皆さんは人の助けを借りることは得意ですか?
御声に聞きましょう。
少し前の5節によれば「肉が食べたい。魚が食べたい。きゅうり、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも!」と言ってわめいています。
気持ちは分かりますが、荒野という場所を考えると、飢えることなく生活ができるだけでも神のあわれみによることでした。
彼らは毎日「マナ」という栄養十分のおいしい食べ物を神様から与えられていました。それは「神の奇跡」以外の何物でもありません。ところが、彼らはそれに飽きてしまい、不平を言い始めたのです。食べ物がなくて不平を言っているのではなく、与えられていながら、欲望に負けて文句を言うようになったのです。
皆さんも似たような経験があるかも知れません。リーダーや人の気持ちを背負う人の苦悩です。職場でも何らかの責任を担うこと。自治会の役員や学校の役員、クラブのリーダーなどを担うことがあるでしょう。教会でも何かの責任が任されますね。さらには、そうしたリーダーでなくても、人に寄り添いケアすることは、少なからず重荷を一緒に背負い、苦しくなることがあるものですね。ですから、モーセの気持ちはきっと皆さんも分かるでしょう。
そしてモーセは負いきれず、やや自暴自棄になり、次のように告白しました。14-15節
14節 私一人で、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。15節 私をこのように扱われるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を悲惨な目にあわせないでください。」
感情的なモーセの訴え、叫びです。ただ、神様に正直に自分の弱さを告白し、訴えたことは本当に幸いでした。
17節に「わたしは降りて行って、そこであなたと語る」とあります。
神様自らがモーセのところに降りて来られ、モーセと親しく語ってくださるのです。これは、主がモーセの叫びをないがしろにせず、向き合ってくださったということです。私たちが負いきれないと思えるような重荷を抱く時、私たちには持って行ける場所があるのです。
イエス様はそれを私たちに教えてくださいました。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタ11:28)
何もかも自分一人で負わず、神様のもとに行きましょう。主のやさしい語りかけが聞こえてきます。 主は具体的な助けを示してくださいました。民の中の長老、導く力のある者を70人集めるように言われたのです。そして、彼らにもモーセに与えているのと同じ主の御霊を分け与え、重荷をともに担えるようにしてくださったのです。
箴言17:17に「兄弟は苦難を分け合うために生まれる」とあります。神様は人が重荷を一人で担うようにではなく、ともに担い合うことができる者としてデザインされたのです。それにも関わらず、私たちは他の人の助けを受けることをしません。結局そうして自分で自分の首を絞めてしまうのではないでしょうか。
先日、ある教会の支援をしましたが、そのことでその教会の先生がこんな風に証ししておられました。「自立した教会なのに助けを求めるなど甘えではないのか。」との思いがあり、自分の心を探られ祈ったと。
そして祈りの中で、自分のある思いに気づかされたと言うのです。
「自分は、できる人間だと思われたい。だから支援を受けることで、できない人間だと思われたくない。支援を受けるということは、恥ずかしいことだ」と。そういうプライドがどこかにあって、取り扱われる必要があると告白されています。
とてもよくわかります。「支援されるより、する側でいたい」と思うのです。「教えられる側より、教えてあげる側でいたい」のです。肉の思いはそうです。少しでも他の人より上でいたい。尊敬され認められ「すごい」と言われたいのです。
でも、モーセは能力やメンタル面が秀でていたわけではないのに、主の目に良いリーダーとなりました。なぜでしょう? 彼は自分の弱さを謙遜に受け入れ、神と多くの人々の支援を受け入れたからです。皆で働きをすることができたからです。
「重荷を降ろし、分かち合う」という姿勢は、傲慢の鎧を脱ぎ捨てて、謙虚さと感謝の心で、神のみわざを豊かに体験していく最高の道です。自分ができないことは、周囲の方に助けてもらえばいいのです。自分に知恵がなければ、他の人の知恵を分けてもらえばいいのです。主はその人にも豊かに働かれるのです。「自分でなければ」との高慢から解放される必要があります。
時々、どうしたらサンライズチャペルのように若い世代が育つのか?とか、子育ての秘訣を教えて欲しいと言われることあります。私の答えは決まっています。
「すばらしいでしょう?あの子たちは私の誇りです」と。
「なぜなら、彼らは教会の皆さんの愛と祈りと尊い犠牲によって育てていただいたからです」と。
自分の家の子育てにしても、私と妻と二人で育てるのは無理です。たった二人分の知恵、二人分の人格、二人分の経験、二人分の祈りしかないのですから。そうじゃなくて、より多くの方の知恵、人格、経験、祈りによって育てて頂いたから、人が育つのですよね?
(自分たちで育てたという感覚がある意味ないので、主と教会が育てたので、謙遜して「いえいえ」と言う必要がないという意味です)。
そのように助け手を備えて下さっている神様によれば、豊かに育たないはずがないのです。ですから、お子さんたちがとにかく教会にいられるようにしてあげてくださいと。とにかく教会の交わり、礼拝に彼らを導いてあげれば、なんとかなるからと。私のようにかなりいい加減でだらしのない父親のもとでさえ、なんとなかなる。