第一ヨハネ1章5-10節「光の中を歩もう」
光の中を歩もうというテーマですが、「光の中を歩む」って何なのでしょうか。
罪を一つも犯さず、きよく正しく生きることでしょうか。
けれど、神のことばである聖書は、人は誰もが生まれながらに罪人であると教えていますよね。ですから「私にはまったく罪がない、闇など一切ない」と言うことは、正直とは言えず、かえって「闇の中を歩んでいる」のではないでしょうか。
とあるドラマにおいて、いわゆる法的な罪を犯してしまった若者がいました。しかし、彼の親は権力者でした。そのため、その親は息子をかわいがるあまり、その犯罪を権力によってもみ消してしまったのです。
その結果、本人は自分の過ちと向き合い、心から悔いて改めたり、償ったりする機会を奪われてしまったことになります。結果として、それは本人を苦しめてしまいました。悪いことをしたのに、隠蔽され、何の謝罪も償いもしないのです。後悔の念、自責の念ばかりが残りました。罪を認めるのではなく、ないもののようにごまかしたために、ずっと心は闇の中を歩むことになったのです。
悔い改め、謝罪し償い、赦され解決した場合、やはりその罪から解放され徐々に楽になりますよね。闇から光の中へと引き出されるからです。ですから、「光の中を歩む」とは、罪が一つもないと隠して歩むことではなく、光によって自分の罪の闇を照らしていただき、闇から光へと変えられていく道なのですよね。
ヨハネは5節のところで、まずはっきりと伝えたいことを先に述べています。
ヨハネはなぜ、この点を手紙の読者たちに強調しなければならなかったのでしょうか。
それは、当時、罪深い闇の生活を送りながら、平然と「私は神と交わりがある」と言って正当化している人たちがいたからです。特に「霊肉二元論」といった間違った考えが流行っていました。「霊肉二元論」の考え方は、「霊はきよいのだけれど、肉体は汚れを持つものなので、体が罪を犯してしまうのは仕方がないのだ!死んで初めて、霊が汚れた肉体から解放されるのだ!」という考えでした。肉体は魂を宿す「単なる器」に過ぎないから、肉体がどんな行動を取ろうとも、魂は何の影響も受けないのだと主張したのです。
これは欲深い人間にとっては「都合の良い考え方」ですね。どんなに悪いことをしても、それは私の心や魂の問題ではない!肉体が悪いのだ!勝手に肉体がしているのだ!とある種の開き直りです。
しかし、神様はどういうお方なのでしょう。完全に光であって、闇が全くないのです。神の子イエス様のことを考えてみましょう。イエス様は肉体を持ちました。肉体が悪なら、イエス様の心がどんなにきよくても、罪を犯したはずです。ところが、イエス様は肉体を持って人として歩まれましたが、一つも罪がなかったのです。霊魂と肉体は統合体であって、切り離して考えるものではないのです。イエス様は、マタイ15:18でも、このようにおっしゃいました。「しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。」
イエス様は心がきよいからこそ、その行いもきよいのです。逆に、私たちの心に闇があるので、それが外に出てきて人を汚しているのです。ですから、あれこれ言い訳をして罪の問題をごまかしたりするような歩みは、神様の光、神様の真実の中を歩むものではないと言います。8節でこうあります。
ある子が他愛もない会話の中で話してくれたことがあります。自分は心の中では「ごめんね」とか「ありがとう」という気持ちがあるのに、それを言うのが苦手なんだと。
「でも、それは実は大人もみんなそうだよ」と私は言いました。そして、思ったのは、こうやって「自分はそれがなかなか言えないんだ」と正直に分かち合ってくれたことが、とても素晴らしいこと、立派だなと思いました。それを言えない自分を認めているからです。
牧師として、色々と教えてあげようと思っている私でしたが、私自身がこの子から教えられました。謝罪できない、感謝を言えない自分を認めているのは立派です。特に非を認め、謝るということが、大人こそできないように思います。けれども、それこそが闇を抱えて生きていくということではないでしょうか。
イエス様を信じたからと言って、罪を犯さなくなるわけではありません。「赦された罪人」と表現されますが、まさにその通りなのですよね。ある先生が、クリスチャンは工事現場の看板のようであるべきだとおっしゃいました。「私はただいま工事中です。大変ご迷惑をおかけしております」と頭を下げて歩むべきだと。クリスチャンは罪が無くなり完璧になった人ではありません。赦された罪人です。少しずつ神様による工事が進行中です。神様による工事を拒めば、修理修繕がなされず、かえって私たちは苦しくなるでしょう。
ですから、光の中を歩む者は、罪を犯さなくなった者ではなく、罪を悔い改めながら歩んで行く者です。神様は光の中に私たちを招き、御子の尊い血潮によって、私たちをきよめてくださるのですから、罪ある自分と正直に向き合っていきたいですね。
なお、7節にある「きよめる」という動詞は、「~し続ける」という現在進行の用法です。イエス様のもとに身を寄せるならば、主が私たちをきよめ続けてくださるのです。神様の光の交わりの中に歩むからこそ、主イエス様の血潮で、絶えずきよめられ続ける。これこそ光の道です。
そして、本日の第一ヨハネ1章9節でもこのように戻りましょう。