東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヨブ記32~37章 青年エリフ
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/03/02

ヨブ記32~37章 青年エリフ

*** 3/1(水)祈祷会 説教概略 ***
ヨブ記32~37章 「青年エリフ」

 321節「この三人はヨブに答えるのをやめた。ヨブが自分を正しいと思っていたからである。」と始まります。ヨブが自分の正しさの主張をどうやっても曲げず、ヨブの心も開かれなかったので、3人は答えることをやめました。

 そこで満を持して登場するのが、青年エリフです。
2 すると、ラム族のブズ人バラクエルの子エリフが怒りを燃やした。彼は、ヨブが神よりも自分自身のほうを義としたので、ヨブに向かって怒りを燃やしたのである。

 この感覚はなんとなく分かります。自分を正しいと主張してやまないヨブに対して、「あなたは神なのか!?」と、怒りを抑えられなくなったのです。また、3節を読むと、説得力を持たない3人の友人に対しても「不甲斐ない」と怒りを燃やしているのです。
 エリフはイライラしつつ、彼らのやり取りが落ち着くのを待っていたようなのです(4-5節)。待っていた理由については、6節でこうありますね。

6節 ブズ人、バラクエルの子エリフは答えて言った。 私は年が若く、あなたがたは年をとっている。 だから私はわきに控え、遠慮して あなたがたに私の意見を述べなかった。 

 ただし、こちらは建前や礼儀であって、彼の本音、心にあるものは9節でしょう。

9節 だが、年長者が知恵深いわけではない。老人が道理をわきまえているわけでもない。・・・

 10節で「だから私は言う」と続きます。こんな感じの登場です。これが小説であれば、いよいよ「真打ち登場」という感じがします。名探偵が最後に登場し、真実を解明していくかのような流れです。では、エリフは「真打ちになり得たのでしょうか。それとも「前座」に過ぎないのでしょうか?? 

 確かにエリフは、他の3人と違っています。

 3人の友人たちは、ヨブは過去の罪が原因で苦しんでいるのだと指摘し、悔い改めよと迫りました。それは正しくありませんでしたね。しかし、エリフの主張によれば、ヨブはむしろ、苦しみのゆえに罪を犯してしまっていることが問題だと言います。この視点は前の3人よりも重要です。過去の罪がどうこうより、今、苦しみのゆえに罪に囚われていることに目を向けるべきなのは、私たちにおいても重要な視点です。

 さて、エリフは336節で、まず自分もヨブも神の前にただの粘土で、造られた者に過ぎないことを伝えています。336節 実に、神にとって、私はあなたと同様だ。私もまた粘土で形造られた。 それなのに、あなたは高ぶっていると。8-11節では、ヨブの言い分が取り上げられています。自分は正しいのに、神は私を責める口実を見つけ、敵と見なし、私を苦しめているのだと。それに対してエリフは、12-13節でこう言います。

12節 聞け。私はあなたに答える。 このことであなたは正しくない。 神は人よりも偉大なのだから。 13節 なぜ、あなたは神と言い争うのか。 自分のことばに、 神がいちいち答えてくださらないからといって。 

 神様は実際には色々な方法で答えておられるが、あなたが気づいていないのだとも言います。14節。神はある方法で語り、 また、ほかの方法で語られるが、人はそれに気づかない。このようにして、自分の無実を主張し続けるヨブの姿勢こそ高慢だと言うわけです。それで神様は、その高慢の罪で、人が滅ぶといけないので、高ぶりから離れさせて滅びないようにされるのだと語ります。17-18節。

17節 神は、人間がその悪いわざを取り除くようにし、 人から高ぶりを離れさせ、18節 人のたましいが滅びの穴に入らず、 そのいのちが投げ槍で滅びないようにされる。 

 また、神様は人を砕き、へりくだらせるために、病や痛みを与えるのだと言います。

19節 神は、床の上で痛みをもって人を責め、 いつまでも続く骨の病によってお叱りになる。 

 確かにこれらはその通りの面がありますね。私たちも痛い思いから学び、へりくだることができる場合があります。痛い思いをしたからこそ、その後の歩みが守られることがあります。そしてまた、エリフはヨブと同じように、神と人の間を橋渡しする「仲介者が必要である」とも語ります。23-24節 

