東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 第一ヨハネ1章5-10節「光の中を歩もう」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/03/13

第一ヨハネ1章5-10節「光の中を歩もう」

*** 3/12(日)主日礼拝 動画配信 ***

第一ヨハネ1章5-10節「光の中を歩もう」

 光の中を歩もうというテーマですが、「光の中を歩む」って何なのでしょうか。

 罪を一つも犯さず、きよく正しく生きることでしょうか。

 確かに、そうできるのなら光の中を歩んでいると言えるでしょう。

 けれど、神のことばである聖書は、人は誰もが生まれながらに罪人であると教えていますよね。ですから「私にはまったく罪がない、闇など一切ない」と言うことは、正直とは言えず、かえって「闇の中を歩んでいる」のではないでしょうか。

 とあるドラマにおいて、いわゆる法的な罪を犯してしまった若者がいました。しかし、彼の親は権力者でした。そのため、その親は息子をかわいがるあまり、その犯罪を権力によってもみ消してしまったのです。

 その結果、本人は自分の過ちと向き合い、心から悔いて改めたり、償ったりする機会を奪われてしまったことになります。結果として、それは本人を苦しめてしまいました。悪いことをしたのに、隠蔽され、何の謝罪も償いもしないのです。後悔の念、自責の念ばかりが残りました。罪を認めるのではなく、ないもののようにごまかしたために、ずっと心は闇の中を歩むことになったのです。

 悔い改め、謝罪し償い、赦され解決した場合、やはりその罪から解放され徐々に楽になりますよね。闇から光の中へと引き出されるからです。ですから、「光の中を歩む」とは、罪が一つもないと隠して歩むことではなく、光によって自分の罪の闇を照らしていただき、闇から光へと変えられていく道なのですよね。

 本当の喜びというものは、罪を隠して生きるところには生まれません。むしろ本気で罪を悲しみ涙し、イエス様の十字架の赦しを心から感謝して受けるところに生まれます。ロイド・ジョーンズは、憂鬱顔のクリスチャンが多い理由は、自分の罪に本気で涙していないゆえだと言いました。十字架の死があるからこそ、復活の栄光があるように、罪の悔い改めがあるからこそ、赦しの喜び、罪からの解放の恵みを受け取れるのです。

 ここでヨハネが伝えていることは、「自分に闇はない」とごまかしたり、それはどうでも良いと開き直ったりして生きるのではなく、闇があることを素直に認めて神との光の交わりに生きなさい!ということです。みことばに聞いて参りましょう。

 

1. 霊肉二元論の問題

ヨハネは5節のところで、まずはっきりと伝えたいことを先に述べています。

5 私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。 ヨハネが伝えたいこと。それは、神様は光であって、闇が少しもないということです。「神には闇がない」という言い方ではなく、「神の中には、全く(少しも)闇がない」という言い方をしています。 神様には、わずかな汚れも、わずかな闇も存在しない。そういうお方だからこそ、唯一、私たちを完全に救うことがおできになるのです。そして続く6節で、ヨハネはこのように語ります。

6 もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。 

ヨハネはなぜ、この点を手紙の読者たちに強調しなければならなかったのでしょうか。

それは、当時、罪深い闇の生活を送りながら、平然と「私は神と交わりがある」と言って正当化している人たちがいたからです。特に「霊肉二元論」といった間違った考えが流行っていました。「霊肉二元論」の考え方は、「霊はきよいのだけれど、肉体は汚れを持つものなので、体が罪を犯してしまうのは仕方がないのだ!死んで初めて、霊が汚れた肉体から解放されるのだ!」という考えでした。肉体は魂を宿す「単なる器」に過ぎないから、肉体がどんな行動を取ろうとも、魂は何の影響も受けないのだと主張したのです。

これは欲深い人間にとっては「都合の良い考え方」ですね。どんなに悪いことをしても、それは私の心や魂の問題ではない!肉体が悪いのだ!勝手に肉体がしているのだ!とある種の開き直りです。

しかし、神様はどういうお方なのでしょう。完全に光であって、闇が全くないのです。神の子イエス様のことを考えてみましょう。イエス様は肉体を持ちました。肉体が悪なら、イエス様の心がどんなにきよくても、罪を犯したはずです。ところが、イエス様は肉体を持って人として歩まれましたが、一つも罪がなかったのです。霊魂と肉体は統合体であって、切り離して考えるものではないのです。イエス様は、マタイ15:18でも、このようにおっしゃいました。「しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。」 

イエス様は心がきよいからこそ、その行いもきよいのです。逆に、私たちの心に闇があるので、それが外に出てきて人を汚しているのです。ですから、あれこれ言い訳をして罪の問題をごまかしたりするような歩みは、神様の光、神様の真実の中を歩むものではないと言います。8節でこうあります。

