コロサイ1章9-12節「祈り~神を知る者となるように~」
「祈りとは何ですか?」
皆さんはそのような質問を受けた時にどのようにお答えになるでしょうか?
意外にも簡単に答えられない自分に気づくかも知れません。しかし、それで良いのかも知れません。それほどに「祈り」とは奥深く、豊かなものだからです。
「祈りの人」とか「祈りの達人」などと、誰が名乗ることができるだろうかと思うのです。
しかし、お祈りほど誰でもできるものはそうありません。
健康である必要もなく、場所も選びません。祈りに関しては2~3歳の幼子でもできるでしょう。その意味では最も簡単で、いつでもどこでも時と場所を選ばずできるわざであると言えます。
だから不思議なわざだと思わされます。
とても簡単でいつでもどこでも祈れる。そうでありながら、実際に祈りについて学び始めるととても深い豊かさを持っていると気づきます。祈るほどに・・・です。
習熟したとは簡単に言えないのです。それはある意味、とても楽しい世界でもあり、宝物を探しに洞窟探検をするかのようです。なぜなら、誰でもすぐに祈り始めることができ、同時にどこまでも深く力があり、無限の可能性を秘めているわけですから。祈り始めたらやめられない楽しさがあると言えるでしょう。
私は社会人の時に、クリスチャンの先輩に「祈り心を持って仕事をする(生きる)」という事を教えていただきました。それは仕事をしながらも絶えず神様と対話するようにして過ごすということです。生活のあらゆることを祈りながらなしていく。まさに「祈りながら生きて行く」ということでしょう。ぜひ、今日みことばから語られ、「祈るように生きて行く」恵みに気づかされたいと思います。
少し前に、この手紙は一度も会ったことがない人々への手紙であるとお話しました。パウロたちが顔を見たこともない人たちのために絶えず祈っているのだと分かります。9節
9節 こういうわけで、私たちもそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように。
パウロがコロサイの教会のために熱心に祈っていた内容は何でしょうか。この9節では、彼らが神のみこころについての知識に満たされるようにとの祈りであると分かります。
コロサイの教会では、せっかく伝えられた教えを捻じ曲げ、みこころから外れて行く問題がありました。これらの問題は、神様のお心から離れてしまうことにあると言えます。「罪」は神の基準から外れている事を指します。また、神様のみこころが分からないなら、どうして正しいことができるでしょうか。良かれと思っても、自己満足になりかねません。
さらに、神のみこころをただ知るのではなく、「その知識で満たされるように」と語られています。「金太郎アメ」というのがありますが、最近の若い子たちは知らないかも知れません。長い棒状になっていて、どこを切っても金太郎の顔が出て来るアメです。
満たされているということは、まるで金太郎アメのように、私たちの生活のどこを切っても、人格のどこを切っても「神さまのみこころ」が現れるということです。
まさにこれは、祈りながら生きて行かないと不可能ですよね。
そして、「神のみこころ」を知る方法も触れられています。「神様のみこころ」って何ですか?とよく尋ねられ、簡単には聖書で語られていることですとお伝えしていますが、厳密には祈りを抜きにして、神のみこころ知ることは難しいと言えるでしょう。
ここでは「霊的な知恵と理解力によって」知るのだと語られています。尋常ならざる努力によってとも、牧師や教師によってとも書いてありません。「霊的な知恵と理解力によって」と手段が語られます。これはどこから得られますか?神様からです。つまり、神を知るためには、神の御霊によるとあるのです。そのために祈り求めるのです。
10節でもこうあります。
10節 また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。
「主にふさわしく、あらゆる点で喜ばれる歩み」と言い換えられていますが、神のみこころの知識に満たされていれば当然、こうなります。神様の願う道です。ですから、インターネットからでもなく、牧師からでもなく、皆さんご自身が神様と祈りの対話をしながら御霊の助けを受け、神様のみこころを知って欲しいのです。
ここでパウロは「神を知ることにおいて成長」できるようにと祈っています。神を知るという点において、各人が成長していって欲しいということです。
一人一人が神を祈り求め、知る者になって欲しいのです。ママ‘sカフェでお話したことがありますが、子どもたちの成長を願うのならば、幼い頃は親が魚を取ってあげるけれども、徐々にそれをやめて「魚の取り方」を教えてあげる必要があると。魚を取ってあげる行為は、肉体を育ますがその子の全人格的成長にはつながりません。親がいなくなれば、飢えてしまうのです。ですから、魚の取り方を教えてあげて、自分で取って生活できるように育てる必要がある。
私も皆さんに答えを出すのではなく、答えの求め方をよりお伝えしたいと願うのです。それが「人を育てる」ということだからです。その答えの求め方が「祈り」なのです。
そして「祈り」について、少し誤解を解いておきたいと思います。お祈りは私たちの「願いのリスト」を神様に「はい、これお願いします」と、一方的に突き付けるものではないのです。それはただ、私たちのワガママぶりを神様にアピールしているに過ぎません。
ジェームズ・フーストンが書いた「神との友情」という祈りの本にこうあります。
「もし祈りを、神に向かって『語りかける』行為というより、『耳を傾ける』行為ととらえるならば、神との結びつきはずっと改善されるでしょう。」
ちょっと驚きませんか?
