東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヨブ記38章 「問う者から問われる者へ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2023/03/15

ヨブ記38章 「問う者から問われる者へ」

*** 3/8(水)祈祷会 説教概略 *** ※先週分になります

ヨブ記38章 「問う者から問われる者へ」

 これまで、ヨブと4人の友人が、苦しみの意味について、神様のみこころと関連づけて問答が繰り広げられてきました。それぞれに正しいと思うことを言い合い、もちろんそこに、多くの正しいこと、真実も含まれていました。特に最後に語ったエリフのことばは、主のみこころに近く、色々な意味で備えとなっていたとお話しました。けれども、不完全な人間の言い分でもありましたから、ますます神様ご自身がお語りになることへの期待が膨らんで参りました。この38章で見守っておられた主がようやく語られます。1節。

1節 主は嵐の中からヨブに答えられた。 

穏やかな光が射して主が答えられたということなら「あなたはわたしの愛する子」なんて声が聞こえてきそうです。しかし、「嵐」ですから、神様の恐ろしさや厳粛さを感じさせますね。人々が、頭を地につけてひれ伏しそうです。私たちが偉そうに判断する立場にはなく、私たちはひれ伏し感謝すべき者であると教えられます。そして言われたことは何でしょう。2節。

2節 知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。

 「この者」とは誰でしょうか。1節で「ヨブに答えられた」とありますし、この後もヨブに対して「答えてみよ」と言われますから、ヨブのことでしょう。ヨブはこれまで散々「主と論じ合いたいのだ」と主張してきました。まさに、主がその望みに応じてくださったということです。しかし、その神様からの第一声は「知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。」という問いかけでした。主は確かに、ヨブに答えてくださいました。けれども、その答えは、ヨブに対する逆質問でした。それはヨブ自身が何者で、神様が何者でいらっしゃるのかを知るようにされるものでした。

私たち自身、問われているのではないでしょうか。知識もないのに、あれこれと言い分ばかりを述べて、神様のみこころに対して盲目になっててしまう私たちではないでしょうか。主の摂理を暗くしてしまうのは、神様ご自身のはずがなく、罪深い人間たちの「自分こそ正しい」という高慢さであると言えるでしょう。

そして、そのことに気づかされ、砕かれ、主を知っていくことが、信仰者の成長ではないかと思います。神様と論じ合うということの意味を、ヨブ自身、分かっていなかったことが、明らかにされていきます。続く3節に目を留めましょう。

3節 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。 

「勇士のように腰に帯を締めよ」とは、「わたしと論じ合おうとするならば、心して腰の帯をギュッと締めて臨むが良い!」ということでしょう。これまでのヨブの友人たちのようではない!ということです。このように神様と論じ合おうとする時、実に、ヨブ自身が神様から背筋を正され、問われていく者となっていくのです。

私たちは求道者の頃や、信じて間もない頃は、とにかく疑問だらけでした。神様にあれこれ質問し、問いかけることが多かったのではないでしょうか。まずは自分の言い分を神様にぶつけることの方が多かったように思います。けれでも、主との交わりの中でこのお方を人格的に知るにつれて、問う者から問われる者へと変えられて行くのがキリスト者の成長なのですよね。自分の考えを強く主張して「これはどうなんですか!!」と問い続ける中で、徐々に気づかされていきます。自分は正しくなかったということに。そして、いつも主のお心が正しく愛に満ち、深く完全なものであると。主の偉大さを知る中で、主が本当に良い方であると知る中で、あれこれ言い分を述べる以上に、主のおっしゃることに耳を傾け、お従いすることの大切さを学んでいくのです。人は造り主、全能なる神様の御前に、本来、問うよりも、問われる者であるのではないでしょうか。

ただ、神様は決してヨブを責めてさばこうとしているのではありません。その証拠に、ヨブはこの主の語りかけを聞くことを通して新しい次元へと信仰が引き上げられていくように見えます。さらに深い神様のご計画へと目が開かれていくのです。むしろ、主はヨブの目を開かせようと、これらの問いを投げかけておられると言えるでしょう。

