東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 詩篇119篇97-104節「みことばに親しみ、みことばに生きる(1)」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/03/08

詩篇119篇97-104節「みことばに親しみ、みことばに生きる(1)」

*** 3/5(日)主日礼拝 説教概略 ***

詩篇119篇97-104節「みことばに親しみ、みことばに生きる(1)」

 早いもので3月となりました。今年度最後の月です。今年度、私たちの教会では、「受ける者から、与える者へ」というテーマで取り組んできました。

第二コリントの97節「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。」

 このみことばを年間聖句として歩みました。皆さんご自身、今年度4-3月を振り返っていただく時、このみことばにどのように向き合い、取り組んで来られたでしょうか。「受ける者から与える者へ」いくらでも踏み出せたでしょうか。

 さて、次年度を祈り求めていく中で、「みことばに親しみ、みことばによって生きる(みことばに生きる)」というテーマを掲げ、総会資料に記載させていただきました。年間聖句としては、今日の説教箇所のすぐ後、105節のみことばです。

「あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。」

 4月に入ってからお分かちしようかとも思ったのですが、4月最初は受難週、イースターと続きますので、少し早めに分かち合い備えていこうとしています。さ来週には、105節以降から今日の続編として教えられる予定です。

 さて、皆さんに質問をしますので、少し考えてみて欲しいのですが・・・
 クリスチャンの中で、ディボーションや自主的な聖書の学びを通して、「自分で自分を養えているクリスチャン」の割合、どれぐらいだと思いますか?日曜・祈祷会のメッセージ頼みではなく、日々の生活でみことばによって養われ、成長している人です。

 海外の著名な牧師が、肌感覚だけれども全体の10%程度ではないかとおっしゃっているそうです。また、自分で自分を養えているだけでなく、「他の人々を導き育てることができるクリスチャン」はどれぐらいか?というときに、全体の12%ではないかということでした。

 とても考えさせられました。宣教のために大切なことは、牧師が増えることではなく、クリスチャン一人一人ががみことばに親しみ、みことばによって生きるようにされていくことではないかと思わされます。

 何より、みことばによって自分が豊かにされることは嬉しいですよね。礼拝以外においても、信徒同士でみことばを楽しく学び合い、お互いに養われるようになるのは、一つの理想だと思うのです。こうしたことも念頭に置きつつ、今日のみことばに聞いて参りましょう。

 

1. みことばを愛し、思い巡らす

 この詩篇119篇は、日本語の「いろは歌」のような構造になっていることで知られています。各段落の書き始めの文字が、ヘブル語のアルファベット順に並んでいます。そして、最も長い詩篇です(なんと176節!11章を目安に読む人は心が折れそうな長さ?)
ただ、全体として言いたいことは明確です。今日の説教タイトルそのものと言っても良いでしょう。「みことばの豊かさを知り、みことばによって生きる」ことです。97節ご覧ください。

97節 どれほど私は あなたのみおしえを 愛していることでしょう。それがいつも 私の思いとなっています。 

このみことばを味わい、皆さんはどのようなことを感じるでしょうか。主のみおしえを愛していると著者は言います。「みおしえ」と訳されたことばは「トーラー」ということばで、119篇だけで25回も登場しています。繰り返し語られているとわかります。

そしてこの「トーラー(みおしえ)」が、いつも私の思いになっていると言います。「私の思い」とは、英語ではmy meditationと訳されます。それは、一日中、み教えを思い巡らしながら生活しているということです。

神様のみおしえは、ただ読んで終わるものではありません。そのことばを受け入れ従う時に、その人にみことばによるいのちが注がれ力づけられるものです。読んで終わり、聞いて終わりではなく、私たちの血となり肉となる時、はじめてみことばのいのちの力がそれぞれを支えているのだと体験的にわかるのです。

主のみおしえが、私たちの思いの中にイキイキと生きるように、慕い求め思い巡らしていきましょう。

それは103節でも豊かに描写されていますよね。

103節 あなたのみことばは 私の上あごになんと甘いことでしょう。 蜜よりも私の口に甘いのです。 

英語では夫婦の間、愛する子どもに対して「スイート・ハニー」などと表現したりしますね。直訳では「甘いハチミツ」(笑)。ここでは、神様のおことばが、まさに「My Sweet Honey」であるというわけです。

皆さんは、毎日、愛する主とハグをするようにして、その甘いみ声に聞き入っているでしょうか。このように97節と103節で、どちらも感嘆詞が使われ「なんと愛おしいのでしょう!」と慕い求めいます。そして、この二か所の感嘆文に囲まれるようにして、98-102節では、「なぜ、そんなに主のみことばが愛おしいのか」、その理由が語られています。


2.みことばから与えられる賢さ 

  

