東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: アモス9章5-10節「偉大なる主を恐れよ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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現在、コロナの感染状況を考慮し、夜の祈祷会はお休みしています。先日の地震で被災された方々の上に神の慰めと支えがありますように。

2022/03/02

アモス9章5-10節「偉大なる主を恐れよ」

*** 3/2(水)祈祷会 説教概略 ***

 アモス9章5-10節「偉大なる主を恐れよ」

「主を恐れることは知識の初めである」と箴言にあります。

神の偉大さと神の愛と恵みの深さ・大きさを知ることが、最優先事項であり、それを知らずしてこの世界を知ったとはまるで言えないからです。

むしろ、この世界を知りたければ神を知るべきであり、自分を知りたければ神を知るべきです。そして神を正しく知るならば、必ず神を恐れる者となるでしょう。

そして主を恐れる者に、主の目は注がれますから、恵みと祝福がついて参ります。
 

 本日のみことば、5-6節では、神の「偉大さ」、「力あるお姿」が語られています。

5節 万軍の神、主が地に触れると、それは溶け去る。そこに住むすべての者は喪に服す。地のすべてのものは、ナイル川のように持ち上がり、エジプトの大河のように沈む。

「万軍の神、主が地に触れると、それは溶ける」皆さんはこれを聞いて、どう感じますか?硬い岩場のような大地であろうとも溶けて消え失せてしまう。

それはとてもつない力がそこに加わるからであろうと想像できます。
似たような表現が他の個所にもあります。

ミカ書1:4では「山々は主の足もとに溶け去り、もともとの谷は裂ける」とありますし、詩篇46:6では「神が御声を発せられると地は溶ける」と、なんと主が声を発せられるだけでも地は溶けてしまうことが語られています(いずれも新改訳2017脚注にあります)。

私たちが溶けるはずがないと思っている大地が、主が一歩踏み出すだけでも、あるいは主の御声ひとつでさえ、簡単に溶け去ると語られているのです。それほどに主は大いなる方、力ある方であると分かりますね。

これほどの力でありますから、5節の中ほどにあるように、この神様を侮り、敵対する者たちは、みな喪に服すように嘆き悲しむようになるしかありません。後半には、こう語られています。

「地のすべてのものは、ナイル川のように持ち上がり、エジプトの大河のように沈む。」

前半の「ナイル川」と後半の「エジプトの大河」とは同じものを指しています。どちらもナイル川であり、どちらも大河です。エジプトにとって大河であるナイル川は雄大さのシンボルのようなもの。しかし、その雄大な大河もまた、神様のお心一つで起こり、お心一つで消えていく小さな存在なのです。そのように、この地の上にあるすべてのものは、神様のお心一つで現れ、お心次第で消えて行くのです。

6節も、同じように主の偉大さを表現しています。

天に高殿を建て、地の上に丸天井を据え、海の水を呼んで、
地の面に注がれる方、その名は主。 

天にご自分の宮殿を建てることができる神様です。それは地の上で何が起ころうとも、何ら影響を受けることがない天の宮殿です。神の力がこの世界に収まらない圧倒的なものであることが分かります。

また「地の上に丸天井を据える」というのは、地上から見える「星空という丸い天井」(壮大なドーム型プラネタリウムを思い浮かべたらいいでしょうか?)を造られたということです。つまり、地球から見える天の万象、大宇宙すべてを造られた神様の力を現わしています。

空気が澄んだ暗い場所で見る星空は、圧倒的な広がりを感じます。こんなに多くの星があったのかと、自分の無知と小ささを知らされるのです。神の偉大さを知ることは己の小ささを知ることでもあると分かります。人は自分で思っているよりも小さな存在です

しかし、その小さな者に、圧倒的に大きな方が目を留めてくださったのです。主のあわれみです。この方は6節後半にあるように、海の水を支配されていて、自由にそこから水を集めては地上に雨を注ぐことができるお方です。私たちは賛美するとき、このように偉大な神様を見上げます。そして、この方の御前では自らがなんと小さな力なき者であるかを思い知らされるものです。小さな者に目を留めてくださる主に感謝ですね。

