コロサイ1章1-8節「会ったことがなくても」
この手紙は、その宣教者パウロが、ローマの牢獄から書いていた手紙です。いくらかの自由は与えられていたとはいえ、それでも囚われの身です。それにも関わらず、この手紙には悲壮感がありません。むしろ、ひたすらにコロサイの教会の人々への温かい愛と同労の友との友情にあふれています。
パウロは、人と人とを結びわせることをとても大事にしていましたが、まさにそのような姿勢がよく現れている書です。今日は、冒頭のあいさつの部分から教えられて参りますが、「人を結び合わせ、つながりを与えて下さる神様の恵み」を教えられます。
1.会ったことがなくても、主にあって結び合わされる
それゆえ、パウロは正しい福音理解に根ざして教会が形成され、皆の信仰が守られるようにと願ってこの手紙を書いたのです。ただし、パウロは「問題だらけでダメな教会だ」とレッテルを貼ることはありませんでした。
どんなに問題があろうとも、同じキリストを信じる尊い兄姉の群れであると受け止めていることが伝わってきます。1-2節をご覧ください。
実は、パウロはコロサイを訪れたことがないのです。コロサイの教会を見たことがありません。ですから、そこにいる人々をよく知らないのです。実際、4節を見ると、パウロは「あなたがたが抱いている愛について聞いたからです」と言っていますし、8節でも「私たちに知らせてくれた人です」などと表現していて、パウロがじかに見たものではなく、エパフラス等から聞いた情報しか持っていないのです。
つまり、この書は、ほとんど会ったことがない人々への手紙なのです。
会ったことがない人々です。しかも、様々な問題が起こっている教会です。
しかし、エパフロスが彼らのことを心から愛し、とても心配している教会であり、イエス・キリストを信じて歩んでいるという点で、パウロは彼らを認め尊重しているのだと分かります。それどころか、ここには会ったことがないとは思えないほどの、主にある親密さ、愛を感じられるのです。
私はこういう不思議な親密さを、神様を信じる前には経験したことがありませんでした。しかし、クリスチャンという人種は本当に不思議な人たちです(笑)。
先日持たれた福音自由教会の総会でも全国から代議員の方が来ます。そして、ランダムで6名ぐらいずつのグループに分かれる時間がありました。牧師先生方とはある程度面識がありますが、各教会の信徒の方とはやはりそこまで面識がありません。けれども、互いの教会のことを分かち合い、心を併せて一緒に祈ることができてしまうのです。主にあって結び合わされていることの恵み・喜びを感じます。不思議です。
また、クリスチャンは、なぜか、ほとんど会ったことがない人のためにお祈りするのが得意です。私自身も祈られ、祈ってきた者です。自分が救われた背景に、実に多くの自分の知らない方々の祈りがありました。知っているにしても、しばらく会っていない人々も。
つい昨日も、とある方のお証しを聴きました。10代まで通っていた教会があったのですが、洗礼を迫られた時に、逃げ出して他の教会に行ってしまったというのです。そして、行った先の教会で10年近くたってから洗礼を受け、さらにその数年後に献身して神学校に進んだ。実に、その神学校に入る時に、以前10代まで通っていた教会の牧師から、実は陰ながら献身のことも含めて祈っていたのだとご連絡をもらったそうです。嬉しくてつい伝えたくなったのだそうです。10数年もお会いしていないのに。しかも出てしまった教会なのに。
背後でそのように祈られていたのです。見えないところでの祈りに支えれ、神にお仕える者となったというお証しでした。
2.相手の存在を主にあって感謝する
また、パウロは3節からは、会ったことがないコロサイの兄姉の存在を神様に感謝しています。
この3~8節は、実は原語では一つの文となっています。ずっと、カンマで区切られ続いていく一つの文で、8節の最後にようやく文の最後を示すピリオドが打たれています。パウロはこのように一文が割と長い書き方をする傾向があります。
とはいえ、訳す時には一文で訳すには長すぎるので、細かく区切らざるを得ないのですが・・・。
ただ、3-8節という長い一文の主たる動詞は「感謝しています」とのことばです。
3-8節で、長くなってはいるものの、伝えたいことはコロサイの人々のことを神様に感謝しているということなのです。それが、パウロがここで伝えたいことです。
実際にパウロが何かをしてもらったわけではありませんよね?何かをしてくれたから、利益を得られたから感謝をしているのではないのです。
会ったさえないけれど、彼らが福音を受け入れ、そこに立って歩んでいることを!彼らがキリストの愛に生きて、他の人々を愛していることを!あなたがたが福音の実を結んでいることを!エパフラスがあなたがたのことを私に同労の仲間として教えてくれたことを!
