民数記11章18-23「主の手が短いというのか」
アブラハムの妻サラは、年老いた自分に子が与えられると聞いて「まさか」と笑いました。あきらめの笑いです。しかし、主の手は決して短くありません。主に不可能はありません。彼女は自分の不信仰を恥じることになりました。
主のみこころであるのならば、私たちの考えをはるかに超える主のみわざがいつでも起こり得るのです。ですから、主のみわざに期待して祈り続けていきたいのです。本日のみことばでは、主の手が短いかどうか、そして主のことばが実現するかどうかは、今に分かると語られています。あきらめずに主のなさることに心を向けて参りましょう。今日も主の御声に期待して聞いて参ります。
1. 「あの頃は良かった」という不信仰
しかし、欲に囚われて「ああ、肉が食べたい。」とワガママを言い始めたのでした。より深刻な問題は過去を振り返り「エジプトは良かったのに」と言い始めたことでした。それは罪深い生活を愛し、神の救いを否定する言い分です。
彼らは「今ある恵み」に目を留めず、「これからなされる主のみわざ」にも期待しない。そんな不信仰を習慣化させていたのです。ですから、エジプトに戻ったとしても結局はこう言い始めるでしょう。「ああ、荒野の自由な生活は良かったのに」と。つまり、過去の良かった光景だけを美化して「あの頃は良かった」と言うのです。
今、目の前に与えられている恵みに感謝できない人は、どこに行って何をしていても不満で感謝できないのではないでしょうか。主が良いご計画をもって導いて下さろうとしているのに、主が良いお方であると信頼しないゆえに、後ろばかり向いてしまうのです。
「あの頃は良かったなぁ症候群」とでも言いましょうか。いつも今と未来を見つめることができず「あの頃は良かった」と言い続ける生涯・・・なんと不幸なことでしょうか。
2. 主が与えてくださる糧
19節 あなたがたが食べるのは、ほんの一日や二日や五日や十日や二十日ではなく、
20節 一か月もであって、ついには、あなたがたの鼻から出て来て、吐き気をもよおすほどになる。それは、あなたがたのうちにおられる主をないがしろにして、その御前で泣き、『いったい、なぜ、われわれはエジプトから出て来たのか』と言ったからだ。」
「どうせなら死ぬほど食べるがよい」とでも言わんばかりです。神様はあふれるほど与えようとされました。そして、その結末が神様には見えています。吐き気をもよおすほどになると言います。
私たちも「外食」っていいなと思います。でも、30日間・毎日朝昼晩と外食が続いたら耐えられないでしょう。健康面も心配です。神様の与えておられたマナはその点、毎日食べることにおいてあらゆる配慮に満ちていました。言わば「おくふろの味」「家庭の味」です。
この民をよく知っているからこその愛に満ちた糧なのです。日々主に信頼し期待して歩むことを学ばせる「食育」でもありました。また、毎日、長期に食べ続けられる糧でした。ただ、私たちが一人暮らしをして初めて「おふくろの味」の良さがわかるように、この民も山ほど肉ばかりを食べた時に、初めて気づくのかも知れません。それは後ほど触れることに致しま。
3. モーセの不信仰
4. 主のみことばの実現
これが「少なく集めた人でも」という話です。驚きです。どれだけ大量に与えられたのか。そして、どれだけ欲張って集めたのかと言う話にもなります。いずれにせよ、主がなさったみわざです。モーセも圧倒されたことでしょう。同時に、自分の不信仰と浅はかさを恥じたことでしょう。へりくだらされたのではないでしょうか。
ただ、この出来事は祝福として与えられたのではなく、不信仰への戒めでした。残念なことに、この民の罪深い姿勢がその身に不幸を招いています。
33-34節によれば、彼らはその欲望にかられたゆえに、主の怒りが降り注ぎ、非常に激しい疫病に悩まされたというのです。ウズラの肉を大量に食べたことと関係するのかまでは書いていません。ただ、往々にして欲深い生活をして心身ともに害するのが私たちです。特にこの時、数日で食べきれないほど大量に集めましたよね。欲張って・・・腐るでしょう?疫病流行るの当然ですよね?
そうなって初めて「おふくろの味」のありがたみが分かるものですよね。この出来事も、主が与えてくださるマナを感謝して食べていれば、起こらなかったことではないでしょうか。主がくださるものを拒んで、俺たちはアレがいい、コレがいいと歩む時、自ら滅びへの道を進んでしまう盲目な姿です。
それにしても、主のことばは人の考えをはるかに超えて、このように実現しました。私たちは主の手が短くない。むしろ、とんでもなく長いのだと教えられるのです。
ですから、「どうせ無理だ」とあきらめ、決めつけることから解放されたいと願います。
みことばには「あきらめるに早くあれ」とも「決めつけるに早くあれ」とも語られていませんよね?しかし「聞くに早くあれ」とは教えられています。主の御声に早く聞き、「主のことばが実現するかどうか、今にわかる」との語りかけに「アーメン」と応じたいのです!
昨日、ある姉妹からお電話をいただきました。海外に住むお兄様が病で非常に危険な容態にあり、急遽行くことになったと伺いました。電話口で私がお祈りしまたら、姉妹は泣きながらでしたが、それでもハッキリと「アーメン」と応じられました。どんな状況であっても、最善をなしてくださる方にあきらめずに祈る者でありたいと思います。
神の民、キリスト者である私たちがあきらめ、祈らなくなったら、一体誰が祈るのでしょうか?
ご一緒に主の御声に聞いて参りました。今日も主は、私たちに親しくお語りくださっています。
①「あの頃は良かった」と過去に囚われるのではなく、今、わたしが与える恵みにしっかりと目を向けなさいと言われます。
②また、わたしの力を侮り、あきらめ、無理だと決めつける心から解放され、私に期待し祈り求めよと。