*** 2/22(水)祈祷会 説教概略 ***
ヨブ記31章 「神の前の正しさとは」
31章では、3人の友人のことばが終わり、ヨブの最終弁論となっています。そして、ここでヨブは、非常に熱心に自分の正しさを弁明しています。多くの罪の具体例を列挙し、ヨブはそのいずれの罪も犯さず歩んできたのだと述べているのです。
1. 自身の正しさを誇って、義を主張するヨブ
1節で「私は自分の目と契約を結んだ」と始まります。その目が罪を犯さないようにと、目と契約を結んだのだということでしょう。特に人は視覚から入るものから誘惑を受けやすいものです。しかし、ヨブの徹底ぶりがここで分かりますね。
7-8節では「不正」についてです。7節に「私の手に汚れがついていたなら」と、自分が不正に手を汚してなどいないと潔白を主張しています。
9-12節では不倫の罪、姦淫の罪についての潔白を語ります。続いて13-15節では、しもべや召使いに対する態度の問題。自分より立場が低い人に対して、横暴な態度を取っていないということです。
16-23節では、「社会的弱者に対する非情の罪」について。自分は教えに従い施しもしてきたということでしょう。
24-28節では、富に対する執着の問題です。ヨブはその辺りも自分は問題ないと言うわけです。
さらに29-31節では、人の不幸を喜ぶ姿勢の問題、32節では外国人への配慮。
そして33-34節では、アダムを引き合いに出し、罪を隠して告白しないという問題について言及します。38-40節では、貧しい小作農から搾取するような問題について。
ヨブはこうして、思いつく限りの様々な罪を列挙し、自分はどれも守り、正しく行っていると言います。
つまり、罪ととことん戦って勝利して歩んできたということです。私たちもその姿には敬意を払い、罪から離れることを心に刻みたいと思います。特に、罪を犯してもそれを隠さず、主に告白して生きること。これは大事にすべきですよね。
2. 神の前の「正しさ」とは?
けれども、ここで立ち止まって考えてみたいのです。ヨブの言い分は、どこか違和感を覚えます。なんとなく、律法学者たちの言い分に似ているようにも見えるのです。それが、ヨブがどこかで自分の正しさを自らの「誇り」とし、自分の正しさを救いの根拠にしているように見えるからです。
主の前に正しいとは、ただ罪を犯さない消極的な人生ではなく、主にあってみこころに生きていくことでしょう。神と人を愛していく道です。
それは、罪を犯さないよう何もしない道より、ずっとより高度なものです。そして、同時により価値のあるものです。主は、人にそれを期待しているのです。ただし、キリストなしには不可能なのではないでしょうか。
人は、自分の正しさをもって義とされるのではありません。
主の恵みとあわれみによって、また、御子の尊いいのちの犠牲によって、人は本当の意味で神の前に義とされるのです。
人がどんなに自分は正しく、教えを守っていると言っても、自己満足に過ぎないのだと気づかされます。愛のわざは、愛の主に教えていただき、全面的に助けていただくことなしには不可能なのです。「私はルールを守っています。教えを行っています。」という安易な正しさに立つことなく、主のあまりにも大きな愛の前に立ち、絶えず教えられる心を大事にしましょう。
罪を犯さないように生きることも大事ですが、失敗を恐れずに主の愛のわざに一緒に参与していく者とならせていただきましょう。