詩篇119篇105-112節「みことばに親しみ、みことばに生きる(2)」
2週前のメッセージで、同じく詩篇119篇のこの直前の個所から語られました。おもに「みことばに親しむ」ということが中心テーマでしたね。神様のみおしえを愛し、いつも自分の心に思いめぐらして、自分の思いになるかのようにするということでした。
イエス様は、悪魔の誘惑を受けた時にこうおっしゃいましたね。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのみことばによって生きる」と。肉体の健康のために食事が必要なように、私たちの心と魂のためには、神のみことばという食事が必要なのです。昨年11月に、私は胃が痛んで、1週間ちょっと、固形物を食べない生活をせざるを得ませんでした。本当に力が入らず、フラフラになりました。声を出すのも大変なぐらいでした。食事の大切さを思い知らされました。
同じように、みことばという糧なしには、私たちの心や魂は、本当に力が出ずにフラフラになってしまうのです。日照りのように渇き切ってしまいます。私たちは、みことばによって生きるのです。そこに愛と真理があるからです。
2023年度4月から、本日開いている105節のみことばを年間聖句としました。
詩篇119:105 あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。
この聖句をぜひ皆さん心に留めながら、日々を歩んでいけたらと思います。そのためにもぜひ、聖書を読み続けましょう。3日坊主上等です。3日で終わって4日目できなかったなら、また5日目から3日間やってみましょう。
今、WBC(野球の世界大会)にて、ペッパー・ミルパフォーマンスというものが流行っていますね。元々は、ペッパー・グラインダーというそうですが、そこには「粘り強く、コツコツ」という意味があります。私たちもあきらめず、読めない時があってもまた読む。またみことばに帰るということを大事にしていきましょう。
1年通したら結構読めてることでしょう。読めないことがあっても、また読めばいい。その考えでとにかく粘り強く主のみことばを求めていきましょう。
でも、振り返って考えてみますと、私自身も苦しかった時や悩んだ時に与えられ、励まされたみことばが、その時の経験とともに心に残っているのですよね。
みことばだけが残っているのではなくて、みことばによって慰められたなぁ、強められたなぁ、みことばに従って良かった!という記憶・経験とともに残っているのです。
つまり「ことばだけ、文字だけ」の記憶ではない。自分の心とみことばが紐づけられて、心に宝物のようにしまわれているわけです。
二男が先週土曜夜に胸が痛いと言い出しました。様子を見ましたが、日曜朝になっても痛い、呼吸が苦しいと言います。急遽日曜朝に妻が病院に連れて行くと、肺に穴があいている「気胸」という病であると診断され、緊急入院をしました。
その日は礼拝に加え協議会総会の前日です。しかも3年ぶりに対面。役員会書記として臨む総会でした。おそらく私にとってこの数年で最も過酷で忙しかいタイミングでした。
「主よ なぜですか。なぜ、この時ですか?」との思いが沸き上がりました。「せめてあと1週間前とか後ではダメでしたか?」と。しかし、その思いは、自分の都合を最優先する思いだと気づきました。息子の危機に「主よ、息子を守り、少しでも楽にしてください」との祈りより先に、「なぜ今なのですか」との叫びが出てしまう自分に愕然としました。
そして、この時、私以上に不安の中にいた妻のためにどれだけ祈れたでしょうか。妻も尋常ではない忙しさでした。二人の子の卒業式の週です。二人の子の誕生日の週です。私が出張で留守になる週です。毎日府中の病院まで通い、その間2つの集会もありました。疲れ果てるのは目に見えていました。
それでも、疲労困憊で帰宅した私に、妻を労わる余力がないのです。
自分こそが最も大変で疲れているのだと思っていました。
元気で余裕がある時ならいいのです。でも、そうではない時、私たちの本性が出ます。
ただ、そのような私の頭の片隅に、主のみことばがちらつくのです。ピリピ2:4のみことば。「それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい」 「自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい」・・・グサリときました。
でも、みことばを知っていて良かったと思いました。
イライラしそうな自分に冷静さを与えてくれました。
このみことばが示されなければ、極限の疲労でお互いにぶつかってしまったでしょう。
しかし、みことばの光に照らされ、顧みる心を主はくださいました。敵どころか、自分の家族さえ愛せていない自分に気づき、「主よ、あなたの愛を私に注いでください」とへりくだることができたからです。
この週だからこそふさわしかったのです。「みことばに生きる」とはどういうことか。それを語る私自身に、主がまずお示しになったのです。
二男は二男で、苦しく不自由であまりにも退屈な入院。でも、それゆえに聖書を読めました。ルカの福音書を最初から最後まで通読できたと言います。主のなさることは不思議です。みことばに生きる時、暗闇も暗くないのです。皆さんの祈りの力をも体験できました。卒業式はあきらめていましたが、医師も驚くほどの速度で肺が回復し、木曜退院、金曜の卒業式に出席できました。
一見暗く見える目の前の足元。しかし、主はみことばによって一歩一歩、良い道に導いてくださいます。
そして105節の後半に「私の道の光です」ともあります。
「私の足のともしび」とセットになっている表現で、みことばによって歩むという大きな意味では同じです。それでも、若干の違いが示されているようにも思います。
足元だけではなく、その行くべき道を照らすということです。それは「行き先を教え示してくれる」ということが含まれているでしょう。神様から「この道を行きなさい」と光で示されるのです。それこそ、みことばに従う道です。神の国とその義を第一に求める道です。
112篇にこのような告白があります。
112 私はあなたのおきてを行うことに心を傾けます。いつまでも終わりまでも。
みことばを思うだけでなく、みことばの通りに行い、その道に歩んで行くということです。これを神様は願っておられます。いつでも、いつまでも大事にすべきことはシンプルにこのことです。「みことばは素晴らしいと思っています」というだけの人と、みことばに生きる人の違いについて、少し考えてみましょう。
病気でお医者さんのもとを訪れた二人の人。1人の人は、お医者さんの指導を聞いてその通りに生活を改善しようと決めました。また、出された薬を指示通りに飲むことにしました。もう1人の人は、お医者さんの指示に対して「さすがお医者さん、正しいと思います」と言いましたが、生活を変えたくないので実行しませんし、薬も飲みませんでした。では、皆さん、病気が改善していくと考えられるのはどちらの人でしょうか。もちろん最初の人ですよね。指導を聞くだけでなく、その指導が正しい、良いと思うだけでなく、その通りに従って生活を改めて行ったからです。お医者さんを信じて、その薬を指示通りに飲んだからです。
二人目の方は、良いとは思っても、その通りだと思っても、何も従わず、その通りにしなかったので病は少しも改善しませんでした。
聖書のことばが、こうして語られ、皆さんの耳に声や音が入るかも知れません。それでも、そのことばを心で受け入れなければ、それは意味を持ちません。イエス様を救い主だと信じるだけでなく、イエス様を私の主であると信じることが必要です。私の主であるとは、私たちがすべてにおいてこの方に信頼してお従いしていくということを意味しています。
神様のみことばは語られるだけではなく、聞いて受け入れられ、そのことばに生きることで初めて、その人のうちに「いのちの泉」を生み出すのです。