東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: アモス6章1-7節「神への信頼とあわれみの心」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/01/05

アモス6章1-7節「神への信頼とあわれみの心」

 *** 1/5(水)祈祷会 ***

アモス6章1-7節「神への信頼とあわれみの心」

 教会は、自分たちの満足を保持することに終始し、外で悩み苦しむ人々に心を向けなくなれば、神様の祝福を失っていきます。外のことは置いておいて、内側を整えようという発想で豊かになる教会はおそらくないでしょう。

 アモス書のみことばからともに学んで参りたいと思います。この書はおもに北のイスラエル王国における話で、この時代、イスラエルの絶頂期であったとお話しましたね。そのような時代にあって、おごり高ぶり、神に信頼せず、人の力や目に見える物に頼り、快楽をむさぼって弱者を虐げる歩みをしていたということでした。

 少し前の518節をご覧ください。

「ああ。」とのことばで始まっています。ここは「災いだ!」と訳すことも可能だとお話しいたしました。それは、主の日に起こる悲惨を思い、預言者アモスが強い嘆きを現わしているのでした。同じようにここでも、「ああ、なんと災いであることか!」と嘆くことばで始まっているのです。

 

 1節の続きには「シオンで安逸を貪る者」と語られていきます。シオンというのは、南ユダ王国を指し示し、特にそこはエルサレムを中心とした地域を指していました。エルサレムの神殿が彼らの拠り所となっていましたし、軍事面でも非常に好条件な地形を持っており、「天然の要害」と言われていた地域です。これらはユダ王国の強さの誇りでありました。それゆえに、人々は安心しきっていたのです。

しかし、主の守りを失えば、どのように頑強な建物でももろいのです。信仰のない神殿などハリボテに過ぎません。所詮、彼らが貪っていたのは、偽りの安全、偽りの平和でした。

私たちにも同じような課題が確かにあることでしょう。これだけの財があれば安泰だ、これだけの人材があれば安泰だ、この会堂があれば、この家があれば大丈夫だ・・・。

そのような発想は、頼るところを間違えた危うい状態だと言えるでしょう。箴言のみことばにこのようにあります。

箴言16:9 人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる。

 以前の第三版の訳では、後半はこうなっています。「しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」と。

 人の歩みを確かにされるのは主なる神様だけです。無知で盲目な私たちが立てる計画は、不安定で不確かで、不安と不満に満ちています。

 一方、続いて登場する「サマリヤの山に信頼している者」というのは、北のイスラエル王国の話になります。彼らもまた、生けるまことの神に信頼せず、偶像を礼拝し、自分勝手な罪深い礼拝をささげていたのです。そのような偶像礼拝をささげる山からは何の助けも来ません。

 そして、さらにこう続いています。「イスラエルの家が頼って行く、国々の最高の首長たち」。これはおそらく皮肉でしょう。イスラエルの民全体としても神様に求め、より頼むのではなく、目に見える人間のリーダーたちを頼っていました彼らを「最高の首長たちだ」と思い込み、結果、本当に最高の首長である神様から離れて行くのです。でもそのように神から引き離すなら、「最低な首長たち」であると言わざるを得ないでしょう。

真のリーダーとは、ダビデのような人で、たとえ罪を犯そうとも主に立ち返る人であり、失敗を繰り返しながらもただ神の栄光を求めて行く人です。

そうやって、人々に神の偉大さを示し、主に心を向けさせる人ではないでしょうか?

 

2節では、カルネ、ハマテ、ガテと3つの地名が出て参ります。この3つには共通点があります。それは、いずれもやがてアッシリアに滅ぼされていく町々です。いずれの町も大きな都市で、栄えていたものと考えられます。それらがことごとく、アッシリアに滅ぼされるとするならば、イスラエルも同じようにならないとどうして言えるのか?

そのような語りかけでしょう。ですから3節で、このように明言されます。

「あなたがたは、わざわいの日を遠ざけているつもりで、暴虐の時代を近づけている。」

 ここでは、その中で実際には滅びに向かって行く人々の愚かさを嘆いているのです。滅びに向かっていることを自覚しているのならまだ良いのですが、彼らは、「自分たちは安心だ、大丈夫だ、平安だ」と思い込み、その実、確かに滅びへと歩みを進めているのでした。

自覚症状がないというのは恐ろしいことです。その意味では、少なくとも罪や汚れに気づかされた人は幸いです。その救いを求めることができるのですから。

それにしても人間がすることというのは、なんと「的外れ」なことが多い事でしょうか。良かれと思ったことで、かえって事態を悪くしてしまうことはよくあることです。それは、無知で自分よがりな私たちゆえに起こることでしょう

 

 4-6節では、北のイスラエル王国の愚かで罪深い歩みを指摘しています。

 贅沢の限りを尽くし、まるで自分たちの問題を顧みようともしていません。象牙でできた寝台、豪華な長椅子、羊や牛などの家畜も、最上のものを好きなだけ食べていたのでしょう。

 5節では、ダビデにならって楽器を作り、音楽を楽しむ姿に言及されています。彼らが真似ているのは表面的な部分であって、ダビデの信仰を少しも見習おうとしないことが彼らの最大の課題です。私も神学生時代に、すばらしいなと思う方の説教スタイルをまねてみました。ところが、その評価は散々で、同級生からこき下ろされました。まねる部分が違っていたのです。

 語り方や仕草をいくら真似たところで、良い説教ができるはずがありません(ある意味それを確認する良い機会でした)。そうではなく、その方が見えないところで、どれだけの祈りを積み、どれだけ悩み葛藤しながらみことばの備えをしているか。そこにある神に対する謙遜さ、忠実さ。また、そこにある霊的な戦い。それらをすべて含めてみことばの説教が生まれるわけですから・・・。歌や奏楽も同様でしょう。その人の人格や信仰、そこにある苦闘が現れて来るものです。

 6節では、お酒に浸り、最上の香油で良い香りを漂わせる、贅沢な姿です。このようにして、彼らは苦しむ者に目を向けず、助けを求める者の声を聴かず、あわれみを好む主を遠ざけて、滅びへと邁進する日々であったのです。

 「ヨセフの破滅のことで嘆き悲しむことがない。」 

ヤコブの子ヨセフには、マナセとエフライムという息子が生まれ、彼らの子孫が北のイスラエル王国の領土の多くを占めていました。ヨセフの子孫が破滅に向かっているのに、その現実を真剣に受け止め、嘆き悲しむことがないというお気楽な姿です。

あるいは、ヨセフが当時末っ子で、軽んじられ、嫌われ、エジプトに人身売買で売られても、本気でヨセフを心配し助ける者が兄弟たちにいなかった現実を想起させるものかも知れません。末の力なき者をあわれまない姿です。

それは、イスラエルの民が、弱く小さな者たちに目を向けず、彼らが飢えて命を失っていくのに、そこに分け与えていく心を持たなかった姿に符号します。彼らはとても繁栄していたにも関わらず、その繁栄を、皆で分け合うことをしなかったのです。弱い者に心を向けることをしませんでした。愛なき歩みが神様に喜ばれるはずがありませんでした。

 

7節 それゆえ・・・ 結論となるでしょう。

それゆえ、今、彼らは最初の捕囚の民として引いて行かれる。

大の字になった者どもの、弔いの酒宴は除かれる。

 これらの放蕩三昧のゆえに、彼らは捕囚の民となると語られます。あわれみの心を持たない歩みは、あわれみを受けられない歩みとなります。さばきに向かって勝ち誇るのは、あわれみの心です。

あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。 (ヤコブの手紙 213節)



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