*** 3/2(水)祈祷会 説教概略 ***
アモス9章5-10節「偉大なる主を恐れよ」
神の偉大さと神の愛と恵みの深さ・大きさを知ることが、最優先事項であり、それを知らずしてこの世界を知ったとはまるで言えないからです。
むしろ、この世界を知りたければ神を知るべきであり、自分を知りたければ神を知るべきです。そして神を正しく知るならば、必ず神を恐れる者となるでしょう。
そして主を恐れる者に、主の目は注がれますから、恵みと祝福がついて参ります。
本日のみことば、5-6節では、神の「偉大さ」、「力あるお姿」が語られています。
それはとてもつない力がそこに加わるからであろうと想像できます。
似たような表現が他の個所にもあります。
私たちが溶けるはずがないと思っている大地が、主が一歩踏み出すだけでも、あるいは主の御声ひとつでさえ、簡単に溶け去ると語られているのです。それほどに主は大いなる方、力ある方であると分かりますね。
これほどの力でありますから、5節の中ほどにあるように、この神様を侮り、敵対する者たちは、みな喪に服すように嘆き悲しむようになるしかありません。後半には、こう語られています。
前半の「ナイル川」と後半の「エジプトの大河」とは同じものを指しています。どちらもナイル川であり、どちらも大河です。エジプトにとって大河であるナイル川は雄大さのシンボルのようなもの。しかし、その雄大な大河もまた、神様のお心一つで起こり、お心一つで消えていく小さな存在なのです。そのように、この地の上にあるすべてのものは、神様のお心一つで現れ、お心次第で消えて行くのです。
天に高殿を建て、地の上に丸天井を据え、海の水を呼んで、
地の面に注がれる方、その名は主。
しかし、イスラエルの人々はこんなにも偉大で力強い主を侮りました。軽んじました。恐れませんでした。
7節 「イスラエルの子らよ。あなたがたは、わたしにとってクシュ人と同じではないのか。──主のことば──わたしは、イスラエルをエジプトの地から、ペリシテ人をカフトルから、アラムをキルから、連れ上ったではないか。
9節 見よ。わたしは命じて、すべての国々の間で、イスラエルの家をふるいにかける。ふるっても、小石は地に落ちないようにする。
麦をふるいにかける時、麦だけが下に落ちて、より大きな石ころや木くずなどは上に残ります。つまり、神の救いにあずからない罪あるままの者たちは、取り除かれてしまうということです。
それは、神様がすべての人を見ておられ、罪深く悔い改めない者が間違って赦されてしまうとか、運よくさばきを免れるといったことは決してないということです。
10節に「わたしの民の中の罪人はみな、剣で死ぬ」とある通りです。彼らは勝手に、神のさばきの手は自分たちに及ばない。近づかないと思い込んでいます。その思い上がり、恵みを侮る歩みが、その身に滅びを招いてしまいました。
それどころか、イエス様のおことばによれば、水一杯でも主の弟子に与える人には、神様はその報いを忘れることがないのです。
圧倒的な力を持ち、同時に圧倒的なほどあわれみ深い神様です。
このお方のすべてが、私たちの想像を超える規格外です。主を高らかにほめ歌い、このお方の恵みの中に歩んで参りましょう。