東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: アモス9章11-15節「主は回復される方」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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現在、コロナの感染状況を考慮し、夜の祈祷会はお休みしています。先日の地震で被災された方々の上に神の慰めと支えがありますように。

2022/03/09

アモス9章11-15節「主は回復される方」

*** 3/9(水)祈祷会 説教概略 ***

アモス911-15節「主は回復される方」

神様が私たちに試練をお与えになるのは何のためでしょうか?
苦しめることが目的ではなく、試練を通して練られ、自らの愚かさに気づき主を深く知る者となるためでしょう。神の民は、主に愛されていますから、愛する子どもを懲らしめる父親のごとくに、主はやがて多くの子どもたちの救いをもたらすために、このイスラエルの子らを戒めました。

 一度崩されるのは、再び建て直すためでもあると教えられます。

私たちはしばしば、一度ゼロになることを必要とすることがあります。しがみつく何かがまだ残っていると、どうしてもそこに頼り、まことの主を最後まで頼らないと言う弱さがあるからです。ただ、ゼロになりたくないので自分からなることはあまりしません。

 ですから主はひとたび、この国を失わせ、廃墟とされることをやむ無しとされました。アモス書はそのさばきの宣告に満ちています。けれども、主の願いはどこまでいってもこの民の祝福です。灰のようになった状態からでさえよみがえらせるお方です。


11節 その日、わたしは倒れているダビデの仮庵を起こす。その破れを繕い、その廃墟を起こし、昔の日のようにこれを建て直す。 

 倒れているダビデの仮庵。それはかつての栄光ある姿からはかけ離れた、ボロボロになっているほったて小屋のような姿です。神から離れてしまうとき、栄光ある華やかな姿から、そのようなみすぼらしい姿に落ちてしまうことが起こります。

 放蕩息子の例えが良い例でしょう。弟息子は父を離れ、好き放題やったけれど、その生活は思うほど良くなかった。むしろ、彼は何もかも失い、みじめな生活をする中で初めて、かつてあった父の愛と恵みに気づくのです

主はそのような状態から、ゼロの状態から復興し、回復させてくださるのだと言うのです。破れを一つ一つ繕い、廃墟を起こして、昔の日のように建て直してくださると。

尚、「昔」と訳されていることばはヘブル語で「オーラム」ということばで「永遠」とも訳すことも可能です。昔との訳で良いと思いますが、昔の再現で終わらず、主によって新しく建て直されるならば、その王国は「永遠のものとして建て上げられて行く」との思いで読むと深みが増します。

実際のところ、この預言はバビロン捕囚後の回復で終わらず、より終末的な内容を含むと考えられます。使徒の働き15章でも引用され、異邦人をも含めた神の国の歩みが説き明かされています。12節も併せて考えるといいでしょう。

12 これは、エドムの残りの者とわたしの名で呼ばれるすべての国々を、彼らが所有するためだ。──これを行う主のことば。 

エドム人とは、ヤコブの双子の兄エサウの子孫でした。ヤコブから長男の権利と祝福を取られたエサウは、ヤコブを憎み殺そうとさえしました。一度は和解をしたものの、やはりその後も距離が置かれ、やがてライバルのような敵対関係が残りました。

ですから、この12節で言っていることは、ヤコブの子孫つまりイスラエルの回復だけではなく、敵対しているライバルの民族たちも併せて、神の国として回復していくということ。異邦人への宣教も含む内容と言えるでしょう。

人間的な視点では、和解は到底かなわないと思われる民族同士が、キリストの十字架によって一つにされていく恵みが、この預言の中に含まれているのです。

使徒15章で「エルサレム会議」というものが行われています。この会議の主題はキリストを信じた異邦人たちをどう受け入れるかということです。この中の12節以下で、当時の教会の指導者だったヤコブはアモス書のこれらの箇所を引用しました。

何のためでしょう。19節に「ですから、私の判断では、異邦人の間で神に立ち返る者たちを悩ませてはいけません。」との結論があります。

神の民ユダヤ人と異邦人がともに歩めるようにと願う主のみこころです。そのためにアモス9:11-12が引用されました。


 

