東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: アモス7章1-6節「思い直される主」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/01/29

アモス7章1-6節「思い直される主」

 *** 1/26(水)祈祷会 説教概略 ***(アップが遅れました)

アモス7章1-6節「思い直される主」

 人を育てる時、忍耐して待つことは本当に大変だと思います。代わりにやってあげた方が早いですし、さっさと答えを出してあげた方が楽なのです。ただ、その人自身の人格の成長のためには、人が代わりにやってあげたり、代わりに答えを出してあげたりしてはあまり益になりません。

 神様も私たちに対して、忍耐深く語りかけ、待っていてくださいます。

 私たちの人格を無視することをなさいません。従うことしか選べないロボットのようには造られていないのです。ですから、主ご自身が時に胸を痛めながら、放蕩息子を待ち続けるあの父親のように、私たちを待っていてくださいます。正義のさばきでさえも、その時を遅らせ、待っていてくださいます。 


この7章からは、主がアモスに示されたいくつかの幻について語られています。

9章までで5つの「さばきの幻」が示されています。この概略を最初に説明しますと、1番目と2番目のさばきについては、アモスの必死のとりなしによって、主が思い直されるというものです。思い直されることで、主がそのさばきを遅れさせてくださるわけです。その期間こそ、まさに悔い改めの機会。主の忍耐は、人々の悔い改めのチャンスですよね。待っていてくださるのですから。ところが、イスラエルはその期間に悔い改めなかった。そのことのゆえに、三番目のさばきの幻は確定的なものになっていきます。

 とはいえ、1番目、2番目と、アモスのとりなしの中で主が思い直されたということに、大きな希望と慰めを見出します。そしてまた、その忍耐の期間に、救いを求めることができるという神様のあわれみ深いご計画です。

1節で「神である主は私に示された」と始まります。同様に4節でも、また7節でも同じ表現を繰り返しながら、主の幻の啓示が語られていきます。

1節 神である主は私に示された。見よ。王が刈り取った後の二番草が生え始めたころ、主はいなごを備えられた。 

 いなごの災害というのは、私たちが考える以上にひどいもので、穀物がことごとく食い荒らされてしまいます。「王が刈り取った後の二番草」とあります。これはいくつか解釈があるようです。一つには、一番草は、王様の軍馬が走りやすいように刈り取られ、二番草は民の家畜のために残されるという説があります。その家畜のための草が食べられてしまうという可能性です。あるいは、人間が食べる農作物が直接いなごにやられるという理解もあります。

 いずれにせよ、いなごによって甚大な被害を受けるということは明白です。神様は、イスラエルの罪のゆえに、このような深刻なさばきをなさるとアモスに示されたのです。

このアモス書の前半、37節のところでこう語られていたことを思い出します。

「まことに、神である主は、ご自分の計画を、そのしもべである預言者に示さずには、何事もなさらない。」 

このみことばの通りです。主はいきなりさばきを下すのではなく、預言者にこれを示して民に伝えるようにされたのです。それは、神様が人を愛しているからです。どんなに悪があふれているとしても、なお、悔い改め立ち返るチャンスを忍耐深く与えてくださる故です。

2節 そのいなごが地の青草を食い尽くそうとしたとき、私は言った。「神、主よ。どうかお赦しください。ヤコブはどうして生き残れるでしょう。彼は小さいのです。」 

2節「ヤコブはどうして生き残れるでしょう。彼は小さいのです」と、ここはまた神の民を「ヤコブ」という名で語られています。

これは6章の8節に対応しているように思われるのです。そこでは神様が「ヤコブの誇りを忌み嫌う」とありました。「ヤコブ」というのは、12部族を生んだイスラエルの昔の名前です。生まれもっての名前です。神のご支配のもとで歩み始める前の名前でした