コロサイの兄姉の存在、その歩みを心から主に感謝しています。私たちも先日は他の教会の支援のために献金をささげ、お祈りに覚えていました。そして、その報告を伺い、信徒の皆さんのお声を拝読し、とても励まされたのです。お会いしたこともない信徒さんたち。
けれども、同じ主を信じて励んでいる神の家族、兄弟姉妹です。主にあって彼らのことを受け入れ、喜び、応援し、そして献金をささげ支援したのです。そのような関係でありながら、彼らの喜びの声を聞くときに、私たち自身もわがことのように喜びました。
この感謝の心はキリストにある者の特権です。恵みです。
3.とりなしと推薦(友情)
7-8節に目を留めましょう。ここには目に見えない「友情」があふれています。
8節 御霊によるあなたがたの愛を、私たちに知らせてくれた人です。
読んでわかりますように、エパフラスにフォーカスし、彼のことを高く評価していますね。この「とりなし」や「推薦」の働きは決して小さくありません。
今後、エパフラスがまたコロサイを訪れることもあるでしょう。彼が手紙を書くこともあるかも知れません。その時に、パウロがエパフラスを評価し、認め、推薦しているということは非常に大きな意味を持ちます。
もしかしたら、エパフラスが色々指導しても、コロサイの人々が耳を貸さなくなっていたのかもしれません。しかし、当時の宣教の全体のリーダーでもあったパウロが、名指しで評価していることは、読者にとってエパフラスを認める根拠となったことでしょう。
私もまだ駆け出し牧師の頃に、お世話になっているベテランの先生方に教会に来ていただいた時に非常に助けられたことを思い出します。その際に、ある先生は私のことを「私の愛弟子をよろしくお願いしますね」と兄姉に言ってくださいました。
また、別の先生は「この教会とても良い教会だから、牧師も良い牧師だからぜひここに続けて来てください」と、新しい方々に声をかけてくださいました。
どちらの先生も、とても尊敬され信頼されているベテランの先生方でした。ですから、こうした「推薦」のことばによって、私は心底恐縮し、また、どれほど助けられたことかと思い出します。
自分を見れば駆け出しの若造です。そのような尊敬されている先生から「愛弟子」、「良い牧師」などと呼ばれるに値しない者であることは明白でした。あまりにも分不相応な者で、過分な推薦であることは自分がよく分かっていました。
しかし、本当にこうした配慮がどれだけ助けになることでしょうか。ご自分の功績をお話することも出来た事でしょう。けれど、そうしたことを一切なさらずに、若い者を立ててくださる姿勢に本当に教えられたものです。
本を出版した際などにも推薦のことばがあると違いますよね。その本に対する人々の最初に印象が全然違います。そして、このように「推薦する」ということは責任も発生するのです。それも覚悟の上でとりなし、推薦してくださったのです。
パウロもこの手紙において自分のことを強調することをせず、コロサイの人々を尊重し、またエパフラスを心から推薦しています。彼とコロサイの教会が良い関係で歩めるように配慮しているのです。大人の信仰者とは、こういう人の事を言うのだと教えられます。
私はその点、まだまだ未熟だと気づかされます。自分の考えをただ言うことばかり。自分が受け入れられたい、認められたいということが中心になる。そうではなくて、他の人を推薦し建て上げる愛、他の人々を結び合わせる配慮、自分の発言が何をもたらすことができるのか。見えない部分にある大切なことに、心を配る者となれるよう願うのです。
私たちは今日、目に見える聖書のみことばを味わってきました。しかし、見える文字にではなく、その奥にある愛と友情といった、いつまでも続く大切なものに心を留めたいのです。
短い挨拶文の中に、見えないけれども確かに存在する愛があふれています。人と人とを結び合わせる愛と友情がここに示されていて感動を覚えます。私たちも教えられるのです。
目に見える一時的なものに執着せず、このように尊く残る見えないもののために生きていきましょう。
自分のためになしたことはむなしく消えます。