東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 第一ヨハネ2章1-2節「宥めのささげ物となられたイエス」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/04/04

第一ヨハネ2章1-2節「宥めのささげ物となられたイエス」

*** 4/2(日)主日礼拝 説教概略 ***

第一ヨハネ21-2節「宥めのささげ物となられたイエス」

 新しい年度の最初の礼拝です。様々な変化のタイミングでもあります。期待もありますが、不安の方が大きいかも知れませんね。緊張もあるでしょう。
 
 ですから、勝利の主から目を離さないで歩んでいきませんか?主イエス様は言われました。「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33

今週は受難週です。十字架で勝利された主イエス様を見上げて歩んでいきましょう

今日開いているヨハネの手紙。ヨハネがだいぶ高齢になってから書かれたものです。8090歳ぐらいかも知れません。そのようなヨハネおじいちゃんが、後輩の信仰者たちを愛おしむ思いでこの手紙を書いています。ここでも、1節の最初に「私の子どもたち」と書き始めています。ヨハネが救いに導き、育ててきた可愛い弟子たちを思いながら。悩んでいないだろうか。偽りの道に引き込まれていないだろうか。高齢で目も見えづらくなっていたでしょうけれど、心配しながら祈りつつ書いたのでしょう。

そして、その心配のタネは何だったのでしょうか? 罪の問題でした。なぜなら、罪が人を神様から引き離し、罪の責め(罪悪感)によって心も体もむしばまれるからです。 もちろん、罪と向き合うことは私たちにとって楽なことではありません。けれども、罪を隠して生きることは、もっと辛く長きに渡って苦しむことになります。ダビデ王が告白したように、罪をそのままにしてしまうと、心身ともに夏の日照りのように渇き切ってしまいます。

ですから、ヨハネは伝えたかったのです。
罪から離れ、罪の赦しときよめにあって、平安うちに歩める道を。キリストともにある光の道を日々歩んで行けるように!罪に勝利を与えてくださる主イエス・キリストに目を注ぐ道を、みことばから教えられて参りましょう

 

1. 罪から守られる道  主の交わりに身を置くこと
 
 私たちを苦しめる罪に対する勝利の道が語られています。その第一は、1節にあるように、そもそも「罪を犯さないように、罪から守られて生きる」ということです。そのために「これらのこと」を書き送ったとヨハネは言います。

 確かに、ゼロとは言わないまでも少しでも罪の機会を減らせるのならば、自分も他の人々も傷つかずに済むようになりますよね

 では、罪を犯さなくなるためにどうしたら良いのでしょうか。

 「神様との交わり」を持ち続けることだと語られています。手紙の冒頭、13節にこうありました。1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。 他のクリスチャンたちと一緒に、この御父と御子の交わりに生きることが、罪から守られる最善の道です。

 ただ、「罪を犯さないように、罪を犯さないように」と、罪を意識しすぎるとかえって罪に囚われます。スポーツ選手が、ミスをしないようにとそればかり意識が行くとかえってミスをしてしまうと言います。

 私たちも罪、罪と罪ばかりを考えず、いつでも神様を求め、主のみこころに思いを寄せることで、かえって守られていきます。主にある光の交わりにい続ければ、闇は存在することが難しいからです。神様と親しく語り合っている最中には、罪を犯そうなどとは考えにくいですよね。

 しかもそれは、私と神様という「縦の糸」のつながりだけでなく、主にある兄姉たちという「横の糸」のつながりを含みます。私たちはやはり一人では弱いのです。伝道者の書にありますね。

4:10 どちらかが倒れるときには、一人がその仲間を起こす。倒れても起こしてくれる者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。4:12 一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。

 ですから、みことばにあるように集まることをやめず、つながりを切らず、主の名のもとで支え合って歩んでいきたいのです。私は信徒時代(学生の頃)に、教会やクリスチャンの交わりから去ろうと考えたことがありました。

 心は闇の中にいました。孤独がありました。まさに「闇落ち」しそうな状態。しかし、声をかけてくれる人がいました。声をかけ続けてくれる人がいました。倒れそうな時に、起こしてくれる仲間がいたのです。

 決してあなたを見捨てないとの主のことばは真実で、兄姉たちを通しても私たちを引き戻してくれます。それもまた神様のくださる、かけがえのない賜物です。

 私たちの信仰が罪や悪から守られるために、祈り合う交わり、主をともに仰ぎ見る交わりが必要です。弱さも汚れも分かち合える交わりです。主が下さる縦と横の交わりによって罪に勝利していきましょう。

 

2.罪のゆるし キリストの十字架 
 
 罪の問題の解決について、もう一つ語られています。それは罪についての「完全な赦し」があるということです。罪を犯さないように生きようとする私たちですが、なお罪を犯してしまう私たちです。ですから、キリストの十字架が必要不可欠なのですよね。

