東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヨブ記31章 「神の前の正しさとは」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/02/22

ヨブ記31章 「神の前の正しさとは」

*** 2/22(水)祈祷会 説教概略 ***

ヨブ記31章 「神の前の正しさとは」

 31章では、3人の友人のことばが終わり、ヨブの最終弁論となっています。そして、ここでヨブは、非常に熱心に自分の正しさを弁明しています。多くの罪の具体例を列挙し、ヨブはそのいずれの罪も犯さず歩んできたのだと述べているのです。


1. 自身の正しさを誇って、義を主張するヨブ

 1節で「私は自分の目と契約を結んだ」と始まります。その目が罪を犯さないようにと、目と契約を結んだのだということでしょう。特に人は視覚から入るものから誘惑を受けやすいものです。しかし、ヨブの徹底ぶりがここで分かりますね。

5-6節では「偽り」についての潔白さが語られています。特に6節では、「神は私を正しい秤で量られればよい」とまで言っています。これも私はとても言えません。

7-8節では「不正」についてです。7節に「私の手に汚れがついていたなら」と、自分が不正に手を汚してなどいないと潔白を主張しています。

9-12節では不倫の罪、姦淫の罪についての潔白を語ります。続いて13-15節では、しもべや召使いに対する態度の問題。自分より立場が低い人に対して、横暴な態度を取っていないということです。

16-23節では、「社会的弱者に対する非情の罪」について。自分は教えに従い施しもしてきたということでしょう。

24-28節では、富に対する執着の問題です。ヨブはその辺りも自分は問題ないと言うわけです。
さらに29-31節では、人の不幸を喜ぶ姿勢の問題、32節では外国人への配慮。

そして33-34節では、アダムを引き合いに出し、罪を隠して告白しないという問題について言及します。38-40節では、貧しい小作農から搾取するような問題について。

ヨブはこうして、思いつく限りの様々な罪を列挙し、自分はどれも守り、正しく行っていると言います。

もちろん、それはとても立派です。特に33節に注目していただくと、ヨブは「罪を隠す罪」に触れていますね。罪を犯さないように歩んでいるし、万が一何か罪があっても、隠さず悔い改めると言いわけです。実のところ、ヨブは子どもたちが犯した罪のためにも神様に祈り、赦しを願って欠かさず全焼のいけにえをささげていました

つまり、罪ととことん戦って勝利して歩んできたということです。私たちもその姿には敬意を払い、罪から離れることを心に刻みたいと思います。特に、罪を犯してもそれを隠さず、主に告白して生きること。これは大事にすべきですよね。


2. 神の前の「正しさ」とは?
 けれども、ここで立ち止まって考えてみたいのです。ヨブの言い分は、どこか違和感を覚えます。なんとなく、律法学者たちの言い分に似ているようにも見えるのです。それが、ヨブがどこかで自分の正しさを自らの「誇り」とし、自分の正しさを救いの根拠にしているように見えるからです。

 ヨブが正しく歩めたとしても、実にそれもまた主の恵みとあわれみなのだという視点が、この時のヨブには欠けていたのかも知れません。自分は正しく歩んできたのだ!という誇りが根底にあるので、なぜ、こんなに正しく歩んでいるのに苦しめられるのか?試練を通らされるのか?と納得がいかないのです。

 罪から守られ正しく歩むことも、神様の助けなしには不可能なのだと考えているのなら、ここまで自分の正しさを主張しなかったのではないでしょうか。実に3人の友人のことばによって、結果としてヨブの最大の欠点が浮き彫りになったのかも知れませんね。

 ヨブの拠り所が、いつの間にか「自分の正しさ」になってしまっていないでしょうか。

では、主が喜ばれる「正しさ」とは何でしょうか?罪を一つも犯さないように生きる歩みは確かに立派です。でも、何一つ罪を犯さずに生きることこそが、神様の前に「最も正しい」ことなのでしょうか? 

