東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 創世記1~3章 「最初の女性エバ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/03/24

創世記1~3章 「最初の女性エバ」

*** 3/23(水)祈祷会 説教概略 ***

創世記1~3章 「最初の女性エバ」


 2:18 また、神である主は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」 

 神様はこのようにおっしゃって、男性とともに歩む女性という存在を造られました。ただし、誤解をしないでいただきたいことがあります。それは、神様は男性を造った結果、「ああ、やっぱり女性が必要だ」と気づいたのではないということです。最初から、人を男と女とに造るおつもりでした。ただ、その理由の一つをここで述べているに過ぎません。


 そして「助け手」ということばに引っかかる方がしばしばいらっしゃいます。
 女性は男性の「助け手」に過ぎないのか?差別ではないか?という問いかけがあります。 
 しかしながら、この「助け手」と訳された「エゼル」というヘブル語は、神様を指して頻繁に用いられることばです。私たちの「助け主」であるという意味です。それはもっと言えば「救い主」に近いぐらいの意味で用いられていると言えるでしょう。

 人は神なしには生きていけません。同様に、男性は女性という存在があって初めて、様々な弱さが補われ、良い働きができるのです。もちろん女性も同様です。

 「ふさわしい」ということばも「ちょうど釣り合っている」という対等な関係を意味するものです。ですから2:19-20で、神様は様々な動物をアダムのもとに連れて来て名前を付けさせました。しかし、そのプロセスでアダムに「ふさわしい助け手」つまり、彼と釣り合う存在は動物の中に見つけられなかったとあるのです。それを経て、エバがふさわしい対等な助け手として造られました。パートナーです。

それと、創世記1:27をご覧ください。

1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。 

 ここに明確に女性が含まれていると分かります。神様は女性もまた、「神のかたち」として造られたのであり、神のかたちに似せたからこそ、男性と女性という助け合って一つのことをしていけるようになさったのです。

さて、この最初の女性がエバなのですが、肝心のエバという名前はどこから来たのでしょうか。実は320節までエバという名前では呼ばれず「女」ということばで表現されています。320節で初めて「エバ」という名前で呼ばれています。

3:20 人は妻の名をエバと呼んだ。彼女が、生きるものすべての母だからであった。

 アダムが妻の名をエバと呼んだことが始まりです。その意味は「生命」であり、ここにあるように「生きるものすべての母」だから、その名で呼んだとあります。アダムが「土」という意味からすると、「エバ」とは実に壮大な名前ですね。


少し話を戻しまして、この女性エバがどのようにして悪魔の誘惑に流され罪を犯してしまったのかということを触れないわけにはいきません。313節のやり取りです。

3:1 さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」

 蛇は質問をしました。
「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」

 この質問はウソそのものです。「園の木のどれからも食べてはいけない」とは、まるで神様の言われたことと反対です。真実はどんな内容でしょうか。2:6-17です。

2:16 神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。2:17 しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」 

 神様はむしろ「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と言われたのです。自由に好きなだけ食べて良いというのが神様の教えでした。一点だけ、17節にあるように善悪の知識の木からは食べてはならない。あなたがたが必ず死んでしまうからだと言われました。では、エバは言われた通りに答えたのでしょうか?残念ながら違うのです。

 少しずつ、自分の考えへとずらしていることが分かります。2-3

3:2 女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。

 まずここですが、「どの木からでも思いのまま」という部分が早速抜けていますよね。だいぶ印象が違うと思いませんか?ここにエバの弱さがあったと言えます。

 彼女は、神様のおことばを分かっているつもりでしたが、「本当にそうなの?」と言われるだけで揺らいでしまう程度でした。主のことばに堅く立ってはいないのです。

 そして、この揺らぎとともに、エバ自身で神様の恵みを小さくしてしまったのです。

 私たちも考えさせられます。神様の教えに堅く立たず揺るがされ、恵みをそのままで受け止めず、小さくしてしまうことがあります。それによって、本来あった豊かさを失い、不満を抱き、悪魔の誘惑にまんまと引っかかってしまうのではないでしょうか。

ですから、私たちは割り引かずに、主のみことばを受け入れることが必要です。そこにある恵みをそのまま豊かに味わう者でありたいと思うのです。

その大きく豊かな恵みから見れば、たった一つの木のみ制限されているなんてことは、あまりにも小さな問題です。

 私たちもこの世界にある多くの物を豊かに楽しむ権利を与えられています。食べ物、飲み物、自然、スポーツ、音楽、芸術、交わり。ただ、その中で犯罪を初め、神様が悲しむような罪となることだけは避けるように教えられているのです。不自由どころか実に楽しい豊かなものを楽しめるように神様は与えて下さっています。


 もう一つ。エバが小さく見積もったものがあります。3節です。

3:3 しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」

 彼女は罪の結果を小さく見積もりました。神様は善悪の木から食べたら「必ず死ぬ」とおっしゃいました。でも、エバは「死ぬといけないからだ」と、死ぬ可能性があるというレベルに引き下げてしまいました。罪の結果を軽く見てしまったのです。なお、この3節で「触れてもいけない」とエバは言ってますが、神様は触れてはいけないとおっしゃっていないので、そこでも正しく聞き入れてないことが分かります。自分勝手な解釈です。 

 そう考えるとエバは神様のくださった恵みも、そこから逸脱し罪を犯した結果の深刻さも神様がおっしゃるようには受け止めていなかったことになります。

 ここに大きな課題がありますね。

 主の教えを聞く時点でフィルターをかけて、自分の思いや考えに引き寄せて受け入れているのでしょう。これもまた私たちにも言えることですよね。

 私たちも思い込みをやめて、主の声にまっすぐに素直な心で耳を傾けませんか?

忙しい生活を送っていると、メールやお手紙もきちんと読まないことがありませんか?「きっとこうだ」と思い込んでちゃんと誤解してしまう!相手がどんな思いで書いているのか、丁寧に読み取ろう聞き取ろうとしたいですよね?

私も忙しいとついそうなって、先日ある方とのやり取りで失敗したばかりです。そこからもう一度丁寧にメールを読み直し、お返事をしました。主の声に丁寧に聞いて、忠実に応じようという姿勢を持ちたいですね。

 エバの影響力は夫であるアダムに対して絶大でした。アダムもすんなり食べてしまいました。女性、男性、それぞれの弱さがありますが、それを補い合って主のみこころを一緒に求めていきましょう。

 何より主のみこころは、主に祈り、そのみ声に耳を傾ける姿勢から分かる者とされると学びました。話すよりも主に尋ね求め、その声に耳を傾けるのです。




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