そこには「かかとを掴む」「出し抜く」といった意味がありました。ずる賢く歩んで自らを大きく見せて誇る姿です。主はこのような人間的高慢を忌み嫌われると言うのです

アモスはこれをある意味逆手にとっているようにも見えます。

7章2節において、このような愚かで罪深いヤコブだからこそ、あなたの救いがなければ滅ぶだけですと言わんばかりです。この民は神様なしには「イスラエル(神の支配、神の勝利)」と呼ばれることは決してできないと。まさに「小さな愚かな者」、「虫けらのような存在」。だから主から見捨てられたらどうやっても生きてはいけないと懇願するのです。神の赦しがなければ、どうにもならない小さな存在であると謙虚に、かつ必死に懇願します。

 イザヤ書41:14にはこのようなことばがあります。

恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしがあなたを助ける。・・・

「虫けらのヤコブ」という言い方です。自分たちを「人間以下の存在」であるかのように、より小さく表現する際に「虫けら」ですと語る場合が聖書に幾度かあります。

しかし、小さな虫けらのヤコブですが、主のご支配の中にあるならば「イスラエル(神の支配の意)」となるのです。ヤコブは神様との出会いなしには、主を知ることなしには「イスラエル」ではない存在なのです。

この点は私たちも同様です。神様の恵みによって今の私になったのです。 

Ⅰコリント159-10節を開きましょう「私は使徒の中では、最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。」とあります。

パウロは自らを最も小さい者と呼びました。使徒の資格などない者と言いました。しかし、資格は主から来るのです。神様の恵みによって、彼は今の私となった、つまり使徒として大いに働く者とされたと言うのです。私たちの資格は神様から来るものです。自分にはそんな資格はない、最も小さな者だとの認識で良い。ただ、主の力が覆う時、私たちが自分で思うよりはるかに大きな働きをさせていただけるのです。

 さて、アモス書に戻りますが、この神様のみにより頼むとのアモスの信仰とその必死な執り成しを見て、主は応えてくださいました。3節です。

3節 主はこれを思い直された。そして「そのことは起こらない」と主は言われた。

非常に興味深いこととして、「思い直された」ということばは「悔い改められた」とも訳すこともできる表現です。もちろん、神様は後悔をなさるわけではないのですが、しかし、人の必死な訴えを聞かれる時に、主はその思いを読み取ってくださり、あわれみ深い対応をしてくださるということを現わしています。

 4節からは、2番目の幻が示されています。

4節 神である主は私に示された。見よ、神である主は、責める火を呼ばれた。火は大いなる淵を吞み込み、割り当て地を焼き尽くそうとしていた。  

 これは干ばつを意味していると理解されます。ここにある「大いなる淵」とは創世記12節では「大水」と訳されていますし、創世記711節ではノアの箱舟の場面で「大いなる淵」と訳され、そこでは「大いなる淵が裂けて、天の水門が開かれた」とあり、大洪水(大雨)の源として使われています。 

 火がそのような大水の源を焼き尽くすということは、水が失われる干ばつ、大飢饉を指していると言うわけです。

 しかし、ここでもアモスの必死のとりなしがなされます。

5節 私は言った。「神、主よ。どうかおやめください。ヤコブはどうして生き残れるでしょう。彼は小さいのです。」 6節 主はこれを思い直された。そして「そのことも起こらない」と神である主は言われた。 

 同じように主はその祈りを聞かれ、思い直されます。

 このようなあわれみ深い、忍耐深い方が私たちの主、私たちの王です。なんと幸いなことでしょうか。この方の忍耐があるからこそ、私たちは何度でもやり直せる。何度でも立ち上がることができます。失敗しても、つまずいても、しくじっても、主はその破れを繕ってくださって、私たちを育て、用いてくださいます。

 この赦しがあるからこそ、私たちはこの救いを人々に喜んでお伝えできるのです。

 私たち一人一人は本当に小さな者です。その信仰もまたからし種ほどです。それでも、主の力が覆う時、からし種は芽を出し、育ち、やがて鳥が巣を作るほどの大きな背の高い姿に成長するのです。



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