『ねばならない』からの解放
共通テストが行われた日、東京大学前で3人の学生がナイフで切りつけられる事件が起こりました。切りつけたのも受験生です。その動機については、医者を目指して東大合格のために頑張ってきたけれども、成績が思うように伸びず自信を無くして、人を殺してその罪を背負って切腹しようと考えていたとのこと。自暴自棄ということでしょうか。1.「ねばならない」が人を追い込み、苦しめる
「でも、もしかしたらこうやって刺してしまった高校生も、何かの犠牲者やったかもしれへんし。もしかしたら周りの大人とかに『勉強ができないとアカン』って言われたり『いい大学いかないと人生終わりや』とか『勉強できないと人生失敗する』って思い込まされてたかもしれへんし」
この出来事を「恐い」とか「ひどい」と言って終わらせるのではなくて、私たち自身の子育てや子どもたちとの関りにおいても、考えるキッカケになったらと思います。
「ゆたぽん」さんも、『学校行かんかったら、お前の将来終わり』とか言われることがあるそうです。ただ、学校がすべてではないと彼は反論します。
「この道に行けなかったらもう終わり」という狭くて、偏った考え方から大人も子どもも解放される必要があるのではないでしょうか。
聖書では「〇〇でなければならない」という発想を「律法主義」として、その問題を繰り返し取り扱っています。これは聖書において、ユダヤ人指導者の間で非常に顕著だった価値観です。
この道から一歩でも外れてはならない。
そういう価値観でした。この道から少しでも外れたら、その人は汚れた罪人、社会からはじき出されるべきものと。狭くて非常に偏った価値観でした。
しかし、この「ねばならない」という考え方は、日本人に根深い価値観のようにも思います。「ねばらない」という発想が私たちの根深いところに巣くっており、実にその価値観が私たち自身も、そして子どもたちをも苦しめている面があるのです。
例えば、受験や就職活動で親の望むような進路に進めなかった人の中に、それから随分時間が経っていながら、尚、引きずって苦しんでいる人々がいます。自分は失敗者だ。親に認められることができなかった。そのように傷ついて前に進めずにいるのです。
2.「ねばならない」から解放される道
実はこの幻は、「ユダヤ人だけが神から選ばれたきよい者だ」という狭い価値観を壊すために、神様が見せた幻でした。外国人にも同じように神様は救いをもたらされるのだということを示されたのです。
これが価値観の大きな転換になっていきました。異邦人が、ユダヤ人と同じようにイエス様を信じて救われ、世界に広がって行くのです。
子どもたちは、私たちの道具でもなければ、私たちの願望を投影させる存在でもありません。
彼らには彼らの人生、彼らの道があります。
私たちが押し付ける「これこそが良い道」という律法主義、「ねばならない」がその子を追い込んでしまうことから守られるよう願うのです。
私も自分が築いてきた価値観があって、そこに合致するものは受け入れやすいです。でも、そうでないものには抵抗を強く感じて、「この枠の中に入っていなければならない」と固執してしまいがちです。
私は中高と運動部でしたし、部活動は「頑張らねばならない」という価値観でした。私たちの時代には、運動部に入ることが進路の評価にとっても有利になるといった話もありました。なんとなく、文科系の部活よりも運動部の方が優越感を得られる価値観でした。
しかし、二男が続けてきた運動部に、今、全く行かなくなりました。それを私は少し厳しく「それでいいのか」と言いました。
ただ、一方で色々な頑張り方があり、色々な選択肢もあっていいと神様から気づかされています。あまり自分の価値観を押し付けすぎてはと少し反省しました。
そして部活動に行かないのなら、何か自分なりに頑張るものを見つけたらどうかと提案しているところです。彼なりに学級委員や勉強など、少し違う部分で頑張り始めているように見えます。教会でも色々手伝ってくれます。
学校に行くのがすべてではありません。
名のある学校に入れば将来が豊かになるわけでもありません。
休まず行けることがすべてではないのです。
むしろ、そうではない生き方の中で、様々な豊かさを学ぶことさえできます。
私たちの「ねばらない」に気づき、子どもたちに押し付けることがないように、改めていければと願います。その時に、自分の思い込み、悟りに頼りすぎず、神様に祈りながら知恵をいただくようにしてはどうでしょうか。
箴言3章5-6節に次のようにあります。
自分の道こそ正しいという思い込みをやめましょう。