東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 第一ヨハネ1章1-4節「私たちの交わりとは」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/02/27

第一ヨハネ1章1-4節「私たちの交わりとは」

*** 2/26(日)主日礼拝 説教概略 ***

第一ヨハネ1章1-4節「私たちの交わりとは」

 今年の秋に、サバティカルと呼ばれる研修休暇を少し長めにいただくことを役員会で了承していただきました。計画では、カーフェリーで九州に入り、車で九州(長崎)のキリスト教関連施設めぐるなどしたいと思っています。帰りは、中国・近畿地方から北陸を経由して戻って来ようと考えています。おそらく車で2000キロ以上走ることになるでしょう。

 ただ、私と妻にとって、ドライブはとても良い交わりの時間でもあります。みことばから教えられたこと、新しい発見。祈りが聞かれた喜び。人々や教会の成長の感謝、将来のビジョンなど、結構話ができる機会です。

 ぜひ、若い皆さんもただラーメンとかディズニーの話だけで終わらず、みことばから教えられていること、神様の恵みのみわざ。そうしたことを分かち合う交わりを持って欲しいと願います。デートでも、聖書の分かち合いをすると、本当にその人の人柄や信仰が現れて、お互いの深いところを知る機会になるのでとてもお勧めです。何を話していいか分からない時は、最近教えられていること、主のすばらしいみわざを分かち合ったらいいですね。

 本日教えられることも、私たちの交わりがキリスト中心であるということです。単なる仲良しサークルではなく、世間話だけで終わるものではない教会の交わり。まさにいのちのことば、キリストを共有する交わりです。そのことをヨハネの手紙から教えられて参ります。

 

1. ヨハネの手紙とは
 まず、この手紙の著者はヨハネの福音書と同じ人。ゼベダイの子ヨハネだと考えて良いでしょう。時期としては割と遅い時期に書かれたものです。1世紀の終わり、90年頃ではないかと思われます。そうすると、イエス様と一緒に行動していた時代から60年近く経過しています。だいぶ経っていますね。ですから、相当なおじいちゃん。80代か、イエス様と同年代だったなら90歳ぐらいでしょうか。だいぶ高齢になってから書かれた手紙だと言えます。

 もう他の使徒たちは殉教し、多くの仲間も天に召されている。そうした悲しみも刻みながらこの年まで生かされてきた。喜びも悲しみも経験してきたヨハネが愛を込めて書いていると思うと、もう少し興味を持って読めるのではないでしょうか。

 そして、誰に対してどんな目的で書かれたのでしょうか。まず、はっきりしていることは、イエス様を信じている人たちに対して書かれたということです。しかも、ヨハネはとても親しみを込めて書いています。それはヨハネの読者への呼びかけから分かります。例えば、21節を見ていただくと「私の子どもたち」と呼びかけていますね。実は、この手紙では、「子どもたちよ(テクニオン)」とか、「幼子たちよ(パイディオン)」という呼びかけが沢山出て来てます。もちろん、読者が小さな子どもたちだったわけではありません。

これは、愛するわが子にするような親しい呼びかけだということなのです。ユダヤ教の教師(ラビ)がその生徒を、このように呼ぶことがよくあったそうです。そして、何よりもヨハネは高齢です。多くの兄弟姉妹たちは彼よりも若かったことでしょう。それで、主にある可愛い子どもたち、あるいは孫たちよ!という感覚で親しく呼んだのです。

おじいちゃんヨハネが、可愛い我が子たちを深~く愛おしむような思いで書いたのです。特に、その愛する子たちが、誤った教えに流されたり、この世の価値観に流されそうになったりしているのを知って、心配しました。それで、「いのちのことば=イエス様」への信仰に堅く立てるように書いているのですね。

 

私たちの教会でも80代の方々多くいらっしゃいますよね。若い皆さんのことを本当に温かく見守ってくださっているのはありがたいですね。心配し気遣って祈っていてくださいます。そのような愛の中で育てられ、歩んで行けるとはとても幸いなことではないでしょうか。

 

2.イエス様とともに歩んだ生き証人 
 
 さあ、おじいちゃんヨハネはどのようなメッセージを語っているのでしょう。1-2節。

1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
2 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。 

 ヨハネは、自分たちが聞いて、じっくりと見て、触れてきたことを証しし、伝えたいのだと始めています。噂話ではなく、本当に自分たちが体験してきた真実を伝えているのです。それは、「いのちのことば」、「永遠のいのち」でした。このいのちとは??

 もちろんイエス・キリストのことです。

 ヨハネは、そのいのちは「初めからあったもの」で、それについて旧約聖書から聞いてきたものであり、そして自分たちの時代に現れてくださったので、私たちは見て触れることができたのだ!!と言います。

 ここに聖書全体の流れの要約がありますね。イエス様はこの世界よりも前、初めから存在されました。その救い主の預言を旧約聖書から聞いてきた。そして、その方がなんと人となられ、救い主として現れてくださった。ヨハネたちはこの方を見つめるように過ごし、復活の主にも触れてきた。ゆえにこのお方を証しし、伝える時代となっている。

 

 このヨハネこそは、イエス様のごく身近で一緒に生活し、一緒に歩んだ「生き証人」でした。イエス様の奇跡やみことば、十字架の死と復活。どれも身近で見て来たので、どうしても語らずにはいられなかったのです。そのイエス様が、あまりにも素晴らしく、この方によって人生がまるで変わったからです。まさに「いのち」を得て、すべてが変わったのです。

本田路津子さん:ゴスペル歌手。

元々はお茶の間で人気の歌手でしたが、人と比べられ自信を失い、歌うことに喜びが持てずにいたそうです。しかし、そんな時にクリスチャン男性(クリスチャンホーム育ちのまっすぐな人だった)と知り合い彼を通して主を信じ、やがてその人と結婚しました。

彼女はやがてゴスペル歌手として活躍しますが、彼女を変えたことばは「恥はわがもの、栄光は主のもの」とのことばだそうです。

賛美は「うまさ」を披露し、「さすが」と言われるためのものではない。歌う者ではなく、歌い手を造り歌わせてくださる主、賛美を受ける主が素晴らしいのだと実感したと言います。その時から、歌うことに純粋な喜びが与えられたと言うのです。

主と出会って大きく変えられたお一人です。賛美を通して、人々にこの喜びを知って欲しいと願っているのです。

ヨハネもごく普通の漁師でした。毎日魚に関心を向ける日々。けれど、イエス様から「わたしについて来なさい」と召されました。魚ではなく、人間を獲る漁師になるのだと。こうして、イエス様の弟子となって歩み始めた日々は、今までとは全く異なる「いのちの日々」でした。それで、ヨハネは神とのこの交わりによって、本当の意味で主イエス様にある喜びを知って欲しいと願い、こうして伝えているのです。

伝えたものがある人は、いつでも揺るぎない強さを持っていますね。

 

3. 三位一体の神の交わりの中に歩む
 ですから、3節にこうありますね。

3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。 

 「交わり」ということばは、原語で「コイノーニア」ということばです。教会ではよく耳にすることばですね。「コイノーニア」は「共有する、一緒に持つ」という意味があるのです。交わりって、「挨拶をしました。」終わり!ではないですよね。そうではなくて、時間や場所を共有して一緒に過ごします。嬉しかったこと、悲しかったこと、楽しいことも、祈って欲しいことも分かち合って共有しますよね。色々なものを共有し、一緒に味わって歩んで行くのが「交わり」です。

 そしてヨハネが一番共有したかったものは何でしょう。

 イエス様です。父なる神様とイエス様との交わりです。 

 ここには御霊ということばはありませんが、彼の著した福音書はもちろん、この手紙の34章でも、この交わりのことは御霊によって分かるのだと語られています。御霊は「キリストの御霊、キリストの心」とも呼ばれ、神様の深い思いを私たちに共有してくださるお方です。

 父、御子、御霊の三位一体の神様が、私たちをその愛の交わりの中に招いてくださるのです。この手紙の416節には「神は愛なり(です)」という有名なみことばがあります。神が愛であると言えるのはなぜでしょう?

 神様ご自身が「三位一体の神」でいらっしゃるからです。

 人も天使もまだ存在しない初めの時から、神様は三位一体でいらっしゃったので、三者が別の人格を持ちながらも、互いに常に愛し合い一つとなるお姿があったのです。

 このお方のアイデンティティ自体が、「交わりの神」でいらっしゃる。この中に私たちが加えられた時に、本当の愛を知り、その交わりの喜びを知るのですよね。

 

4.救いの喜びは、神と人との交わりにある 
 ですから、救われるって、ただ罪赦され、天国行けますではなく、この交わりに加えていただくことに、より大きな意義があるのです。

 私たちの救いとは、天国に行ける確約はもらったけれども、それまでは孤独にさみしく耐え忍びましょう!というものではないのです。「罪と滅びの檻から解放されたけれど、どこにも行き場がなく天国までは居場所もないです」というものではないのです。

 解放されたと同時に、神様にハグされ、キリストにあるいのちの交わりにしっかりと招かれているのです。

 救いとは、罪赦され滅びなくなったという消極面で終わらず、「天の交わり」を仰ぎ見るようにして、今のこの日々の中でも、主とともに歩む喜びを大胆に味わっていけるものなのです。ヨハネの言う「永遠のいのち」は、死んだ後にようやく始まるものではありません!信じたその瞬間から始まる永遠かつ豊かなキリストの交わりなのです。

 

そして、キリストによって結び合わされた者同士もまた、嬉しいことも悲しいことも分かち合いながらともに歩んできます。天の御国がすばらしいのは、きらびやかで苦しみがないからではなく、むしろ、この交わりが完成するからです。

もはや、何の妨げもなく、邪魔されることなく、ただただ、三位一体の主との永遠の交わり、兄弟姉妹との永遠の交わりの喜びにあふれるのです。

4節にこうあります。

4 これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。

ヨハネが「私たちの喜び」と言う場合に、もちろん読者も含めてのことです。この手紙の目的は、伝えて満足することではありません。キリストにあるこの交わりがこれを読むすべての人に広がり、喜びが完全になるため、満ちあふれるためだったのです。

 

神様はこの手紙を通して、あなたに語っておられます。

3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。
4 これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。

 主が与える救いとは、単に救いの身分や立場を与えるという話ではありません。あるがままのあなたを、愛してやまない主との交わりなのです。主は招かれます。「わたしたちの深い愛の交わりの中に来なさい。そこにいて、喜びも悲しみも分かち合いともに歩もうではないか」と。

 万物の造り主を私たちは、アバ父、天のお父様と呼べる。神の御子イエス様は私たちをしもべではなく「友」と呼んで、いのちまで与えてくださっている。御霊は私たちの心に住み、キリストの心、神のみ思いをいつも伝えてくださる。なんという救いの交わりでしょうか。
 





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