「祈り」は語りかけるというより、耳を傾けることであると捉えよと言うのです。
ただ、これはよく考えるとそうなのです。 皆さんがどなたかと交わり(会話)をする時、私たちは一方的に「これをお願いします。あれもお願いします。ぜひ、これもどうにかしてください。」と、ひたすらお願いや愚痴を言い続けるでしょうか?そのような関係はすぐに破綻しそうです。親密にはなれないでしょうね?
私たちは交わる時に、相手を尊重して話す必要があるのです。何かを伝えた時に相手の表情や反応に関心を向けるのです。また、相手に質問することで、考えや思いを引き出し、相手を理解できます。
「祈り」も同じです。最初のうちは、私たちの思いを伝えることが中心になったとしても、やがて神様のみこころを聞く行為へと変えられ、対話の中で人格的に神を知っていく機会となるです。
イエス様のゲツセマネの園の祈りが良い例です。この苦しい杯を取り除いて欲しいとご自分の願いを訴えました。しかし、イエス様は父なる神様のみこころを知ろうと耳を傾けたのです。ですから、みこころがなるようにと祈り、十字架に向かいまいました。
また、パウロが肉体のトゲを取り除いて欲しいと3度祈った時もそうです。願いを伝えつつも、取り除かれないが、そこに恵みが十分あるという主の答えに耳を傾けたのです。ああ、癒されることがみこころではなく、トゲと一緒に恵みを覚えて生きるのですねと彼は主のみこころを知ったのです。
祈りは「主のみこころを教えてください」と主ご自身のお心を求めて祈るものなのですよね。
11-12節の祈りのことばからも教えられます。
11節 神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように。
12節 また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように。
ここでは、コロサイの兄姉が強くされ、忍耐でき、寛容となれるように。
また神に感謝をささげられるようにと祈り求めています。
これは一見、神様へのパウロお願いの列挙に見えますが・・・
よく味わうとある真理に気づきます。何でしょう?
これらは「神のみこころそのものを祈っている」のだ気づくのです。
パウロの勝手な願いではなく、むしろ神様が願っておられることをパウロがことばに現していることに気づくのです。肉の思いから来るものではなく、神様が願っていることをパウロが祈っていると分かるのです。
神様こそが、コロサイの兄姉がご自分の支配のもとに置かれ、強くされ、忍耐深い者となり、寛容な人になれるよう一番願っている方なのです。喜びをもって感謝できる幸いを彼らに味わって欲しいと願う神様なのです。
ですから、この祈りはパウロの個人的な願いではなく、パウロの練られた祈りのうちに、神様の願うままを彼自身が求めていたということです。
これはまさに、神のみこころにパウロが満ち溢れていた証拠です。
つまり、成熟した人の祈りが聞かれる理由がここにあるのです。
成熟した人の祈りこそ、神様のみこころそのものになっているからです。
私たちの祈りのゴールは実はここにあります。
祈れば祈るほどに、神様のみこころを求めるようになります。