私たちもまた、主から問いかけを受ける時、それはまた一歩、主の深い恵みの中で育てられて行くチャンスなのだと受け止めたいですよね。

4節 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。分かっているなら、告げてみよ。 

 鋭い質問です。造り主である主が、この世界を造られた時、あなたはどこにいたのか、答えてみよと言うのです。ヨブ記のテーマである「苦しみ」というものも、ヨブの時代に突然生まれたものではありませんね。それらの起源に遡って論じ合うことは妥当な事ですが・・・ヨブはその時代にはまだ、存在すらしていませんでした。

「世界の始めに、あなたはどこにいたのか。わたしはこの世界を造っていたのだが。その時、この世界の創造をあなたは手伝ったのか。それをその目で見たのか」

 そのように、主は問いかけておられるのです。そして、5-6節でこう加えます。

5節 あなたは知っているはずだ。 だれがその大きさを定め、 だれがその上に測り縄を張ったかを。6節 その台座は何の上にはめ込まれたのか。 あるいは、その要の石はだれが据えたのか。 

 5節の最初の一文。以前の訳では「あなたは知っているか」で始まっていましたが、ニュアンスとしては、「あなたは当然に知っているはずですよね」ということでしょう。誰が世界の様々なものの大きさ決めたり、長さや深さを定めたりしてその礎を設置し、配置したかを、あなたはもちろん目撃した上で、十分に知っているということですよね?との皮肉でしょう。つまり、あなたは、当然に世界の成り立ちなどを全部分かった上で、わたしと議論しようとしているのですよね?と。あるいはそれさえ知らずに議論しようとしているのか。と突き付けておられるのです。

 通常、対等な議論をしようとするならば、前提となる情報を持っていないと議論にさえなりませんよね。例えば、私は子どもたちが好きなK-POPアーティスト(ミュージシャン)について、会話に入ろうと試みますが、あまりにも知識がないので、語り合うというよりは、結果的にただ彼らに教えてもらうばかりになるわけです。議論できるだけの知識がないからです。

 神様と苦しみの理由について議論し合えるほど、人はこの世界のことを知らないのではないでしょうか。神様はアブラハムに、満点に輝く夜空を見せて言いました。「星を数えられるなら数えなさい」と(創世記15:5)。

 残念ながら、数えきれるはずがありません。現代においてさえ、星の正確な数は誰にもわかりません。それが人間です。星の数ひとつ、満足に数えられない。正解を知らない人間と、その数どころか、すべての星の位置も成分も、その過去も未来もすべて知っておられる神様と・・・。対等に議論できる関係ではないことは明白なのです。

 そして、私たちは知りません。神様がどれほどこの世界を豊かに造られ、それを愛し、そこにいる者たちを喜んでくださっているのかも・・・。7節にこうあります。

7節 明けの星々がともに喜び歌い、 神の子たちがみな喜び叫んだときに。

 神様と天使たちが、この世界の誕生、人が造られ存在するようになった時、これを非常に喜び歓喜したことも、あなたは知らないのではないか。それをあなたは知っているのかとも問われています。

 創世記131節に「神はご自分の造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった」と語られています。神様は御子と御霊とともにこの世界という最高傑作をお造りになり、それを非常に良かったと評し、天使たちもみなこれらを喜びお祝いしたのです。私たちはそのようにして造られ、生ける者となり、神の愛と祝福を受けるために存在しているのです。

 問題は、私たちたちが勝手な思い込み、無知の上に言い分を並べて、神の声に聞こうとしないことではないでしょうか。私も心騒ぐ時、自分の様々な考え、つまり自分の声で騒がしくなり、主の御声が聞こえてない時があると気づかされます。私たちは神様を問い正す者ではなく、主が与えてくださる良きものに感謝し、苦しみの中にある時も、主に信頼して、心を静かにして主の声に聞く者とならせていただきましょう



引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *