東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: マルコ10章13-16節 「子どもからお年寄りまで(1)」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/03/28

マルコ10章13-16節 「子どもからお年寄りまで(1)」

 *** 3/26(日)主日礼拝 説教概略 ***

マルコ1013-16節 「子どもからお年寄りまで(1)」


 もう20年ぐらい前のデータですが、大学生等の若者を対象に「理想の教会とは」というアンケートがなされました。クリスチャンだけでなく、ノンクリスチャンの意見も聞いたようです。「理想の教会」の答えとして最も多かったのは「世代を超えたアットホームな教会」ということでした(2位:人生の真理の説き明かし)

 若者が、必ずしも若者だけの交わりを求めているのではないことが分かります。むしろ、普段の生活の中で、世代を超えて家族のように過ごせる場所、安心できる居場所が多くないゆえに、教会にそれを求めているのかも知れません。

 私たちの教会の理念の中にも「子どもからお年寄りまで家庭的な交わりを築く」ということが掲げられています。教会は「学校」や「会社」のようではなく、安心して過ごせる家庭のような場所。楽しいことも苦しいことも共有し、助け合っていく交わりです。

 けれども、理想を掲げるだけではあまり意味がありません。そこに神様のみこころがあると信じて祈り求め、愛をもって互いに献身し合う必要があります。来聖日から新しい年度です。研修生や神学生ご家族をお迎えします。特に神学生はお二人の小さなお子さんがいらっしゃいます。改めて幼い子どもたちと一緒に礼拝することについて、みことばから教えられたいのです。
 今日は特に、子どもたちを教会に招く、礼拝に招くということについてご一緒に教えられて参りましょう。

 

1. 子どもたちを来させなさい

 
13節 さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。 

 イエス様に祝福してもらいたいと願い、人々が子どもたちを連れてきました。ところが、イエス様の弟子たちは彼らを叱りつけました。「なぜ、子どもなんか連れて来るのか!イエス様はお忙しいのだ。」そんな感じではないでしょうか。弟子としてはイエス様のことを思いやってのことでしょう。

 ところが、それは神様のみこころから外れており、イエス様は弟子たちをこそ叱らなければなりませんでした。14節です。 

14節 イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。 

「憤って」とのことばは、かなり「強い怒り」を表現することばです。不公平な扱いに対する正義の怒りを表現する場合などに使います。子どもたちがイエス様のところに来ることを妨げることは、それほど深刻なことだったからです。

 そしてイエス様は、「邪魔してはいけない」ということだけでなく、その前に「来させなさい」とおっしゃっていますよね。13節でも、必ずしも子どもたちが来たかったとは書いておらず、大人が連れて来ています。もちろん強制ではなく、イエス様のもとに来られるよう教え諭し説得したのでしょう。子どもたちは、少し渋ったり迷ったりしても、大人が本当にいいものだ!と真剣に背中を押してくれると前に進めます。実際、うちの二女が洗礼を受ける決心ができたのは、キャンプ講師に背中を押していただけたからでした。本人も信じて洗礼を受けられて本当に良かったと感謝しています。

 この世のすべてを手に入れることができても、まことのいのちを損じたら何になるでしょうとイエス様はおっしゃいました。その子の人生全体、いのちに関わることなので、イエス様は真剣に弟子たちを叱ったのです。

 私自身、イエス様を信じることを周囲の人に止められ、信じることができなかったなら、今頃どうなっていたか・・・。本当に教会のおかげ、神様のおかげで、どれだけ守られたことでしょう。  

 それだけではありません。もし、この人々が子どもではなく、裕福な権力者、地位や名誉のある大の大人であったなら、果たして弟子たちは止めたのでしょうか?まず止めなかったはずです。それどころか弟子たちは、他の人に優先させて、イエス様にお目通りを!と対応したのではないでしょうか。

 子どもだから止めてしまったのです。子どもたちを受け入れていくことは、時に非効率であり、あまり利益にならないとも思われます。このように、ほとんどの事が、大人の事情で決まっているこの世界ではないでしょうか。

 実に子ども好きな方だと思う私も、教会に来る子どもたちと遊んであげる時間を確保するには、非常に勇気がいります。自分の仕事を遅らせなければならないからです。でも、大人の方が「ご相談があるのですが」と来ると即座に対応しようとする自分がいます。

だからこそイエス様はおっしゃるのです。少し前の箇所936-37節に目を留めましょう

マルコ9:36-37  36節 それから、イエスは一人の子どもの手を取って、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱いて彼らに言われた。37  「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。 

