東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 民数記6章22-27節「神の祝福を受けて生きる」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/01/24

民数記6章22-27節「神の祝福を受けて生きる」

*** 1/23(日)主日礼拝 説教概略 ***

民数記622-27節「神の祝福を受けて生きる」

 牧師になり、どれぐらいたってからでしょうか。ある時から、礼拝最後の祝祷において、今日のみことばを祈るように致しました。何か大きな出来事があったというわけではありません。ただ、礼拝に集われる皆さんを、とにかくできうる限り祝福を祈って送り出したいとの願いからでした。

 毎日の歩みの中で疲れ切っている方、精神的にギリギリな中で教会に来られる方、礼拝しないと一週間もたないと言う人、人知れず悩み祈りながら歩んでいる方。そういう方々がおられます。

 こうした皆さんの痛みや苦しみを本当の意味で知ることは、私にはできません。ですから、皆さんのすべてを知っていてくださる神様が、本当に必要な祝福をくださるようにとお祈りするのです。日々の歩みが守られるように。恵みと平安があるように。

 とにかく、祝福の祈りがいくらかでも皆さんを幸せにし、皆さんが笑顔で歩めるようにと祈ることが私の使命だと示されました。その分祈りの時間は少し長くなってしまいましたが・・・。それでも祝福の祈りをささげることが、私の働きの大事な部分だと示されてのことです。

神とともに歩む人生は、祝福された人生です。聖書はそれを明確に教えています。神様はご自分に似せて人を造りましたから、私たちの事が愛おしくて仕方ありません。ですから、祝福を受けて幸せに歩んで欲しいと心から願っておられます。教会に来たら必ず祝福を受けます。神とともに歩み始めれば必ず祝福される。この真実を、ぜひ皆さんに実感していただきたいのです。


1. 神の祝福とは?
(1)祝福の定義  では、神の祝福とは一体どのようなものなのでしょうか。まずはそれを知りましょう。新改訳聖書で日本語の「祝福」ということばで単純に検索すると、全体で280回ほど登場しています。聖書66巻中、280回も登場します。
 聖書はまさに「祝福の書」であると言えるでしょう。そして、旧約聖書ではおもに、子孫の繁栄や長寿、財産の増加など、物理的に豊かにされる祝福を強調しています。
 一方で、新約聖書では、イエス・キリストを信じることを通して与えられる霊的祝福であり、心や思いが守られ、喜びにあふれて歩めるようにとの祝福です。

 ですから、聖書全体を通して、物資的にも、精神的にも、あらゆる面で神様から良きものを与えられることです。神様からあらゆる良いものを受けることが祝福だと言えます。

(2)祝福は必要不可欠
 それで神様は、民の代表として神に仕えるよう立てられた大祭司に祝福を命じられました23節にこうあります。

民数記6章23節
「アロンとその子らに告げよ。『あなたがたはイスラエルの子らに言って、彼らをこのように祝福しなさい。

「祝福」はあった方がいいかも・・・という曖昧なものではありません。
「祝福しなさい」と命じられているのです。それほどに神様は、人が神の祝福を受けることで、恵まれ、平安に包まれ、喜んで生きることを願っておられるのです。

 

2.祝福を受けるには?
 では、そんなにも神様が祝福したいと願っておられるのに、この世界には祝福とはほど遠い状況が山ほどあるのでしょうか。なぜ、祝福を受けられていない人が多いように見えるのでしょうか。それは人間の側に神様の祝福を受けられなくする原因があるからです。

「祝福」の反対のことばが存在します。何でしょう?「のろい」です。聖書の言う「のろい」とは、私たちが日本で耳にする「たたり」や「のろい」などとは全く異なるものです。

聖書では、人間が罪を犯した影響で、様々な部分で神様の祝福を失って、多くの苦しみを背負うようになったことを指しています。

例えば、代表的なものとして、最初の人アダムは、神様に背く罪を犯したので、その結果大地がのろわれて、苦しんで糧を得なければならなくなったと聖書は語ります。労働に苦しみが加わったのは、この罪の結果、のろいがもたらしたものと言えます。罪の根本は、神である方を神として認めず、無視して自分勝手に生きることです。神をも恐れず、自分を神のようにして生きることです。自分が神になれば、本当の神様からの祝福が受けられないのは当然ですよね。では、どうすればこの祝福を受け取れるのでしょう?

