*** 3/9(水)祈祷会 説教概略 ***
アモス9章11-15節「主は回復される方」
神様が私たちに試練をお与えになるのは何のためでしょうか?
苦しめることが目的ではなく、試練を通して練られ、自らの愚かさに気づき主を深く知る者となるためでしょう。神の民は、主に愛されていますから、愛する子どもを懲らしめる父親のごとくに、主はやがて多くの子どもたちの救いをもたらすために、このイスラエルの子らを戒めました。
11節
その日、わたしは倒れているダビデの仮庵を起こす。その破れを繕い、その廃墟を起こし、昔の日のようにこれを建て直す。
倒れているダビデの仮庵。それはかつての栄光ある姿からはかけ離れた、ボロボロになっているほったて小屋のような姿です。神から離れてしまうとき、栄光ある華やかな姿から、そのようなみすぼらしい姿に落ちてしまうことが起こります。
放蕩息子の例えが良い例でしょう。弟息子は父を離れ、好き放題やったけれど、その生活は思うほど良くなかった。むしろ、彼は何もかも失い、みじめな生活をする中で初めて、かつてあった父の愛と恵みに気づくのです。
実際のところ、この預言はバビロン捕囚後の回復で終わらず、より終末的な内容を含むと考えられます。使徒の働き15章でも引用され、異邦人をも含めた神の国の歩みが説き明かされています。12節も併せて考えるといいでしょう。
12 これは、エドムの残りの者とわたしの名で呼ばれるすべての国々を、彼らが所有するためだ。──これを行う主のことば。
エドム人とは、ヤコブの双子の兄エサウの子孫でした。ヤコブから長男の権利と祝福を取られたエサウは、ヤコブを憎み殺そうとさえしました。一度は和解をしたものの、やはりその後も距離が置かれ、やがてライバルのような敵対関係が残りました。
ですから、この12節で言っていることは、ヤコブの子孫つまりイスラエルの回復だけではなく、敵対しているライバルの民族たちも併せて、神の国として回復していくということ。異邦人への宣教も含む内容と言えるでしょう。
人間的な視点では、和解は到底かなわないと思われる民族同士が、キリストの十字架によって一つにされていく恵みが、この預言の中に含まれているのです。
使徒15章で「エルサレム会議」というものが行われています。この会議の主題はキリストを信じた異邦人たちをどう受け入れるかということです。この中の12節以下で、当時の教会の指導者だったヤコブはアモス書のこれらの箇所を引用しました。
13節
見よ、その時代が来る。──主のことば──そのとき、耕す者が刈る者に追いつき、ぶどうを踏む者が種蒔く者に追いつく。山々は甘いぶどう酒を滴らせ、すべての丘は溶けて流れる。
ここで「耕す者が刈る者に追いつく、ぶどうを踏む者が蒔く者に追いつく」とは、作業で言えば、全然違う時期に行うものです。最初と最後と言ったらいいでしょうか。ところが、追いついてしまうとは、収穫があまりにも豊作すぎて、収穫作業が終わらないうちに、次の時期の農作業が始まってしまうという意味です。
しかし、もしかしたら、収穫は少なくないのかも知れません。ただ、そのために労する人が足りていないゆえにかも知れません。主イエス様は「収穫は多いが、そのための働き手が少ない」とおっしゃいました。
思っているよりも、伝えれば救われる、知るならば救われる方は少なくないように思います。コロナ下では伝道しにくいとの理由をつけるかも知れません。でも、主の目にそう見えているのでしょうか?
主による回復が必ずあるからです。