東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: アモス6章8-14節「主の声に聞く者こそ、主の民」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/01/26

アモス6章8-14節「主の声に聞く者こそ、主の民」

 *** 1/19(水)祈祷会時の説教概略となります ***
※1/26(水)分は1/28(金)にアップ予定です。

アモス6章8-14節「主の声に聞く者こそ、主の民」

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」とのことばがあります。
試練に直面している時は、必死に神様を仰ぎ見て、助けを求めます。しかし、試練を乗り越え、平安な日々が続くと、神様への感謝の心を失い、いつの間にか主の恵みを自分の努力にすり替えます。口先では「神様のおかげです」と言いながらも、心のどこかで自分たち自身を誇り始めるのです。

これは、私自身の経験から来るものです。謙虚さを失い、いい気になり失敗します。ですから、繁栄していたイスラエルの民の姿を見る時、私たちは自身の愚かさを気づかされる機会としたいと願います。

6:8 神である主は、ご自分にかけて誓われる。──万軍の神、主のことば──「わたしはヤコブの誇りを忌み嫌い、その宮殿を憎む。わたしはこの都と、その中のすべての者を引き渡す。」  

 人間は自分自身がアテにならないために、「天にかけて誓う」とか「神にかけて誓う」と表現して、そのことばの真実さを証明しようとします。ところが神様はご自分にかけて誓うのです。それはご自分以上に真実な存在がないからです。

 そしていつでも、神様が発したおことばは真実なので、その通りになります。長い年月をかけて歴史というものが、この事を証明してきたのです。誓って言われた内容はこれでした。

「ヤコブの誇りを忌み嫌い、その宮殿を憎む。わたしはこの都と、その中のすべての者を引き渡す」

「ヤコブの誇り」とは、この民が自分たちの栄華や業績を誇っていることです。神がこれからはこう名乗りなさいと言われた「イスラエル」ではなく、ここでは古い名前の「ヤコブ」を用いています。

「ヤコブ」の意味は「かかとを掴む」で、「人の足を引っ張る」「人を出し抜く者」という意味があります。一方、イスラエルと言う場合、それは「神の支配」を意味します。ですから、この国が神の支配から離れ、神を出し抜くようにして自らを誇っている姿を神様が強く嫌っておられるということでしょう。

 また、「その宮殿を憎む」とありますが、それはソロモンによって建てられました。その宮殿において、民が主の御顔を求めてへりくだって祈るのならば、主は親しく聞いて助けてくださることが、みことばには語られています。ところが、この民は主の顔を慕い求めることをやめ、へりくだることも忘れ、ただ自分たちの力を誇るようになりました。

 もはや、神殿は自分たちの力を誇示するための道具と化してしまったのです。ですから主は、ここに与えるはずだった祝福を取りやめ、その都も民をも、神のご支配から、罪深い者たちの支配へと引き渡すとおっしゃったのです。


9-11節で語られていることは、そのさばきの厳しさです。ことごとく、この国が栄光を失っていく姿です。10節の終わりには「口をつぐめ。主の名を口にするな」とさえあります。中身のない、口先ばかりで「主よ」と言っても意味がありません。この民は口先ではわたしを敬うが、心はそうではないとのみことばもあります。

続く12節では、このように語られています。

6:12 馬が岩の上を走るだろうか。人がそこを牛で耕すだろうか。しかしあなたがたは、公正を毒に変え、正義の実を苦よもぎに変えた。

 前半の「馬が岩の上を走るだろうか。人がそこを牛で耕すだろうか。」とは、少し説明が必要でしょう。これは「常識的な話」をしているのです。馬は草原や平らなところを走る動物です(それが常識)。岩山などをピョンピョン飛び跳ねていく動物ではないのです。

 農耕用の牛もそうでしょう。土のあるところを牛に道具をつけて耕させるのであって、堅い岩山では不可能です(これも常識)。

 こうした馬も牛も、土の上でこそ意味を持つのであって、堅いゴツゴツした岩山では彼らは活躍できません。それらは誰もが分かっている事実です。

 同様に、公正を毒に変えるなんてありえない、あってはならないことですが、そんなおかしな事をあなたがたはしていると言われるのです。誰もが当たり前と思っていることさえ、あなたがたはひっくり返し、非常識なことをしているというわけです。

