*** 3/8(水)祈祷会 説教概略 *** ※先週分になります
ヨブ記38章 「問う者から問われる者へ」
これまで、ヨブと4人の友人が、苦しみの意味について、神様のみこころと関連づけて問答が繰り広げられてきました。それぞれに正しいと思うことを言い合い、もちろんそこに、多くの正しいこと、真実も含まれていました。特に最後に語ったエリフのことばは、主のみこころに近く、色々な意味で備えとなっていたとお話しました。けれども、不完全な人間の言い分でもありましたから、ますます神様ご自身がお語りになることへの期待が膨らんで参りました。この38章で見守っておられた主がようやく語られます。1節。
「勇士のように腰に帯を締めよ」とは、「わたしと論じ合おうとするならば、心して腰の帯をギュッと締めて臨むが良い!」ということでしょう。これまでのヨブの友人たちのようではない!ということです。このように神様と論じ合おうとする時、実に、ヨブ自身が神様から背筋を正され、問われていく者となっていくのです。
私たちは求道者の頃や、信じて間もない頃は、とにかく疑問だらけでした。神様にあれこれ質問し、問いかけることが多かったのではないでしょうか。まずは自分の言い分を神様にぶつけることの方が多かったように思います。けれでも、主との交わりの中でこのお方を人格的に知るにつれて、問う者から問われる者へと変えられて行くのがキリスト者の成長なのですよね。自分の考えを強く主張して「これはどうなんですか!!」と問い続ける中で、徐々に気づかされていきます。自分は正しくなかったということに。そして、いつも主のお心が正しく愛に満ち、深く完全なものであると。主の偉大さを知る中で、主が本当に良い方であると知る中で、あれこれ言い分を述べる以上に、主のおっしゃることに耳を傾け、お従いすることの大切さを学んでいくのです。人は造り主、全能なる神様の御前に、本来、問うよりも、問われる者であるのではないでしょうか。
4節 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。分かっているなら、告げてみよ。
鋭い質問です。造り主である主が、この世界を造られた時、あなたはどこにいたのか、答えてみよと言うのです。ヨブ記のテーマである「苦しみ」というものも、ヨブの時代に突然生まれたものではありませんね。それらの起源に遡って論じ合うことは妥当な事ですが・・・ヨブはその時代にはまだ、存在すらしていませんでした。
「世界の始めに、あなたはどこにいたのか。わたしはこの世界を造っていたのだが。その時、この世界の創造をあなたは手伝ったのか。それをその目で見たのか」
そのように、主は問いかけておられるのです。そして、5-6節でこう加えます。
神様と天使たちが、この世界の誕生、人が造られ存在するようになった時、これを非常に喜び歓喜したことも、あなたは知らないのではないか。それをあなたは知っているのかとも問われています。 創世記1章31節に「神はご自分の造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった」と語られています。神様は御子と御霊とともにこの世界という最高傑作をお造りになり、それを非常に良かったと評し、天使たちもみなこれらを喜びお祝いしたのです。私たちはそのようにして造られ、生ける者となり、神の愛と祝福を受けるために存在しているのです。
問題は、私たちたちが勝手な思い込み、無知の上に言い分を並べて、神の声に聞こうとしないことではないでしょうか。私も心騒ぐ時、自分の様々な考え、つまり自分の声で騒がしくなり、主の御声が聞こえてない時があると気づかされます。私たちは神様を問い正す者ではなく、主が与えてくださる良きものに感謝し、苦しみの中にある時も、主に信頼して、心を静かにして主の声に聞く者とならせていただきましょう。