 自分は大丈夫だとごまかすのではなく、正直に自分の罪を認めて十字架の主に心を向けたいのです。1節の後半から2節にかけてお読みします。 

1節後半 しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。 2:2 この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。 

 主イエス・キリストは、私たちの罪のために、「宥めのささげ物」となってくださったとあります。「宥め」とは、「怒りを静める」という意味です。それはどのような「怒り」なのでしょうか。それは、「罪に対する神の聖なる怒り」だと言えます。罪が私たちを傷つけ、神様との親密な交わりを破壊するからです。

 それだけではありません。家族や友人同士の交わりもまた、自己中心や無関心、愛なき言動で壊れてしまうこともありますよね。

神様は、私たちを本当に大切に思っておられます。だからこそ、関係を壊してしまう罪に怒りを燃やされるのです。私たちを傷つけ滅ぼす罪に、愛の怒りを覚えておられるのです。私たちにも正義の怒り、愛の怒りがありますよね。不正や残酷なこと、汚いことを見れば怒りを感じます。小さな者や大切な人が傷つけられれば「なんてことをするんだ!」と愛の怒りが沸くのです。

これらは私たちが、神のご性質に似せて「神のかたち」に造られたゆえなのです。神様の場合は、その完全な正しさと完全な愛をもって、罪を罰せられます。ただ、私たちは、神様の聖なる怒りを受けては、耐えることができず、死をもって償うしかないのです。神の圧倒的な聖さの前に、あまりにも罪深く汚れているからです。

しかし、それゆえに神様は、ご自身の罪なき御子イエス様を遣わし、罪人の代わりに罰せられたのです。十字架の上で、私たちの身代わりとして罪の罰をお受けになったのです。それが「宥めのささげ物になられた」ということです。神の前に正しいイエス様が、神の聖なる怒りをなだめてくださいました。ご自分のいのちの注ぎをもって。十字架の血潮をもって。

1節の後半では、「私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。」とあります。イエス様が父なる神様の御前で、私たちを弁護し「彼らに罪を負わせないようにしてください」ご自分の義を提示してくださったのです。義というのは、人の正しさではなく、神の基準において正しいということです。

イエス様だけが聖なる神様の前に、完全に正しいお方なので、ご自分の義をもって、私たちの前に立って弁護し、身代わりにさばきを受けることができたのです。私たちはこの方を、自分の罪からの救い主として信じるだけで罪赦され救われます。

罪なきイエス様、義なるイエス様が、私たちに代わって苦しんで下さいました。

愛する弟子に裏切られ、見捨てられ、人々の妬みをその身に受け、自分の生活のことばかり考える無関心な群衆の手のひら返しを受けました。裁判とは名ばかりの場で、ののしられ、暴力を受け、肉がそがれるほどのムチを打たれました。それでもご自分のためには一度も弁解をせず、ののしり返すこともしません。

ただ、愛する私たちのためだけに、弁護者・とりなし手として、祈ってくださいました。「父よ、彼らをお赦しください」と。服をはぎ取られ、おそらくほぼ全裸で十字架につけられる刑でした。両手両足には太いクギ。激痛の中、自らの身を支えなければ、呼吸ができなくなる苦しみ。

少し前に二男が肺の気胸で入院しましたが、本当に呼吸が辛くて苦しそうでした。実は長男も小学生の頃、喘息の発作で呼吸困難に。夜に病院に駆け込みました。家に帰ったら死にますよと言われ即入院でした。呼吸器の異常は本当に苦しく見ていても可哀そうになります。また、死に直結するものなのだと思い知らされています。

十字架刑もまた、足を踏ん張り、体を支えないと呼吸ができなくなるものです。痛みと呼吸困難を死ぬまで繰り返す刑です。あえて人としての肉体の苦しみも担い、どんなにか苦しかっただろうかと思わされます。

それなのに、主は、その苦しみをもたらした張本人たちを最後まで愛してくださいました。罪ある私たちの救いを心から願い、そのために苦しむことを喜ばれ、満足し、成就したとおっしゃった。なぜ、何一つ悪いことをしていないイエス様がこの苦しみを通る必要があったのでしょう。罪人を招き、病の人を癒し、救いの希望を与え続けたお方がなぜ・・・。

あなたをどこまでも愛しているからです。あなたを罪の苦しみから救い出すためです。

あなたがイエス様を心に迎え信じて赦され、神との交わりの中で罪から守られるため。

 私たちを苦しめる罪の世です。罪深いことばや態度で傷つけられます。

 でも、十字架で愛を示された主に目を注ぎましょう!そこに罪への勝利があります。

「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33




 


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