まず98-99節では、「みことばを知る者の賢さ」が語られていますね。

 聖書のみことばを知る人は「賢い」のだと語られます。嬉しいですね?決して気休めではないのです。本当なのです。

 みことばを学ぶほどに、この世界の大切な真理を知る者とされていきます。自分の成長になり、人の役に立てる者になれるという実感があるのが聖書の学びです。世界の初めと終わりのこと、善悪の判断、人の罪の問題、その罪の結果。愛、真理、恵み、誠実さ、友情、働き方、家族の在り方、病や苦しみへの理解。生きていく上で避けては通れない、あらゆることについて神様から教えていただける宝の宝庫がみことばですよね。

 聖書に影響を受けて多くの小説が生まれ、クラシック・賛美曲が生まれ、絵画・建築が生まれました。様々な法やルールが生まれました。思想・哲学、社会学、倫理学、経済学、コミュニケーション学、多くの学問に影響を与えてきました。本気で聖書を学べば、本当に賢くなれます。この世界にある恵みを存分に受け取り、それを生かせる賢い人になれるでしょう。

 それらは人間の教えとは決定的に違っています。どう違うのでしょう?
 98節では「それがとこしえに私のものだからです」とあります。一時的なものではなく、主の教えは「永遠」なのです。主のみことばは失われたり、廃れたり、急に変わったりしないのです。永遠に信じる者とともにあり、信じる者を助けてくれる賢さとなります。

 また、99節では「あなたのさとしが私の思いだからです」とあります。つまり、「神様の教え・さとし」を、そのまま私の思いとできる特権だということです。私は振り返ってみると、子育てについてみことばに大いに助けられたと感じます。みことばをそのまま、私たち親の思いなのだとして、ぶれることなく伝えられるからです。全部自分の考えで教えていたら、だいぶ不安で、ブレブレだっただろうと思います。皆さんも、そういう部分が少なからずあったのではないかと思います。神のさとしを、私の方針・思いとして伝えられるのです。

 

3.みことばによる見極めの力 

 

 さて、この賢さをそのまま伝授いただけるので、物事を見極める目も養われてまいります。

100節 私は 老人たちよりも見極めができます。 私があなたの戒めを守っているからです。

 普通に考えれば、自分よりずっと年配の方々は知恵と経験が豊富です。物事について良い見極めができることでしょう。けれども、主の戒め、主のみ教えを私の考え、私の思いとできるのならば、少なくとも主の教えに歩んでいない老人よりも、ずっと大切なことの見極めができるようにされるというわけです。

 人の経験値よりも、主から来る知恵により頼む人は、真理を見抜く目、物事の本質を見極める目に優れます。「人の賢さは神の愚かさにも及ばない」という表現が示す通りです。神の教え・さとしに生きるのならば、すぐ目の前だけで判断せず、その道が将来どこにつながって行くのかを見極めることができます。霊的な目を主からいただけるでしょう。それゆえに、101-102にあるように、道を外れずに、良い道、いのちの道を歩めるのです。

 

最後の104節は全体のまとめ、要約部分となっています。こうして主のみおしえに親しみ、この道に立って歩むのならば、私たちは賢さを得て、守られるのです。

勉強が苦手で自分は賢くないと考えている方があれば、だまされたと思って聖書を一生懸命学んでみてください。語られたことばを生活の中に適用してください。驚くほどの豊かな知恵、賢さ、本質を見抜く目が与えられていきます。 

孤児院で多くの子たちを救い育てたジョージ・ミュラーという素晴らしい信仰者がいます。ただ、彼の若い頃は、勉強こそ非常にできたけれど、とても罪深い生活をしていたと言います。その転機となったのが、ある家庭集会でした。彼は友人に誘われ参加していました。そして、その集会の主催者がワーグナーという人でしたが、ジョージは最初、彼をやや見下していたようです。自分の方がはるかに賢く多くを知っていると!ところが、ワーグナーの祈りを聞いて衝撃を受けたと言います。ワーグナーの祈りは幼子のように優しいシンプルな祈りでした。けれど、なぜかジョージは圧倒され、感動し、その祈りのすばらしさに心動かされました。この人を前にしたら、自分はずっと「小さな者」のように思えたのです。

実は私も似たような経験をしています。イエス様を信じる以前は、学力によって人を判断するような「愚かさ」を抱えていました。けれど、クリスチャンの世界に入って驚きました。本当にみことばに親しんでいる方たちの賢さに!!その豊かさに!!主を知って、主から深遠な恵みの知恵をいただいている謙遜な信仰者たちが、自分よりずっと賢く見えました。神の前に自分を小さくしている人々なのに、私の目には私こそが無知で非常に小さな者に思えました。

 

今朝も、主から語られています。 97節 どれほど私は あなたのみおしえを愛していることでしょう。 それがいつも 私の思いとなっています。 

主のみおしえを私の思いとするように愛し慕うならば、主の賢さ、主の見極めの目を、私たちは恵みとしていただけます。世的に知識を持つ者というよりも、もっと大切な深い真理に目が開かれて、魅力ある者となりたいと願いませんか。主のみことばを愛し親しんでいきましょう。


 





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