東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 民数記11章10-17節「重荷を降ろし分かち合う」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/03/14

民数記11章10-17節「重荷を降ろし分かち合う」

*** 3/13(日)主日礼拝 動画配信 ***
民数記11章10-17節「重荷を降ろし分かち合う」

 皆さんはモーセという人物をどう見ていますか。
 彼は旧約聖書中でも非常に有名で尊敬されていた信仰者です。若い頃は、エジプト王女の養子とされ、王子の一人として恵まれた環境で育ちました。普通の人では受けられないような教育を受け、また多くの富に囲まれて育った人です。

 後には数百万人の民を導くリーダーになります。ですから、彼は神に選ばれた「特別な人」と思っている方も多いかも知れません。

ところが、聖書を味わって行くと、彼は私たちと同じように欠点も多くある、ごく普通の人であったと気づきます。

 実際、彼はリーダーでしたが、話すのが大の苦手でした。さらに、彼は感情的な人で、怒りっぽい性格でした。彼には大きな汚点がありました。彼がまだ若かったころ、同胞のユダヤ人がエジプト人から痛めつけられているのを見て、カーッと頭に血が上り、エジプト人を殺してしまったのです。今日の場面でも彼の感情面の弱さがよく描かれています。彼は困り果て、感情的に神様に訴えたのです。 

 このようにモーセは決して絵に描いたようなリーダーではありませんでした。
それでも、彼は神様に豊かに用いられたのです。

なぜ、ごく普通の彼がそうできたのでしょう?

それは、神様に頼り、神様が遣わされた多くの人の助けを借りて歩んだからです!

神に祝福され、用いられる人とは、自分の弱さや足りなさを知っており、重荷を他の人と分かち合い、多くの方の支援を謙虚に得る人です。

皆さんは人の助けを借りることは得意ですか?

御声に聞きましょう。

 


1. 民の不平

 
 モーセが導いてきたイスラエルの民は、ある頃から不平不満を大胆に言うようになって来ました。荒野での生活が長くなるほどに、不安も募り、不自由な暮らしに不満も溜まってきたのです。民はついに、神様に繰り返し激しく不平を言うようになってしまいました。

 少し前の5節によれば「肉が食べたい。魚が食べたい。きゅうり、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも!」と言ってわめいています。

 気持ちは分かりますが、荒野という場所を考えると、飢えることなく生活ができるだけでも神のあわれみによることでした。

 彼らは毎日「マナ」という栄養十分のおいしい食べ物を神様から与えられていました。それは「神の奇跡」以外の何物でもありません。ところが、彼らはそれに飽きてしまい、不平を言い始めたのです。食べ物がなくて不平を言っているのではなく、与えられていながら、欲望に負けて文句を言うようになったのです。

それゆえ、神様のさばきの怒りの啓示がなされ始めていました。こんな背景があって、今日読んでいただいたみことば10節につながります。 

10 モーセは、民がその家族ごとに、それぞれ自分の天幕の入り口で泣くのを聞いた。主の怒りは激しく燃え上がった。このことは、モーセにとって辛いことであった。 




2.共感力のあるモーセ
 
モーセという人は非常に共感力のある優しい人でした。彼は、民がそれぞれの天幕で泣いているのを聞いたのです。それを聞くというのは、彼が民に関心を持って様子を見て回っていたからではないでしょうかそして非常に辛く、胸を痛めたのです。

最近「HSPhighly sensitive persons)」ということばが徐々に広まってきました。「生まれつき感受性が強く敏感な気質を持った人たち」です。日本人は5割ぐらいそうじゃないか?とも感じますが。

このモーセも聖書を読んでいると、かなり繊細で人の声に敏感な人物だったのではないかと思われるのです。この民が神様に対して不満を持ち、現状を呪っている姿に困り果て、どうにもできない自分に苦しみます。

神様に「なぜですか」と問いかけ始めます。11節です。

11 それで、モーセは主に言った。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのですか。なぜ、私はあなたのご好意を受けられないのですか。なぜ、この民全体の重荷を私に負わされるのですか。 

負いきれなくなったのでしょう。この気持ちはとてもよく分かりますね。モーセは一生懸命やっていたと思います。まじめすぎるほどに。だからこそ、民の不平も嘆きも一身に自分のことのように背負ってしまい、苦しくなってしまったのです。

ただ、その苦しさから、彼の弱さが表面化しています。12節です。

12 私がこのすべての民をはらんだのでしょうか。私が彼らを産んだのでしょうか。それなのになぜ、あなたは私に、『乳母が乳飲み子を抱きかかえるように、彼らをあなたの胸に抱き、わたしが彼らの父祖たちに誓った地に連れて行け』と言われるのですか。13 どこから私は肉を得て、この民全体に与えられるでしょうか。彼らは私に泣き叫び、『肉を与えて食べさせてくれ』と言うのです。 

モーセの感情がその重荷のゆえに、爆発してしまっていますね。彼の苦悩が伝わってきます。

皆さんも似たような経験があるかも知れません。リーダーや人の気持ちを背負う人の苦悩です。職場でも何らかの責任を担うこと。自治会の役員や学校の役員、クラブのリーダーなどを担うことがあるでしょう。教会でも何かの責任が任されますね。さらには、そうしたリーダーでなくても、人に寄り添いケアすることは、少なからず重荷を一緒に背負い、苦しくなることがあるものですね。ですから、モーセの気持ちはきっと皆さんも分かるでしょう。

そしてモーセは負いきれず、やや自暴自棄になり、次のように告白しました。14-15節 

14  私一人で、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。15 私をこのように扱われるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を悲惨な目にあわせないでください。」 

感情的なモーセの訴え、叫びです。ただ、神様に正直に自分の弱さを告白し、訴えたことは本当に幸いでした。



3.主の助け 

 これに対して主は答えて下さいました。

17節に「わたしは降りて行って、そこであなたと語る」とあります。

神様自らがモーセのところに降りて来られ、モーセと親しく語ってくださるのです。これは、主がモーセの叫びをないがしろにせず、向き合ってくださったということです。私たちが負いきれないと思えるような重荷を抱く時、私たちには持って行ける場所があるのです。

イエス様はそれを私たちに教えてくださいました。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタ11:28

 何もかも自分一人で負わず、神様のもとに行きましょう。主のやさしい語りかけが聞こえてきます。 主は具体的な助けを示してくださいました。民の中の長老、導く力のある者を70人集めるように言われたのです。そして、彼らにもモーセに与えているのと同じ主の御霊を分け与え、重荷をともに担えるようにしてくださったのです。

今日の大切なポイントはここです。神様に正直に思いをぶつけ、助けを求めること。そして、主は人を通して様々な助けをくださるのだということです。



4.主の助けを拒む私たち 

問題はそれを受け取らない私たちの頑なさ、プライドがあることです。 

皆さん、一人で頑張りすぎてはいませんか?

箴言17:17「兄弟は苦難を分け合うために生まれる」とあります。神様は人が重荷を一人で担うようにではなく、ともに担い合うことができる者としてデザインされたのです。それにも関わらず、私たちは他の人の助けを受けることをしません。結局そうして自分で自分の首を絞めてしまうのではないでしょうか。

先日、ある教会の支援をしましたが、そのことでその教会の先生がこんな風に証ししておられました。「自立した教会なのに助けを求めるなど甘えではないのか。」との思いがあり、自分の心を探られ祈ったと。

そして祈りの中で、自分のある思いに気づかされたと言うのです。

「自分は、できる人間だと思われたい。だから支援を受けることで、できない人間だと思われたくない。支援を受けるということは、恥ずかしいことだ」と。そういうプライドがどこかにあって、取り扱われる必要があると告白されています。

とてもよくわかります。「支援されるより、する側でいたい」と思うのです。「教えられる側より、教えてあげる側でいたい」のです。肉の思いはそうです。少しでも他の人より上でいたい。尊敬され認められ「すごい」と言われたいのです。

でも、モーセは能力やメンタル面が秀でていたわけではないのに、主の目に良いリーダーとなりました。なぜでしょう? 彼は自分の弱さを謙遜に受け入れ、神と多くの人々の支援を受け入れたからです。皆で働きをすることができたからです。

これが実に難しいことなのです。

人に頼めないのです。頭を下げられないのです。結局自分でやったと言いたいのです。その意味でモーセは尊敬に値します。喜んで支援される側になりました。主の助けにより。モーセはこれを受け入れ、この70人がどんどん用いられることを望んだのです。そのことが、少し後の29節で語られています。

さらにモーセは本当に多くの人に支えられた人物だと気づきます。姉のミリアムに守られ、兄のアロンに補ってもらいました。奥さんにも当然支えられ、義理の父イテロ(レウエル)に助言され、義理の兄に道案内していただきました。従者ヨシュア、偵察隊カレブ、フルにも支えられました。ここでも70人の長老たちが支えてくれました。彼には多くの仲間、支えてくれる人がいたから導けたのです。

「重荷を降ろし、分かち合う」という姿勢は、傲慢の鎧を脱ぎ捨てて、謙虚さと感謝の心で、神のみわざを豊かに体験していく最高の道です。自分ができないことは、周囲の方に助けてもらえばいいのです。自分に知恵がなければ、他の人の知恵を分けてもらえばいいのです。主はその人にも豊かに働かれるのです。「自分でなければ」との高慢から解放される必要があります。

 時々、どうしたらサンライズチャペルのように若い世代が育つのか?とか、子育ての秘訣を教えて欲しいと言われることあります。私の答えは決まっています。

 「すばらしいでしょう?あの子たちは私の誇りです」と。

 「なぜなら、彼らは教会の皆さんの愛と祈りと尊い犠牲によって育てていただいたからです」と。

 自分の家の子育てにしても、私と妻と二人で育てるのは無理です。たった二人分の知恵、二人分の人格、二人分の経験、二人分の祈りしかないのですから。そうじゃなくて、より多くの方の知恵、人格、経験、祈りによって育てて頂いたから、人が育つのですよね?

(自分たちで育てたという感覚がある意味ないので、主と教会が育てたので、謙遜して「いえいえ」と言う必要がないという意味です)。

 そのように助け手を備えて下さっている神様によれば、豊かに育たないはずがないのです。ですから、お子さんたちがとにかく教会にいられるようにしてあげてくださいと。とにかく教会の交わり、礼拝に彼らを導いてあげれば、なんとかなるからと。私のようにかなりいい加減でだらしのない父親のもとでさえ、なんとなかなる。

 人を育てるという重荷もこうやって分かち合い、助けていただければ本当に豊かなものとなるのです。抱え込まない。背負い込まない。プライドを手放し、握っているものをリリースして、他の人の手にも分かち合い、主の御手の中で一緒に歩みましょう。 




1. 
 

1番


2番


3番


 21章25-26節



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