しかし、イスラエルの人々はこんなにも偉大で力強い主を侮りました。軽んじました。恐れませんでした。 

7節 「イスラエルの子らよ。あなたがたは、わたしにとってクシュ人と同じではないのか。──主のことば──わたしは、イスラエルをエジプトの地から、ペリシテ人をカフトルから、アラムをキルから、連れ上ったではないか。 

「わたしにとってクシュ人と同じではないか」とあります。クシュ人とは、脚注にてエチオピア人とされていますが、エジプトから見ると上流地域の辺境の民族でした。イスラエルの民は自分たち中心に物事を考え、大きな強い者であるかのように振る舞っていました。選びの民という優越感もあったでしょう。 

 けれども、元々辺境の民に過ぎないあなたがたであると言われます。エジプトに隷属していたあなたがたではないかと主は言われるのです。この地に導き連れ上ったのは主であるわたしであると。ペリシテ人、アラム人もまた、それぞれの辺境から都市へと導き繁栄させてくださったのも主です。どの民も神様の許しがあって初めて、今の繁栄を手にしているのだということを忘れてはなりません。

 つまり神様なしには、イスラエルは小さな辺境の一部族に過ぎないし、その他の民族の繁栄もまた主の許しあってのことなのです。私たち自身も同じですよね。

 

 しかしこの民は今や、その恵みを忘れ、その恩を忘れ、思い上がって神を捨てて歩みました。そこに主の怒りの目が注がれているのです。

 8節には、地の面から根絶やしにするという厳しいことばが語られます。同時にあわれみのことば、「しかし・・・根絶やしにされることはない」と補われます。実にこの繰り返しがいつもあり、主の正義は罪ある者を見逃さないのですが、主の忍耐が幾度も救いの福音を告げ、悔い改めの機会を与えておられるのです。

 アモスの後も、多くの預言者が繰り返し遣わされますが、民が主の忍耐にある深いご愛を受け入れず、滅びへと歩んでしまうのです。

 やがて、9節のように主の審判が下っていくことになります。

9節 見よ。わたしは命じて、すべての国々の間で、イスラエルの家をふるいにかける。ふるっても、小石は地に落ちないようにする。 

 麦をふるいにかける時、麦だけが下に落ちて、より大きな石ころや木くずなどは上に残ります。つまり、神の救いにあずからない罪あるままの者たちは、取り除かれてしまうということです。

 それは、神様がすべての人を見ておられ、罪深く悔い改めない者が間違って赦されてしまうとか、運よくさばきを免れるといったことは決してないということです。

 10節に「わたしの民の中の罪人はみな、剣で死ぬ」とある通りです。彼らは勝手に、神のさばきの手は自分たちに及ばない。近づかないと思い込んでいます。その思い上がり、恵みを侮る歩みが、その身に滅びを招いてしまいました。

 私たちは、健全な意味で主を恐れる者でありたいのです。その偉大さ、圧倒的な力を知るならば、恐れを抱かないはずがありません。

 私たちは神様の力を小さく見積もっていないでしょうか?

 自分を「大きな者だ」と思い上がる人ほど、その人の神様は小さくなっているのだろうと思います。先ほどもお話したように、主の偉大さを知るほどに、私たちは自らの小ささに気づかされるはずです。私たちの頭で分かっていることは、意外に小さなわずかなことです。分かっているつもりに過ぎません。まだまだ知らない神の偉大さを、私たちは心を開いて学び続け、知り続けていくものでありたいのです。

同時に、私たちは神様の恵みや愛も、小さく見積もっているのではないでしょうか?

ですから、神が赦したと言われることも、自分では赦されていないと思ってしまうのです。あなた自身の小さな枠の中に、神様の恵みや愛を当てはめてはなりません。本来のあるがままの主の愛と恵みを教えられましょう

 さばきの言及の中にさえ、「根絶やしにされることはない」とのことばや、「ふるいにかける」とあるように、主にある者は救われることが示唆されています

 それどころか、イエス様のおことばによれば、水一杯でも主の弟子に与える人には、神様はその報いを忘れることがないのです。

 圧倒的な力を持ち、同時に圧倒的なほどあわれみ深い神様です。

 このお方のすべてが、私たちの想像を超える規格外です。主を高らかにほめ歌い、このお方の恵みの中に歩んで参りましょう。







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