 それでも自分たちの深刻さに気付かない霊的盲目は、なんと悲惨な状況でしょうか。しかし、人が自分の名誉やプライドにばかり固執すると、目が曇っていくという現実は確かにあるように思います。 13節は、まさに小さな誇りに固執し、大切なことを失っていく様を現わしています。

6:13 あなたがたは、ロ・ダバルを喜び、こう言う。「私たちは自分たちの力でカルナイムを取ったではないか」と。 

 ここでも、この民が自分たちの力を誇る問題について言及されていますね。「ロ・ダバル」とはヨルダン川の東側、アラム人との国境紛争における地名で、そこでの勝利をこの民が誇っているということ。さらに「私たちは自分たちの力でカルナイムを取ったではないか」とのことばも、同様にアラムの地を占領できたことを意図しています。

この民は、自分たちが神から離れ、自らを誇って罪を重ね、滅びが目の前に迫っているのに、目に見えるわずかな戦利品を喜んで、大切な真理に目をつむっているのです。

 なお、「ロ・ダバル」という地名には脚注にあるように「つまらない物」という意味もあります。カルナイムは「二本の角」で、勝利の証し。結局この民は、目に見える小さなトロフィーを誇り、それらがむなしく消え去る栄光であるのに、それを大事に抱えて滅びに向かって歩んで行くのです。

 アモスは、このようにして、イスラエルがいかにむなしいものに心を奪われ、自分たちを誇り、神から離れて行っているのかを皮肉を込めて語っているのです。

 14節でも、そのような愚かな歩みの結果が明確にされています。

6:14 「しかし、イスラエルの家よ、今わたしは、あなたがたに敵対する一つの国を起こす。──万軍の神、主のことば──彼らはレボ・ハマテからアラバの水無し川まで、あなたがたを虐げる。」 

 レボ・ハマテはイスラエルの領土ではかなり北の方で、一方アラバというのは死海の南の方なので、南北イスラエル王国の北の方から南の方までということになるでしょうか。一時期はそのように領土が広がり豊かにされていたのに、それらが皆失われていくことが語られています。この地域は、レハブアム二世の治世に預言者ヨナによって預言された通りに、得ることができた地域と一致しています。

 その預言者ヨナが活躍した時代もアモスと同時代、紀元前8世紀と考えられます。ヨナも北イスラエルの預言者で、北の王国が滅びる前に活躍した人であると考えられます。つまり、この時代にヨナは、イスラエルを滅ぼすことになる敵国アッシリアに派遣され、アモスはそのアッシリアに滅ぼされる来たイスラエルに派遣されたことになります

 ですから、ヨナがニネベ宣教を嫌がったのも無理はありません。自国の救いのためならいざ知らず、自国に敵対する仇敵の救いのために宣教するなんて、あり得ない話です。もし、そのままアッシリアが滅んでくれたら、イスラエルは彼らに滅ぼされることがない!と考えるのは、人間的に当然でしょう。

しかし、ヨナは神様のご命令でアッシリアの首都ニネベに宣教し、なんとニネベの町は悔い改めていくのです。一方で北のイスラエルは主の声に聞かずに滅んでいきます。アッシリアも、その後悪くなっていき、結局は紀元前612年に滅びはします。しかし、北のイスラエルはそれよりも100年も早く722年にアッシリアに滅ぼされてしまうのです。

なんという皮肉でしょうか!

条件は同じです。主の御声にさえ聞けば、北イスラエルだって守られ救われたことでしょう。しかし、外国人の方が神の民よりも神も声に素直に聞いたのです。

ただ、それは主がすべての人に滅んで欲しくないと願い、誰であっても主を呼び求める者は救われる方であることを如実に表してもいます。誰であれ、主を呼び求める者は救われるのです。主の声に聞く者こそ、主の民なのです

その点からすると、長らくクリスチャン生活をしているからとか、牧師を何十年もしているからという点が神に喜ばれるポイントではないと分かります。絶えず神様の御声に忠実に聞き従っていくことこそが、神様に喜ばれる歩みであるとわかります。

 イエス様もそれはおっしゃっています。

ヨハネ8:39-40 「自分たちはアブラハムの子孫だ。選ばれた神の民だ」と言うユダヤ人たちに、アブラハムの子孫なら、アブラハムのように歩むものだと教えます。アブラハムは神のみ声をよく聞いて生きる人でしたから、父なる神が遣わした私を受け入れ、聞き従うはずだと。

主の御声に聞き従うことこそ、主が喜ばれる道であり、その人こそ主の民なのです。




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