アモス書が終わり、本日から新しい学びに入ります。聖書人物シリーズです。聖書に登場する人物を取り上げながら、そこに示されている神様のご愛、みこころを学びます。
人の弱さ、罪深さ、豊かさ、成長・・・ 私たちと同じような人々の姿を通して、私たちと神様との関係がさらに豊かなものとなるよう願います。
本日は最初の人、アダムについてのみことばから主のみこころを求めていきたいと思います。
創世記1章26節 ここで神様は「さあ、人を造ろう」と言われました。
原語では「さあ」に該当する直接的なことばはないものの、英語であれば「Let us make」と訳すべきところですので、日本語では「さあ~しよう」と訳すにふさわしいと思います。
その直前の25節までは何が語られていたのでしょうか。
この世界の様々なものが造られてきました。1日目に光が造られ、闇と区別されました。2日目に大空が造られ、続いて陸地と海が整えられました。3日目になると今度は植物が造られました。4日目には、太陽、月、星々が。5日目には空と海の様々な生き物が造られました。鳥、魚たち。
そしていよいよ6日目。まずは地上の動物が造られました。
ここまで整って初めて、最後に人が造られていきます。
なぜ、人間が最後なのでしょうか?
後回しにされたということなのでしょうか?いえ、むしろこれまでのすべての被造物は、人間の暮らしのために備えられたということでしょう。
ですから、26節で「さあ、いよいよ人間を造ろう」というニュアンスで語られているのです。準備は整った。さあ、今こそ人を造ろう!という神様の熱い情熱がそこにあるのです。
なにせ、他の被造物とは全く違う点があります。
「われわれのかたちとして」「われわれの似姿として」と、人だけは、ご自身のかたちとして造られたのですから。思いがそこにあふれています。愛する我が子、分身のような存在を生みだそうという思いです。人は神と語り合う、ともに歩むパートナー的存在として造られた特別な存在だと分かります。
このようにして造られた最初の人が「アダム」でありました。
聖書はこうした背景を丁寧に語り、その上で具体的な人の創造を語られました。2章7節です。
神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。
「ちり」と訳されたことばが「アダマー」という「土」を意味することばです。そこから「アダム」と言う名前が生まれています。そこに神様がいのちの息を吹き込まれ、それによって人は生きるようになりました。ご自分のいのちを分け与えるかのように、そのいのちの息吹を神様自らが吹き込んでくださっています。
このようにして、最初の人アダムが造られました。
私たちはここにある神様の深いご愛、人に対する情熱をしっかり受け止める者でありたいと思います。
実に、この最初の部分、人の起源の部分で、人間が真理を知らず認めずに歩んでいるために、自分の存在意義がわからず、自分のいのちを呪う人が山ほどいるように思います。
自分の起源やルーツを知ることは、思っている以上に大切なことなのです。
ここから分かることがあります。
神様は道楽で人を生み出したのではありません。
この世界、この地球が大事だというので、それを管理する管理人が必要だったから人を造ったのではありません。
多くの準備が人のためになされ、最後に「さあ、いよいよ人を造ろう」と人が造られたことからもそれが分かります。
何よりご自身のいのちを分け与えるように、ご自分にあえて似るようにと人を造られたのですから、大事でないはずがありません。
この真実を私たちは信じて、また伝えて参りたいと思うのです。あなたの存在は偶然ではない。たまたまではない。何かの管理のために造られたのではないのです。
むしろ、あなたのためにすべてが準備されたのです。アダムは、私たち人間の代表であり、彼に対する神様のこの熱心さが、私たちに対する熱心さとイコールであることを忘れてはいけないのです。
2.人は交わりの中で生きる存在
そして、神様はアダムと対等に、ともに助け合い重荷を担い合う仲間が必要だと考えられました。なぜなら、神様ご自身が三位一体で親しい愛の交わりの中で協力して歩んでおられる方だったからです。
われわれのかたちとして、われわれに似る姿にと言われているのは、三位一体の交わりを意識してのことであると私は理解しています。
三位一体の神様の交わりは本当に美しく豊かで力強い。それに似せてくださった。だから、人がひとりぼっちで何かをするよりも、ともに協力し合い助け合う方が豊かであり、美しもあり、感動がそこにあるのです。
アダムのパートナー:エバは、アダムから造られました。それは神様のいのちの息吹を人が分け与えられたように。2章21節で「あばら骨」から取られたとあります。
それは人の心臓、内臓を守る骨。体の中心部。頭でも足でもない。お互いの大切な心を共有できるような者として、優劣なく助け合う者となるように女性であるエバが造られました。
そして、アダムはこのエバの存在を心から喜びました。
2章23節「私の骨からの骨、私の肉からの肉」と言ってアダムは歓迎しています。
罪が入る前のアダム、エバ、この世界はとても幸せで良いもので満ちていたのです。
ところが、創世記3章では最初の人アダムとエバが罪を犯してしまい、そこから罪と死、様々な病、苦しみが入りました。
食べてはいけないと命じられていた善悪の実を食べてしまうのです。最初に食べたのは女性であるエバでしたが、そのまま夫アダムにも分けると、アダムも当然のように食べてしまいました。6節です。
そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
違和感を覚えます。
アダムはなぜ止めなかったのか?ということです。
この6節では「ともにいた夫にも与えた」とあります。ともにいながら「いいのか?」「まずいんじゃないの?」とも言わず、さらに自分も普通に食べてしまったのです。
「アダムの沈黙」という本がありますが、肝心なところで沈黙し、必要なことを語らない男性の弱さについて語っています。現代の男性人にも共通する耳に痛い指摘です。
罪を犯したアダムは「主の御顔を避けて」身を隠したとあります。
とても残念なことです。神様とのとても親しい交わりを失ったのです。大好きな神様から隠れる・・・それは彼らには初めての経験でした。
9節「あなたはどこにいるのか」神様によるこの問いはかけは、アダムに発せられました。「彼に言われた」とある通りです。アダムの責任を問うかのようです。
ようやく彼がことばにしたことは何でしょうか?
10節では、裸であると知って恐れて隠れていたと言いました。そして12節でこう言いました。「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」
エバのせい、環境のせい、神様のせいにしています。散々言い訳をして最後にほんの一言だけ「私は食べたのです」と自分の問題はごく小さく触れているだけだと気づきます。
このアダムの姿は私たち自身の姿ではないでしょうか。
ハッキリと断る勇気を持たず、罪を犯したときに言い訳から始めるのです。語るべき大切なことは語らず、自分の言い訳や弁解の時にはやたら雄弁になるのです。「話すのは苦手です」と多くの人は言いがちですが、自分を守る時や誰かを責める時には急に雄弁になるのは不思議なことです。
人は自らの意志で神との親しい交わりを失い、堕落しました。
それでもなお神様はこのアダムの子孫を愛し続け、救われる方。
「あなたはどこにいるのか」との問いに、まっすぐに向き合い沈黙せずに応答する者となりたいのです。良いものは良い。