主イエス様のお心に従うゆえに、子どもたちを受け入れる人は、イエス様ご自身を受け入れる人なのです。なぜなら、彼らを愛してもあまり「見返りがない」からです。財力もなく、権力もないので利益が得にくいのです。イエス様の愛は、見返りを期待しない無条件の愛です。だからこそ、この小さな者たちを見返りなしに、無条件で受け入れていくことこそ、イエス様の愛に立つことです。神様が喜ばれることです。
また、イエス様は1015節でこうおっしゃいました。15節 まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」 

時々この意味を誤解して、子どものように混じりけのない純粋な心でと受け入れるということだと考える場合があります。しかし、聖書は、人は生まれながらに罪人だと言いますから、幼い子だから罪なき純粋な心だとは言えないのです。教えていないのに、ウソをつくし、わがままになるし、他の人の物も欲します。

ですから、子どものように受け入れるとは、そういう意味ではありません。権力も財力も名誉も持っていない子どものように、富や力によって自分を救わないということ。ただイエス・キリストの十字架を信じることによってです。特に、当時のユダヤ社会では、子どもには何の人権もなく、無価値な小さな存在と思われていました。しかし、そのような人こそ、ただただ神様の恵みにより頼むので、神の国に入りやすいのですよね。地位も力も富もない、そんな小さな弱い者たちを神の国は歓迎するのです。「恵みによる」とはそういうことです。

 

2.皆で助け合い、協力して子どもたちを招く 

 こうして、イエス様は子どもたちを受け入れるように教えました。教会は、子どもたちがいるべき場所なのです。私たちの交わりから子どもたちがいなくなるようなことがあってはなりません。

 ある場合には、礼拝は「小さな子には意味がわからなくて無理だ」と考えます。ところが、彼らは大人よりも感性で感じ取る力が優れています。大人の姿もよーく観察し感じています。大人たちがどのような姿勢で賛美しているのか。どのように祈っているのか。どのような表情・姿勢でみことばを聞いているのか。横で見て、肌で感じているのです。温かい雰囲気かどうか、感じ取っているのです。

 しかし、子どもたちが礼拝に居られるようにするためには、みんなの協力が必要ですね。幼い子たちが礼拝にいる時に、騒がしくなることがあります。集中できないこともあるでしょう。親御さんも、本当に申し訳ないとの思いでいることがあります。それが原因で、教会から足が遠のいてしまうなら、なんともったいない、残念なことでしょうか。

 ですから、出来る限りこの礼拝の場に子どもたちがいられるよう、皆で助け合うのです。 

 私たちが研修生だった時、鳩ケ谷の教会でお世話になりました。子どもがまだ二人の時代。3歳と1歳。そしてこの教会の礼拝堂がよく響くのです。ぐずって泣いたり、声を出したり、静かにさせるのが大変でした。でも、お隣に座った方が、シールをくださったり、助けてくださいました。

 礼拝が終わった後も、私たち夫婦は「申し訳ない」という思いでいっぱいしたが、労いの声をかけてくださいました。「いい子だったね~!よく我慢したね」と。

 あんなにうるさかったのに、励ましてくださるのに驚きました。ものすごく教えられました。誰も責めないどころか、皆さん助けてくれださったのです。そして、それは教会全体として、学び続けてきた姿勢だったと分かりました。

冊子のテキストがありますが、この元になったのは研修先の鳩ケ谷教会のテキストです。だいぶアレンジし、更新をしていますが、ぜひ皆さん読んでください。

後半のお年寄りを歓迎する教会を目指すという部分(それは体の不自由な方も含みます)は、来月半ばにお話しする予定です。子どもたちからお年寄りまで、様々な者たちが一緒に集うために教えられ続けたいと願っています。


お子さんを持っている方だけでなく、お子さんを持っていない方にとっても「教会の子」であるという考えを持って。他人の子ではなく、私たちの愛する子です。

「なぜ、あの親は子どもを静かにさせられないのか?」ではなく、私がどのように助けてあげられるだろうか?と考えるのが愛です。彼らの騒ぐ声や泣き声が、やがて主を賛美する声に変わることを信じ期待して歩むのです。私たちは実際にそれを見てきました。

礼拝中泣いてばかりいたあの子が、絵本や漫画ばかり読んでいたあの子が、喜びをもって賛美し、主に仕える者になっているのです。

16節 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。   

私たちもイエス様にならい、子どもたちを受け入れ祝福したいのです。

ですから、子どもたちが、説教がチンプンカンプンでも、それでも祈られているこの場、みことばが語られ、賛美がささげられるこの場にともにいさせてあげたいのです。それだけで、心が安らぎ、聖さに触れ、愛に触れ、祝福のうちにいるのです。 

 ご一緒に教えられて参りました。イエス様がおっしゃるのです。「彼らをわたしのところにもっと来させなさい。邪魔してはいけない。彼らを抱きしめ、わたしは彼らを祝福したいのだ」と。




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