東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヨブ記40-41章「全能者と取るに足りない者」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/03/30

ヨブ記40-41章「全能者と取るに足りない者」

*** 3/29(水)祈祷会 説教概略 ***

ヨブ記40-41章「全能者と取るに足りない者」

私は最近、このように思うことがありました。自分は無知だったし、経験も足りなかったからこそ、言いたいことが言えた部分があるのだなと。
若い頃は、説教に対する批判的意見も言えましたが、自分がいざ経験し苦労するようになると言えなくなります。無知だからこそ言えてしまうこともあるのです。
箴言1223では「賢い人は知識を隠し、愚かな者は自分の愚かさを言いふらす」とあります。無知な者ほど必要な沈黙を守らず、騒がしく文句や意見を言い、結果的に自分の無知や愚かさを露呈してしまうのです。


ヨブ記もまさに、そのような課題を教えられる書です。知識もわきまえもなく、言い分を並べ立て、神様の壮大な摂理を暗くしてしまうのは誰だ?と問われます。

この40章では、引き続き神様が、ヨブの求めに対して応答しています。

1 主はヨブに答えられた。2 非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それに答えよ。 

 ここで神様は、ヨブのことを何と呼んでいるでしょうか。「非難する者」「神を責める者」です。ヨブは元々、この地上では、誰よりも誠実で正しい者であると紹介されていました。しかし、多くの災いが襲い、自身の病の苦しみが加わり、さらには友人たちとのやり取りの中で傷つき、怒りに満ちたことで、彼の罪深い性質が顔を出してきたと言えます。

 余裕があって、落ち着いた日々においては、多くの人は優しく穏やかに過ごせるでしょう。けれども、忙しさや様々なプレッシャーで追い込まれ、疲れてイライラしてくると、その人の罪深さや弱さが出て参ります。ヨブほどの人でも、神様からこのように指摘される状態になっていたということでしょう。

 どんな人であっても、聖なる神様の前に罪のない人はいません。第一ヨハネの1章で語られているように、「私に罪はない!」と言い切るならば、自分を偽り、神様をも「うそつき」呼ばわりすることになるのです。

 しかし、このようなヨブの姿を前にしても、神様の愛は変わりません。むしろ、ヨブが本当の自分に気づき、主の偉大さと愛とを知る者となるよう、この問いかけをされているのです。 

 最近、ある人が、本当にすばらしい主のお取り扱いをいただいた事を分かち合ってくれました。とても悩み、苦しいところを通りましたが、神様に祈り求め、みことばから教えられていることがよく分かりました。イエス様の十字架の愛に改めて気づかされ、なんて恵まれているのだろうと感謝が溢れていました。大いなる成長を感じ、「いつの間に?」と思わされました。

 主が、試練や失敗をも通して、見えないところでずっと働いておられ関わり続けてくださっていたのだと気づかされ、主をあがめました。

 ヨブも苦しみの中で、神様のことを分かっていなかった自分に気づかされたのです。3節からヨブが答えています。 

3 ヨブは主に答えた。4 ああ、私は取るに足りない者です。あなたに何と口答えできるでしょう。私はただ手を口に当てるばかりです。5 一度、私は語りました。もう答えません。二度、語りました。もう繰り返しません。 

 ヨブは神様から様々な問いかけをもらい、自分が何一つ正確に答えることができない「取るに足りない者」であると気づいたのです。全能者なる主の前には、自分は何も答えられず、ただ手を口に当てるばかりの取るに足りない者だと。自分は無知だったからこそ、神様に議論を吹っ掛けてしまったのだと分かってきたのでしょう。

 ただし、神様はさらに問いかけを続けています。「もう分かったからいいじゃないか?」とも思ってしまいますね。けれど、やはり「まだ」なのです。分かったつもりが一番危ない段階かもしれませんね。

