東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 民数記11章18-23「主の手が短いというのか」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/03/31

民数記11章18-23「主の手が短いというのか」

***  3/31(日)主日礼拝 説教概略 ***

民数記11章18-23「主の手が短いというのか」

 以前知人の教会を訪れた時に「あきらめません」という賛美曲を初めて聞きました。その教会では一つの大きな試練があって、祈りの中にありました。しかし、心を込めて、中には涙ぐむようにしながら「イエス様、私はあきらめません。どんなに涙がこぼれてきても」と歌っておられる姿に、とても励まされたのを覚えています。


 実は「あきらめるな」と言うのは簡単なのですが、実際にあきらめずに歩み続けることは容易ではありません。なぜなら、あきらめる心というのは、自分でも気が付かないうちに芽生えているからです。あきらめた方が楽な気さえしてしまうのです。そうして、時に、祈ることすらやめてしまう弱い私たちです。

アブラハムの妻サラは、年老いた自分に子が与えられると聞いて「まさか」と笑いました。あきらめの笑いです。しかし、主の手は決して短くありません。主に不可能はありません。彼女は自分の不信仰を恥じることになりました。

主のみこころであるのならば、私たちの考えをはるかに超える主のみわざがいつでも起こり得るのです。ですから、主のみわざに期待して祈り続けていきたいのです。本日のみことばでは、主の手が短いかどうか、そして主のことばが実現するかどうかは、今に分かると語られています。あきらめずに主のなさることに心を向けて参りましょう。今日も主の御声に期待して聞いて参ります。

 

1. 「あの頃は良かった」という不信仰

 
 イスラエルの民は、荒野での歩みの中で多くの不平・不満にとらわれていきました。それはまさに、主がいつでも良いもの、最高のものをくださるのにそれを信じない心に支配されていた事に他なりません。彼らには既に「マナ」という良い糧が与えられ続けていました。

しかし、欲に囚われて「ああ、肉が食べたい。」とワガママを言い始めたのでした。より深刻な問題は過去を振り返り「エジプトは良かったのに」と言い始めたことでした。それは罪深い生活を愛し、神の救いを否定する言い分です。

彼らは「今ある恵み」に目を留めず、「これからなされる主のみわざ」にも期待しない。そんな不信仰を習慣化させていたのです。ですから、エジプトに戻ったとしても結局はこう言い始めるでしょう。「ああ、荒野の自由な生活は良かったのに」と。つまり、過去の良かった光景だけを美化して「あの頃は良かった」と言うのです。

今、目の前に与えられている恵みに感謝できない人は、どこに行って何をしていても不満で感謝できないのではないでしょうか。主が良いご計画をもって導いて下さろうとしているのに、主が良いお方であると信頼しないゆえに、後ろばかり向いてしまうのです。

「あの頃は良かったなぁ症候群」とでも言いましょうか。いつも今と未来を見つめることができず「あの頃は良かった」と言い続ける生涯・・・なんと不幸なことでしょうか。

今を生きていないのです。未来に向かって生きていないのです。
それでも神様はこの頑なな民を愛しています。彼らの言い分を一部飲む形で、真の幸せとは何かを教えようとされたのではないでしょうか??18節です。


2. 主が与えてくださる糧


18 あなたは民に言わなければならない。明日に備えて身を聖別しなさい。あなたがたは肉を食べられる。あなたがたが泣いて、主に対して『ああ、肉が食べたい。エジプトは良かった』と言ったからだ。主が肉を下さる。あなたがたは肉を食べられるのだ。 

そんなに肉が食べたいなら。神の恵みの糧よりお肉にそんなに心惹かれるなら、好きなだけ与えよう!そんな皮肉が込められているのです。それは19-20節を読めば明らかです。

19 あなたがたが食べるのは、ほんの一日や二日や五日や十日や二十日ではなく、

20 一か月もであって、ついには、あなたがたの鼻から出て来て、吐き気をもよおすほどになる。それは、あなたがたのうちにおられる主をないがしろにして、その御前で泣き、『いったい、なぜ、われわれはエジプトから出て来たのか』と言ったからだ。」 

「どうせなら死ぬほど食べるがよい」とでも言わんばかりです。神様はあふれるほど与えようとされました。そして、その結末が神様には見えています。吐き気をもよおすほどになると言います。

 私たちも「外食」っていいなと思います。でも、30日間・毎日朝昼晩と外食が続いたら耐えられないでしょう。健康面も心配です。神様の与えておられたマナはその点、毎日食べることにおいてあらゆる配慮に満ちていました。言わば「おくふろの味」「家庭の味」です。

 この民をよく知っているからこその愛に満ちた糧なのです。日々主に信頼し期待して歩むことを学ばせる「食育」でもありました。また、毎日、長期に食べ続けられる糧でした。ただ、私たちが一人暮らしをして初めて「おふくろの味」の良さがわかるように、この民も山ほど肉ばかりを食べた時に、初めて気づくのかも知れません。それは後ほど触れることに致しま。


3. モーセの不信仰 


さて、ここではモーセの信仰も問われて参ります。モーセはこの神様のお話を聞いて「無理なのでは?」という疑いを持ち始めました。

21 しかしモーセは言った。「私と一緒にいる民は、徒歩の男子だけで六十万人です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、一か月の間食べさせる、と言われます。
22節 彼らのために羊の群れ、牛の群れが屠られても、それは彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚が全部集められても、彼らに十分でしょうか。」 

神様は明日には肉を与える!身を整え準備せよ!とおっしゃいました。しかし当時、荒野を放浪していたイスラエルの民は、成人男子だけで約60万人。規模が大きすぎるのです。「神様、さすがにこの状況で彼らが1か月間も満足するほどの肉は無理でしょう?」と。ある意味とても常識的な問いかけです。