8 もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。10節でもこう語られています。

10 もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。 

 罪を犯していない、犯したことなどないと正当化するならば、「人はみな生まれながらに罪人である」と聖書全体を通しておっしゃる神様を「偽り者」だと断定することになってしまいます。


2. 罪を認めて、神との交わりの中に
 
 また一方で、光の中を歩むということを、一つも罪を犯さない道だと考えるならば、「私たちには無理だ」と絶望するしかないでしょう。「神様と親しい交わりを持つ人とは、一つも罪を犯さない人」だと言うのならば、私たちはあきらめるしかないですよね。けれども、そうではないのです。罪・闇がある私たちを、赦しきよめ、光に歩ませてくださる愛と真実の神様なのです。

 7節に本当に大きな「慰め」があります。「希望」があふれています。

7 もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。 

 闇などないとごまかさず、「闇があります、あなたの光で照らしてください」と神様に近づけるのです。いつでも赦しの神様のもとに身を寄せるなら、イエス様の血潮によってきよめられると言うのです。「罪はあります」と正直に認めることが、真理の道、光の道なのです。

ある子が他愛もない会話の中で話してくれたことがあります。自分は心の中では「ごめんね」とか「ありがとう」という気持ちがあるのに、それを言うのが苦手なんだと。

「でも、それは実は大人もみんなそうだよ」と私は言いました。そして、思ったのは、こうやって「自分はそれがなかなか言えないんだ」と正直に分かち合ってくれたことが、とても素晴らしいこと、立派だなと思いました。それを言えない自分を認めているからです。

牧師として、色々と教えてあげようと思っている私でしたが、私自身がこの子から教えられました。謝罪できない、感謝を言えない自分を認めているのは立派です。特に非を認め、謝るということが、大人こそできないように思います。けれども、それこそが闇を抱えて生きていくということではないでしょうか。

イエス様を信じたからと言って、罪を犯さなくなるわけではありません。「赦された罪人」と表現されますが、まさにその通りなのですよね。ある先生が、クリスチャンは工事現場の看板のようであるべきだとおっしゃいました。「私はただいま工事中です。大変ご迷惑をおかけしております」と頭を下げて歩むべきだと。クリスチャンは罪が無くなり完璧になった人ではありません。赦された罪人です。少しずつ神様による工事が進行中です。神様による工事を拒めば、修理修繕がなされず、かえって私たちは苦しくなるでしょう。

ですから、光の中を歩む者は、罪を犯さなくなった者ではなく、罪を悔い改めながら歩んで行く者です。神様は光の中に私たちを招き、御子の尊い血潮によって、私たちをきよめてくださるのですから、罪ある自分と正直に向き合っていきたいですね。

なお、7節にある「きよめる」という動詞は、「~し続ける」という現在進行の用法です。イエス様のもとに身を寄せるならば、主が私たちをきよめ続けてくださるのです。神様の光の交わりの中に歩むからこそ、主イエス様の血潮で、絶えずきよめられ続ける。これこそ光の道です。


3. 罪から解放される喜びへ

 「罪」を隠したままでいるならば、神様との交わりを妨げてしまいます。ダビデ王の証しが、私たちにそれを教えてくれています。彼は自分の忠実な部下ウリヤを殺してまで、罪を隠蔽していた時、彼は長い間神様との親密な交わりがありませんでした。その時に心情を詩篇の中で告白しています。323-4節です。

詩篇32:3 私が黙っていたとき私の骨は疲れきり私は一日中うめきました。32:4 昼も夜も御手が私の上に重くのしかかり骨の髄さえ夏の日照りで乾ききったからです。セラ 

 長い闇の日々です。罪を犯したことより、罪を告白しない日々であったため、神様との交わりが絶たれている暗黒の日々でした。罪を犯したこと自体も問題ですが、それ以上に心が神様から離れている状態が長く続いたことが、この時のダビデにとってより深刻な問題でした。しかし、預言者を通しての主のことばに触れ、ダビデは心の底から悔い改めました。悲しみから喜びへと変えられています。同じ3210-11節 

10節 悪しき者は心の痛みが多い。しかし 主に信頼する者は 恵みがその人を囲んでいる。 
11節 正しい者たち 主を喜び 楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ 喜びの声をあげよ。 

 「悪しき者は心の痛みが多い」そうですよね。悪いことをして、うまく行っているように見えても、罪悪感とそれに対するさばきに内心では苦しんでいきます。それに対して、11節のように主に罪を赦された、正しい者はどうでしょう!

「主を喜び 楽しめ」。なんという表現でしょうか。「主を喜び、楽しめ」とは!

 そして、本日の第一ヨハネ19節でもこのように戻りましょう。

9 もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。 

 罪を告白した時に、強く責められ、人格を否定されるなら、誰が告白できるでしょうか。この赦しときよめがあるから、私たちは罪を告白できるのですよね。ですから、赦しの神様を信じて、この光の交わりに歩みましょう。




 



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