東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヨブ記38-39章「世界を造り、保持しておられる主」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/03/23

ヨブ記38-39章「世界を造り、保持しておられる主」

*** 3/22(水)祈祷会 説教概略 ***

ヨブ記38-39章「世界を造り、保持しておられる主」

 創世記で神様はアブラハムに空の星を見なさいと言われました。イエス様は群衆に、野の花や空の鳥を見なさいと語りかけました。神様によって造られたこの世界がいかに壮大で、いかに緻密に造られているのか。また、造られたこの世界が持続しているのも、主が豊かに管理し、保っていてくださることをお示しになり、ご自身を現わされました。

 ですから、この世界を学び知る時、そこにある神のみわざを発見します。神様はここで、ヨブに対して問いかけます。「この世界の成り立ちや仕組み。わたしと論じ合おうと言うからには、当然に知っているのだろう、答えてみよ」と。

 質問形式で「神と人との知恵比べ」です。

 皆さんも、38章から41章にかけて語られている、神様からの問いかけを味わってください。答えられるだろうかと。そもそもこれらの問いを出すことも、少なくとも私には到底できないと思わされます。3816-17節に目を留めましょう。

16 あなたは海の源まで行ったことがあるか。深淵の奥底を歩き回ったことがあるか。

17 死の門があなたに現れたことがあるか。死の陰の門を見たことがあるか。

 当然ながら、行ったことも見たこともない世界です。到底及びもつかない、想像すら難しい世界の話ではないでしょうか。

 18節後半で「そのすべてを知っているなら、告げてみよと」と問われますが、その一部すらよく分かりません。21節でも「当然あなたはよく知っているはずですね?」との神様からの皮肉めいた問いかけ(アイロニー)があります。

 同時に、神様は、ご自分がこれらを管理なさっているのだと明言してもいます。
 22節で、「雪の倉」「雹の倉」の話が出てきますが、23節にあるように「これらは、わたしがとどめているのだ」と、神様が徹底して管理なさっていることが伝わってきます。そのあとも、この世界の光の管理、風の管理、水の管理などもすべて、主が最高のバランスでなさっていることが分かります。ゆえにこの世界が豊かに保たれているのです。

 31-32節では、宇宙の天体の話にまで及びます。地球のみならず、果てしない広がりの宇宙全体を、神様が事細かに管理されているのです。ただ、ヨブの時代にはこの質問の意味さえよく分からない時代だったかも知れません。現代において、観測技術が非常に進歩し、もう少し宇宙の仕組みがわかるようになりました。例えば32節後半のところ。

 牡牛座をその子の星とともに導くことができるか。

 この牡牛座の星は、地球の約2400倍(おそらくそれ以上)ではないかと考えられています。そんな巨大な牡牛座ですが、超高速で楕円軌道を描きながら銀河を周回しているそうです。しかも、観測技術の進歩により、どうやらこの星には、32節にある「子ども」と呼べるような小さな衛星が回っている可能性があることが分かってきたそうです。

 ですから「牡牛座をその子の星とともに導くことができるか。」との聖書の記述が、近現代になってようやく解明されてきたということです。科学がようやく聖書にほんの少し追いついたということでしょうか。

 そのような人類なのですから、神様の問いにまともに答えられるはずもありません。

 神様はこのように、「これらを知っているか」そして「それをできるのか」と問いかけておられます。続いて39-41節に目をとめましょう。今度は世界中の動物が、共存して生きていけるように、あなたは養うことができるのかとの問いです。41節では特にカラスを例に挙げていますが、鳥の話ですよね。彼らが生き続けられるよう、食物を備えているのは誰かと。

 まさに、これはイエス様が「空の鳥を見なさい」と言われ、倉などなくても生きていけるよう、父なる神様が養っておられるのだと教えられたことにもつながりますね。小さな雀でさえ、神様の許可なしには、決して地に落ちることがありません。そうであれば、私たちは生活のことを心配しなくて良いのだと教えられます