しかし、相手は誰でしょうか?一国の王ですらありません。そのはるか上のお方。全知全能、創造主なる神様です。主はモーセに応えました。

23 主はモーセに答えられた。「この主の手が短いというのか。わたしのことばが実現するかどうかは、今に分かる。」 

実に不信仰におちいっていたのは、イスラエルの民だけではありませんでした。モーセもまた、気づかないうちに神様の力を侮っていたのだと教えられます。

それは、新約聖書の五千人の給食と通ずるものでしょう。弟子たちは5つのパン、2匹の魚を見て、5千人の民の前ではないも等しいと思いました。そこにイエル様がおられるのに、神の御子イエス様には目が向けられず、わずかなパンと魚、大勢の群集しか目に入らなくなっていたのです。この時の弟子たちの姿とモーセの姿が重なりますね。

問題に心を奪われ、自分の小さな理性に囚われ勝手にあきらめているのです。主のみわざに期待することを一切しなくなっている状態です。一見すると「あきらめ」は、とても冷静で論理的な思考回路かも知れません。教養がある人の常識的判断かも知れません。

しかし、私たちのそのような理性・常識の檻の中に神様を閉じ込めてしまったら、神様はさぞ窮屈だろうと思うのです。「天も、天の天さえも神様をお入れできない」と言うほど、スケールの大きな無限のお方です。それなのに、いつも私たちは自分の小さな檻に神様を閉じ込めたがります。長いはずの神の御手も勝手に短いと思い込んでいるのです。神様に失礼ですよね?

この時のモーセは、神様ご自身を問題の前に見るということを失っていました。それでも主はモーセの弱さに寄り添い「わたしのことばが実現するかどうかは、今に分かる。」とお語りになったのです。

 

4. 主のみことばの実現 


 では、主のみことばはどのように実現したのでしょうか。
少し先の31-32節をご覧ください。

31 さて、主のもとから風が吹き、海からうずらを運んで来て、宿営の近くに落とした。それは宿営の周り、どちらの側にも約一日の道のりの範囲で、地面から約二キュビトの高さになった。
32 民は、その日は終日終夜、次の日も終日出て行ってうずらを集めた。集めたのが最も少なかった者でも、十ホメルほど集めた。彼らはそれらを自分たちのために、宿営の周囲に広げておいた。 

 神様はうずらの肉を与えてくださったのです。あまりにも多く与えられ、集めた量がとんでもない!最も少なかった人でも「10ホメル」ほど集めたというのです。この10ホメルって想像つきませんね? 

クイズです。①10回は褒められるほどの量 ②10ホメル=10kg(お米袋)では?③10ホメルは1L牛乳パック2300本分(2300リッター)では?  


正解は③


これが「少なく集めた人でも」という話です。驚きです。どれだけ大量に与えられたのか。そして、どれだけ欲張って集めたのかと言う話にもなります。いずれにせよ、主がなさったみわざです。モーセも圧倒されたことでしょう。同時に、自分の不信仰と浅はかさを恥じたことでしょう。へりくだらされたのではないでしょうか。 

ただ、この出来事は祝福として与えられたのではなく、不信仰への戒めでした。残念なことに、この民の罪深い姿勢がその身に不幸を招いています。

33-34節によれば、彼らはその欲望にかられたゆえに、主の怒りが降り注ぎ、非常に激しい疫病に悩まされたというのです。ウズラの肉を大量に食べたことと関係するのかまでは書いていません。ただ、往々にして欲深い生活をして心身ともに害するのが私たちです。特にこの時、数日で食べきれないほど大量に集めましたよね。欲張って・・・腐るでしょう?疫病流行るの当然ですよね?

そうなって初めて「おふくろの味」のありがたみが分かるものですよね。この出来事も、主が与えてくださるマナを感謝して食べていれば、起こらなかったことではないでしょうか。主がくださるものを拒んで、俺たちはアレがいい、コレがいいと歩む時、自ら滅びへの道を進んでしまう盲目な姿です。

それにしても、主のことばは人の考えをはるかに超えて、このように実現しました。私たちは主の手が短くない。むしろ、とんでもなく長いのだと教えられるのです。

ですから、「どうせ無理だ」とあきらめ、決めつけることから解放されたいと願います。

みことばには「あきらめるに早くあれ」とも「決めつけるに早くあれ」とも語られていませんよね?しかし「聞くに早くあれ」とは教えられています。主の御声に早く聞き、「主のことばが実現するかどうか、今にわかる」との語りかけに「アーメン」と応じたいのです!

昨日、ある姉妹からお電話をいただきました。海外に住むお兄様が病で非常に危険な容態にあり、急遽行くことになったと伺いました。電話口で私がお祈りしまたら、姉妹は泣きながらでしたが、それでもハッキリと「アーメン」と応じられました。どんな状況であっても、最善をなしてくださる方にあきらめずに祈る者でありたいと思います。

神の民、キリスト者である私たちがあきらめ、祈らなくなったら、一体誰が祈るのでしょうか?

 

 ご一緒に主の御声に聞いて参りました。今日も主は、私たちに親しくお語りくださっています。

①「あの頃は良かった」と過去に囚われるのではなく、今、わたしが与える恵みにしっかりと目を向けなさいと言われます。

②また、わたしの力を侮り、あきらめ、無理だと決めつける心から解放され、私に期待し祈り求めよと。

③そうして、わたしの腕が短いかどうか、みことばが実現するかどうか、しっかり目を開いて見よと言われるのです。



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