23節 もし彼のそばに、一人の御使いが、 千人に一人の仲介者がいて、 その方が彼に代わって彼が誠実であることを告げてくれるなら、24節 神は彼をあわれんで仰せられる。 「彼を救って、 滅びの穴に下って行かないようにせよ。 わたしは身代金を見出した」と。 

 このように様々な面で、エリフは年配の3人の友人よりも適切に、また教えられることを語っています。ただ、そのようなエリフにも問題がありました。

 3329-33節をご覧ください。ここにエリフの高慢さが現れているように思います。彼は神の代弁者のように語り、神様が彼ほど誠実な者はいないと認めたヨブに、33節で「私に聞け。黙れ。私はあなたに知恵を教えよう」との上から目線なのです。

 他の友人たちと同様、ヨブの痛みに寄り添って祈るという愛が欠けているようにも思います。そしてまた、ヨブがへりくだりさえすれば、この苦しみが去るかのように彼は教えていますが、それも安易な発想です。そこには、人の考えをはるかに超える主のみこころがあることを、どこまでも私たちは尊重すべきでしょう。

少し先に行きましょう。3537章では創造主である神様の偉大さを語ります。エリフはその神の偉大さを考えると、心が震え、恐ろしくて離れたくなるほどだと言います(371節)。そのような偉大な神の前に、人は小さな者であると語るのです。
357節 あなたが正しかったとしても、神に何を与えられるのか。 神は、あなたの手から何を受けられるのか。 3714節以降でもこのように語っていきます。 

14節 ヨブよ、これに耳を傾けよ。    神の奇しいみわざを、立ち止まって考えよ。15節 あなたは知っているか。       神がどのようにこれらに命じ、その雲に稲妻をひらめかせられるのかを。16節 あなたは知っているか。濃い雲のつり合いを、 知識の完全な方の不思議なみわざを。

実に、この話の展開は、38章以降の神様のことばを知る者ならば、そのための「序章」のように見えますね。ただ、エリフが語ると高慢にも見えてしまいます。さて、エリフの立ち位置とは何なのでしょうか。先に登場した3人については、最終章で、神の怒りが向けられています。神様について確かなことを語らなかったからです。主は彼らの言動を指して「愚行」とまで言われています(428)

ところが、エリフについては、神様は怒りも向けず、愚行ともおっしゃいません。その意味では、前の3人以上に多くの真理が語られ、主のみこころに近かったとは言えますね。しかし、そのようなエリフのことばであっても、不完全な人間のことばなのです。「神のみこころそのもの」ではありませんでした。いよいよ登場した歯切れの良い若者エリフも、主の偉大さが示されるために遣わされた「前座」「引き立て役」のようです。本人の意志とは無関係に、主のためにいくらか道を備える役目になってはいます。

真打ちは、神様以外にはあり得ませんね

ですので、ヨブはエリフが語った時にではなく、主ご自身がお語りになった時に、心砕かれ、へりくだっていくのです。人が人を変えることは難しいのですが、神様は人を新しく造り変えることがおできになります。人にはできないことが神様にはできるのです。

私たちは、この神様を信じていくのです。

私自身も牧師として、色々な方と関わる中で、無力さを感じることがあります。神様のみこころをお伝えしようとしますが、届かないと感じることが多々あります。結局、最後は主のみことばです。そして、主が働いてくださらなければ何も起こらないのです。そして、それを信じられるから、安心なのです。

 説教者ほどそれを痛感します。割とうまく語れたという時こそ、意外に反応が薄いことがある。逆に、思うように語れなかったのではないかと、打ちのめされ、説教後に祈らざるを得なかった時の方が、不思議と人々が教えられている。 私たちは責任を負い過ぎていないでしょうか? 私たちができない時、むしろ主が働かれるチャンスと考えませんか。

 日曜日の礼拝も、現代のクリスチャンにとっても「安息の日」です。私たちが奉仕をして礼拝をささげているように見えますが、一番働いておられるのは、私たちではない。司会者、奏楽者、牧師ではない。主ご自身なのです。私たちが安らぐことができるよう、主が仕えてくださって、私たちの霊肉を強めてくださいます。

 場所を備え、教会への道を守り、体を整えて礼拝に参列させてくださる。交わりのうちに強め、足りない奉仕の破れを繕い、主ご自身がお語りくださっている。 私たちが必死に神様を代弁しなくても、主のために頑張らないと!と肩に力を入れずとも・・・

私たちができない=主が大いに働かれる時であることを知りましょう。 

主の力を知る者こそ、主の安息を享受できるのです。



 

引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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