アモス913-15節は、さらに豊かに神の救いによる祝福が訪れることを語っています。

13節 見よ、その時代が来る。──主のことば──そのとき、耕す者が刈る者に追いつき、ぶどうを踏む者が種蒔く者に追いつく。山々は甘いぶどう酒を滴らせ、すべての丘は溶けて流れる。 

 ここで「耕す者が刈る者に追いつく、ぶどうを踏む者が蒔く者に追いつく」とは、作業で言えば、全然違う時期に行うものです。最初と最後と言ったらいいでしょうか。ところが、追いついてしまうとは、収穫があまりにも豊作すぎて、収穫作業が終わらないうちに、次の時期の農作業が始まってしまうという意味です。

私たちの福音宣教という働きもこうであったらどんなにか嬉しいことでしょうか。

 しかし、もしかしたら、収穫は少なくないのかも知れません。ただ、そのために労する人が足りていないゆえにかも知れません。主イエス様は「収穫は多いが、そのための働き手が少ない」とおっしゃいました。

 思っているよりも、伝えれば救われる、知るならば救われる方は少なくないように思います。コロナ下では伝道しにくいとの理由をつけるかも知れません。でも、主の目にそう見えているのでしょうか?

13節後半の表現にしても、神様の祝福があふれるほど豊かであることを示しています。いずれにせよ、私たちには常にこの希望があるのです。

14節 わたしは、わたしの民イスラエルを回復させる。彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる。

15節 わたしは、彼らを彼らの地に植える。彼らは、わたしが与えたその土地から、もう引き抜かれることはない。──あなたの神、主は言われる。」

 「イスラエルを回復させる」と明確に語られます。しかし、このイスラエルはもはや、単なる一部の国の名前ではありません。12節で語られていたように、異邦人とユダヤ人が結合され、主を信じる者たちがこの世界を治めるようになります。

 甘い果実の実りは、祝福の象徴、繁栄の象徴と言えるでしょう。世の終わりには、悪が滅ぼされ、正義が樹立され、もはや15節にあるように「引き抜かれることはない」のです。

 このアモス書では、この世的な繁栄にまみれ、愛と真実を失ってしまったイスラエルの悲惨な末路が徹底的に語られていました。しかし、その最後の締めくくりに、このような未来の圧倒的な祝福が約束されていることは、私たちにとって大きな慰め、希望です。

 どんなに罪深い歩みをした者にも、主にある回復の希望、やり直しの道があるのです!

そして、アモス書全体を通して、さばきをなさるのも神様ですが、復興させ、祝福なさるのも神様ご自身であることが強調されていました。11節「その日、わたしは」と始まり、12節最後は「これを行なう主のことば」とあり、回復も異邦人との結合も主のわざであると分かります。

14節、15節も主語は神様ご自身であり、「わたしは回復させる」「私は植える」と主がなさることが明示されます。主に信頼せよと教えられます。

 

 世界を見れば、争いが絶えることなく、嘆かわしい出来事が毎日起こっていることに胸を痛める日々です。人の「罪」というものが、自分の都合のために他者を排除してしまう冷たい残酷さであることに気づきます。

 時にそれは、自分勝手な正義感の中で起こってしまうのが、人の無知の課題です。今、ウクライナ人々の痛みにばかり目が行きがちですが、ロシアの中に戦争に反対している人々も多くあり、反対運動をした人は次々と政府に拘束されています。

 反対したくても怖くて反対できない人も沢山いらっしゃるでしょう。世界中からロシアは悪だと言われ、ロシア人だというだけで排除され、嫌われ、批判されることもまた、罪の悲しい現実ではないでしょうか。

 これらの敵意を廃棄できる唯一の道がキリストの十字架です。 ご自分をワナにはめて殺す者たちのためにさえ愛を示し、彼らの救いを願い、その罪の赦しを願って祈りました。彼らのためにいのちをささげられた主キリストです。

 この方にのみ救いがあり、この方にのみすべての罪と悪、滅びに対する勝利があります。 この方の十字架のもとに立ち続け、世の終わりの神の回復の時を心から期待して歩んで参りましょう。揺るがされることなく、この救いと希望の福音を語り続け、留まり続け、祈り続ける者とならせていただきましょう。

 主による回復が必ずあるからです。 




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