6 主は嵐の中からヨブに答えられた。 

 仕切り直すかのように、38章と同じような言い回しで、再び「主は嵐の中からヨブに答えられた」と語られます。そして、やはり同じようにヨブにこう言います。

7 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。

 背筋を伸ばし、帯を締めなおし、勇士のように私に答える備えをせよと。再びおっしゃいました。そして8節ではこう言います。

8 あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするため、わたしを不義に定めるのか。 

 特に後半の一文に注目しましょう。「自分を義とするため、わたしを不義に定めるのか」との主のことばです。ヨブは結果的にこれをしてしまったのだと言えます。自分の正しさを主張するあまり、結果的に神様ご自身のみこころを否定することになったと言えます。

 ジョージ・ミュラーは、自分の大切な奥さんを天に送った時、告別の説教を行いこう言いました。「もし妻をもう一度連れ戻すことが、この世で最も簡単なことだとしても、私はそうするつもりはありません。」なぜ、彼はそんなことを言ったのでしょうか。どういう考えがそこにあるのでしょうか。

 ジョージ・ミュラーはこう続けました。「神ご自身がそうされたのですから。私たちは主にあって満足するのです。」と。彼のように言える人は多くはないでしょう。でも、神様が最もふさわしい時に奥さんを天に召された、それが最善なのだと彼は心から信じているのです。自分の目の前のことだけでなく、奥さんの体のすべて、心の中のこと、周囲の人々のこと、この世界全体のことを完全に知る神様が、今がベストの時なのだと召されたのです。

 私たちの判断で、自由に人の命を左右出来たら、それこそ必要以上の苦しみや悲惨を生み出すことにもなるでしょう。神の領域に異を唱えることは、自分の方が神様より賢く正しい判断を持っていて、神様の判断が間違いだと主張するようなものなのです。

 もちろん、感情面では受け入れるのに時間がかかりますね。それでも、私たちの及びもつかないところもすべて見極めて、主が最善をなしておられると信じられることは、なんと幸いでしょう

 

 そして、もう一か所だけ目を留めましょう。4111節です。

41:11 だれが、まずわたしに与えたというのか。わたしがそれに報いなければならないほどに。天の下にあるものはみな、わたしのものだ。 

 私は個人的には、この問いかけに「はっ」とさせられたことがあります。自分なりに多くの奉仕をした。伝道もしてきた。献金も忠実に、時には大胆に献げてきた。だからこそ、神様に自分の言い分や祈りに応えて欲しいという思いました。こんなに神様のためにしたのだから、もう少し私や妻に色々と報いてくださってもいいではないですか?と。

 しかし、このみことばによって、私のその思いが高慢である事を知らされました。この世界には、神様が報いなければならないほどに、神様に奉仕し、ささげることができている人などいないのです。

 むしろ、生きている限り、より多くの恩を受けているのは人間の方です。ローマ書11:35-36では、このみことばがまず引用され、その後にこのように補足され語られています。 
すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。」と。

 すべてのものが神から発している。あらゆるものが神様から生み出されていると。私たちの持っているもので、神様からいただいたのでないものが一つでもあるでしょうか。ささげられる奉仕も、献金も、この体も心も、主からのものです。

 詩篇24:1-2 にもこのようにあります。

地とそこに満ちているもの 世界とその中に住んでいるもの それは主のもの。主が海に地の基を据え 川の上にそれを堅く立てられたからだ。

この大切な前提を忘れる時、私たちは思い上がり、自分を神のようにしてしまいます。私たちはどこから来たのか。誰によって生かされているのか。誰によって与えられているのか。この原点に立ちたいのです。

ただし、神様は私たちによって何の恩も着せられていませんが、それでも豊かに与えてくださるのです。

なぜでしょう?

神様の愛は無償の愛、見返りを求めない愛だからです。

ついには愛するご自身の御子イエス様をも惜しまずに与えてくださいました。誰も滅びることがないようにと。だからこそ、自分を神様より上の裁判官にしてはならないのです。この愛、この恵みを感謝して受ける者となりましょう。

 受けて当たり前。赦されて当たり前、救われて当たり前ではないのです。受けるに値しない取るに足りない者への、一方的な愛のプレゼント。これを感謝して受け、これを人々に届ける者とならせていただきましょう。 


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

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