる」のです。違うことを理解し合い、違うからこそ神様の良いご計画の中でみなで補い合って協力していくのだと分かるのです。

 問題なのは比較によって優劣をつけること。違うことで相手をさばくこと。

無理やり同じにさせよう、同じになろうとすることです。むしろ、同じになっちゃダメなのですよね。同じにさせてもいけません。神様のデザインがあるのですから!!

ルカ21章 

2節 「向こうの村へ行きなさい。そうすればすぐに、ろばがつながれていて、一緒に子ろばがいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。

3節 もしだれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐに渡してくれます。」

 他の人がどうこう言えることではないのです。
 
 誰かが、あれこれ言い出しても、わたしのことばを告げなさいとイエス様は言われたのです。

 「主がお入り用なのです」これだけで十分です。

 主が必要としている。だから今ここにいる。 
 最善の場所。最善の計画の中にあるのです。






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