 経済的な不安は、ほとんどすべての人に共通する課題でしょう。でも、小さな一羽の鳥でさえ、神様にちゃんと覚えられており、養われていて、そのご計画の中に置かれているのです。そして、私たちは心配したところで、自分の命を1分伸ばすこともできない。かえって、心配し過ぎて寿命を縮める愚かな私たちではないでしょうか。心配して改善するなら、心配して寿命が延びてより健康になるなら、大いにすれば良いと思いますが・・・そうではないですよね。

ですから、思い煩わないで、これまでの恵みを思い起こしては感謝し、主に何もかもをゆだねて信頼しましょう。あれこれ心配するより、人のいのち、救いのことを心配し、神の国を求めましょう。神の国のためにために労する人のために、主が必要を与えてくださらないはずがありません。逆に言えば、私たちが主に信頼して一生懸命働いても飢え死にするようなことがあれば、それはもう神様が定めた寿命のようなものだと受け止めたら良いように私は思っています。そんな風に思うと、案外楽になります。野の花や空の鳥のように、私たちもまた主の養いの中にいるのですから。

 ただし、神様は人間を特別に思ってくださっています。確かにどのような小さな虫にも、尊いいのちがあります。けれども、やはり人間だけが、神のかたちに造られたのです。特別な使命を帯びているのです。動物の生態の話の中で、だちょうの話が登場します。聖書を学ぶと本当に色々なことを知りますね・・・3913-17節  

13 だちょうは翼を誇らしげに羽ばたかせるが、その羽はこうのとりの羽毛のようだろうか。14 だちょうは卵を地面に置き去りにし、これを砂の上で温まるに任せ、15 自分の足がそれをつぶすかもしれないことを忘れている。野の獣が踏みつけるかもしれないことも。16 だちょうは自分の子を、自分のものでないかのように荒く扱い、その産みの苦しみが、無駄になることも全く気にしない。17 神がこれに知恵を忘れさせ、これに悟りを授けなかったからだ。

 このところは、「だちょう」が意図的に愚かに造られたことを語っています。進化の過程で空が飛べなくなったわけでもなく、その途中で知性を失ったなどではない。そもそもの神様のデザインであるということです。飛べないのに翼を与えておられる。そして神様はあえて、「だちょう」に、自分の子を判断できるだけの知恵を授けなかったのだと語られています。自分の生んだ卵を大事に扱う知恵がなく、雑な扱いをし、他の動物からも守れない。それどころか、自分で踏みつぶしてしまうことさえある動物。その産みの苦しみが無駄になることさえ、気にしないほどに無関心・無知であるのです。

 そして、興味深いことに、だちょうの子もドライで、自分の親とはぐれても他の強そうな親に平然とついて行く習性を持っているそうです。それはそれで、厳しい外敵の多い環境で生き抜くのに必要な本能なのでしょう。ただ17節にあるように、神様はダチョウには、あえて「知恵を忘れさせ、悟りを授けなった」のです。 

 ということは、人間がこれほどに愛情をもって子を育て、養うことができ、お互いを丁寧に識別できるのもまた、神様の意図的なデザインなのだと気づきます。様々な感動を与えることができ、感動しながら生きることのできる存在です。神様の存在についても、本能だけでなく、調べるほどに理性的にわかるようにされていくことのできる存在。神様が意図して「ご自身のかたちに似せて」造り、神の知恵や理性を豊かに授けた存在。それが人間です。

神様は人をそのように造られたことの恵みを改めて教えられます。だからこそ「思い上がる」ということも、できてしまうのです。

けれども、これらの賢さを、思い上がるために用いるのではなく、神様を知るために用いることが、人本来の道です。授けてくださった神様の恵みに生きる道ですよね

 神様はこうして、ヨブに問いかけることで、私たちすべての人間のために、これらの問いをもたらしました。このような多くの質問を受けることで、人は自分が何者であるのか、そして神様がどれほど偉大な方なのかを教えてくださいます。

また、人をどれほど愛しておられるのかも、私たちはここから気づかされるのです。 


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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