*** 1/26(水)祈祷会 説教概略 ***(アップが遅れました)
アモス7章1-6節「思い直される主」
1節 神である主は私に示された。見よ。王が刈り取った後の二番草が生え始めたころ、主はいなごを備えられた。
いなごの災害というのは、私たちが考える以上にひどいもので、穀物がことごとく食い荒らされてしまいます。「王が刈り取った後の二番草」とあります。これはいくつか解釈があるようです。一つには、一番草は、王様の軍馬が走りやすいように刈り取られ、二番草は民の家畜のために残されるという説があります。その家畜のための草が食べられてしまうという可能性です。あるいは、人間が食べる農作物が直接いなごにやられるという理解もあります。
いずれにせよ、いなごによって甚大な被害を受けるということは明白です。神様は、イスラエルの罪のゆえに、このような深刻なさばきをなさるとアモスに示されたのです。
このみことばの通りです。主はいきなりさばきを下すのではなく、預言者にこれを示して民に伝えるようにされたのです。それは、神様が人を愛しているからです。どんなに悪があふれているとしても、なお、悔い改め立ち返るチャンスを忍耐深く与えてくださる故です。
2節 そのいなごが地の青草を食い尽くそうとしたとき、私は言った。「神、主よ。どうかお赦しください。ヤコブはどうして生き残れるでしょう。彼は小さいのです。」
2節「ヤコブはどうして生き残れるでしょう。彼は小さいのです」と、ここはまた神の民を「ヤコブ」という名で語られています。
これは6章の8節に対応しているように思われるのです。そこでは神様が「ヤコブの誇りを忌み嫌う」とありました。「ヤコブ」というのは、12部族を生んだイスラエルの昔の名前です。生まれもっての名前です。神のご支配のもとで歩み始める前の名前でした。
そこには「かかとを掴む」「出し抜く」といった意味がありました。ずる賢く歩んで自らを大きく見せて誇る姿です。主はこのような人間的高慢を忌み嫌われると言うのです。
4節からは、2番目の幻が示されています。
4節 神である主は私に示された。見よ、神である主は、責める火を呼ばれた。火は大いなる淵を吞み込み、割り当て地を焼き尽くそうとしていた。
これは干ばつを意味していると理解されます。ここにある「大いなる淵」とは創世記1章2節では「大水」と訳されていますし、創世記7章11節ではノアの箱舟の場面で「大いなる淵」と訳され、そこでは「大いなる淵が裂けて、天の水門が開かれた」とあり、大洪水(大雨)の源として使われています。
火がそのような大水の源を焼き尽くすということは、水が失われる干ばつ、大飢饉を指していると言うわけです。
私たち一人一人は本当に小さな者です。その信仰もまたからし種ほどです。それでも、主の力が覆う時、からし種は芽を出し、育ち、やがて鳥が巣を作るほどの大きな背の高い姿に成長するのです。