ある先生が面白い考察を書いておられます。マネキンを例にとって言われます。マネキンは罪を決して犯さない。何も言わないし、何も行動しないし、意志がないので、罪を犯すことはない。そのマネキンのようになれば、主のみこころにかなっているのだろうかという問いを投げかけておられます。

 マネキンは罪も犯しませんが、積極的にチャレンジすることもしません。もし、マネキンのように何一つ「積極的な愛のわざもしなかった」とするならば、それは主の前に相応しい歩みなのでしょうか。

 「これも、あれも守っています」ではなく、無限の可能性を持つ愛のわざに積極的にチャレンジする道を主は喜ばれるのではないでしょうか。教えを守るために生きることと、愛するゆえに行動していくこと。目に見える行動が同じ場合でも、心(動機)が違います。

 罪を犯さずに生きるという点はある意味わかりやすい。けれど、主の前に正しいとはそういうことではないのです。むしろ、失敗することがあっても、神のみこころに積極的に生きていこうとする者を、主は喜ばれるのではないでしょうか。

 主の前に正しいとは、ただ罪を犯さない消極的な人生ではなく、主にあってみこころに生きていくことでしょう。神と人を愛していく道です。

 それは、罪を犯さないよう何もしない道より、ずっとより高度なものです。そして、同時により価値のあるものです。主は、人にそれを期待しているのです。ただし、キリストなしには不可能なのではないでしょうか。

 イエス様の教えに目を向けましょう。

マタイ540-41節 5:40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。5:41 あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。 

 仕方なく1ミリオン行きました。だから正しい。その主張は、神様の本来意図する愛からは離れています。イエス様によれば、愛とは、1ミリオンどころか2ミリオン愛をもって、自分の意志で一緒に行こうとするものです。

43-44節でもこうありますね。5:43 『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

 つまり、「憎まなかった。悪口を言わなかった」ではなく、敵を積極的に愛し、迫害者のために祈れと。ヨブは確かに、律法に教えられているので、やもめや孤児、異邦人などに施しをしたでしょうし、弱者から搾取もしなかった。

 けれども、元気な姿でヨブを励まそうとしてやってきて、結果ヨブを責めてしまった3人の友人たちを愛したでしょうか?

 わざわざ時間を割いてくれている彼らに感謝をし、彼らが主をより豊かに知ることができるよう導こうとしているでしょうか。確かに、彼らを呪ったり、ひどいことを言ったりはしてないでしょう。

 でも、自分を責め立ててしまった3人の友人たちを愛し、彼らのために祈ったのでしょうか。実に、ヨブ記の最後で、主から促されて、ヨブは彼らの3人のためにとりなしの祈りをします。それによって、この3人の友人は神様のさばきを免れるのです。つまり、神様の促しのゆえに、ヨブはそのとりなしの祈りができたのであって、主の促しなしには、その祈りさえもできなかったのかも知れません。

 イエス様は、律法を振り返りながら、あなたがたはこう教えられてきたが、わたしはこう教えると・・・積極的な愛の道を教えられました

ヨブには、この点はまだまだ見えていなかったのです。その意味では、ヨブはこの時代においては正しい者と言われたが、神のみこころの完全さの前には、やはり「不完全な者」であったと言えるでしょう。

人は、自分の正しさをもって義とされるのではありません。
主の恵みとあわれみによって、また、御子の尊いいのちの犠牲によって、人は本当の意味で神の前に義とされるのです。

ヨブにはやはりイエス様という神の救い主が必要なのだと分かります。

 人がどんなに自分は正しく、教えを守っていると言っても、自己満足に過ぎないのだと気づかされます。愛のわざは、愛の主に教えていただき、全面的に助けていただくことなしには不可能なのです。

「私はルールを守っています。教えを行っています。」という安易な正しさに立つことなく、主のあまりにも大きな愛の前に立ち、絶えず教えられる心を大事にしましょう。

 罪を犯さないように生きることも大事ですが、失敗を恐れずに主の愛のわざに一緒に参与していく者とならせていただきましょう。
 



引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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