 答えは至ってシンプルです。

(1)神とともに生きること

 祝福は神様から来ますから、神様を信じて、神とともに生きることです。25-26節。

民数記6章25-26節
主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。

主の「御顔」という表現が繰り返されます。神様の顔があなたに向いている状態ならば、恵みと平安が、すなわちあらゆる祝福が与えられると言うのです。神様の顔が私たちと向き合っている。実にそれは、私たちが神様を求めてさえいれば、神様と顔を合わせるように親しくお交わりできるのです。背けたのは人間の側だからです。

先ほど、アダムの罪の話をしましたが、まさに、アダムが最初に罪を犯した時のこと、聖書はなんと言っているのでしょうか。創世記3章で以下のように語られています。

「神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。」 

私たちが主の御顔を避ける時は、やましさがある時なのです

よくウソをついていると、人は目が泳ぐとか、まっすぐに顔を見られないと言われますよね。まさに、神様との関係でもそうなのです。人が神様の前にまっすぐ立てないのは、罪の中にある時です。罪の中に閉じこもり、神様を求めない、悔い改めない・・・それは祝福を退け、呪いの方へと進んでしまう道なのですよね。

ですから、答えはシンプルです。悔い改めて、神様の御顔の方に自分の顔を向けて歩んで行きましょう。悔い改めるとは、別の言い方では「方向転換」。まさに、私たちの顔を、私たちの心を、神様とまっすぐに向き合い求めるようにすることです。

 そこに、恵みと平安があります。主の守りが、祝福があるのです。

 27節にはこうもあります。


民数記6章27節
アロンとその子らが、わたしの名をイスラエルの子らの上に置くなら、わたしが彼らを祝福する。」   

「わたしの名をイスラエルの子らの上に置くなら」、わたしが彼らを祝福するとあります。祝福をくださるのは神様ご自身ですから、この方の御名のもとに生きることが大前提だということですね。

 何より、神の民は「イスラエルの民」と呼ばれましたが、そもそもイスラエルということばの意味には「神の支配」という意味があります。神様の統治が及んでいる人々には、その恩恵が、その守りが、その祝福があるということです。

 神を信じるあなたがいるところ。そこは神のご支配の及ぶ、神の国です。

 分かりやすい例は「大使館」とか「総領事館」と呼ばれるものです。例えば日本の大使館などが、外国にありますよね。その建物や敷地は外国の中に置かれている。けれど、その日本大使館には、日本の支配が及んでおり、その国のルールが適用されず、日本のルールが適用される場所です。

 神の国もこれと似ていまして、この日本にありながら、この地上にありながら、神様を信じる神の国の住人には、神様のルールが適用され、神様の守りがそこにあり、神様の祝福の中に置かれるのです。ですから、神の国の国籍を取得すればいいわけですよね。

その方法はただ一つ!神の御子イエス様を心にお迎えして、イエス様とともに生きることです。ピリピ320節に「私たちの国籍は天にあります」と語られています。イエス・キリストを信じたら、国籍は天に、神の国に属します。それは神のご支配が及ぶ、神の祝福をいただける天国人です。

 この祝福の祈りを私が祈るのは、皆さんがこの神の国の住人として、神の守りと恵みと平和がその上にあるようにするためです。私はこの祈りを生涯、続けます。一人でも多くの方のために、この祝福があるようにと祈り続けます。

 

 そして、ぜひ、この祝福にあずかっている皆さんも、他の人の祝福を祈る人になって欲しいと願うのです。神様からの祝福を隣人のために祈れるのは、神を信じる者だけです。その祝福の豊かさを証しできるのは、神の祝福を体験している者たちだけです。

イエス様はこのようにさえ言われました。
「あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい」(ルカ6:28)

 のろいを祝福で返せと主は言われるのです。キリスト者にはのろいを祝福に変える祈りの恵みが与えられているからです。

 祝福を受けたあなたが出発点です。あなたを通して、あなたの家族が、あなたの友人が、あなたの学校が、あなたの職場が、あなたの部活が、あなたのご近所が、神様によって祝される得るです。

 主の御顔を慕い求めましょう。まず、あなたがこの祝福を豊かに受けて、喜びのうちに歩んでください。そして、その祝福はあなたで終わらない。あなたから、あなたと接するすべての人に祝福が及ぶことを心から喜び、祈り続けましょう。




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