*** 4/5(水)受難週祈祷会 説教概略 ***
マタイ26:69-75 「ペテロの涙」
イースター礼拝を目前に控え、いかがお過ごしでしょうか。明後日が受難日ということで、主の十字架を思う時、少し重さを感じながらも、感謝の日々ですね。
先日の礼拝では、私たちの罪へのさばきのために、「宥めのささげ物」となられた主イエス様に目を注ぎました。その十字架への道をすぐそばで見守った弟子がいました。そのうちの一人、ペテロの姿に目を留めつつ、主の十字架を仰ぎ見て行きましょう。
イエス様が逮捕された夜、ひそかに後を追ったペテロの姿がここにあります。
69節 ペテロは外の中庭に座っていた。すると召使いの女が一人近づいて来て言った。「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね。」70節 ペテロは皆の前で否定し、「何を言っているのか、私には分からない」と言った。
イエス様の一番弟子であったペテロは顔もわれています。大祭司邸の中庭に座っていると、女中のひとりがペテロに気づいたのです。しかし、ペテロは反射的にそれを否定してしまいました。彼はウソをついたということだけでなく、愛するイエス様を裏切る行為をとっさにしてしまったと言えます。
さらに入口付近に行くと、また別の召使の女性が彼に気づきイエスと一緒にいた人物だ!と指摘し、ペテロは72節にあるように再び否定します。
72節 ペテロは誓って、「そんな人は知らない」と再び否定した。
さらに、同じことが三度起こります。73-74節です。
73節 しばらくすると、立っていた人たちがペテロに近寄って来て言った。「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる。」74節 するとペテロは、噓ならのろわれてもよいと誓い始め、「そんな人は知らない」と言った。
三度目は、もはや「嘘ならのろわれても良いと誓い始め」、イエス様を知らないと否定しました。ちょうどその時、鶏が鳴きました。74節の最後から75節にかけて。
すると、すぐに鶏が鳴いた。ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた。
ペテロは自らの罪深い裏切り行為に気づいたゆえに、激しく泣いたのです。自分は主を愛していて大丈夫だと思っていたのに・・・。十字架の前夜に主の弟子ペテロが取った行動、その姿がこれでした。人の弱さです。
ただ、主の十字架は、まさにこのような者のためにあるのです。ペテロはこの失敗を主の愛によって拭われ、本当に変えられ用いられていきました。
私たちはここから教えられたいと思います。
1.私たち自身の弱さ、罪深さを受けとめること
ペテロは少し前に言いました。同じ26章の35節です。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」と。このことばは、イエス様が「あなたはわたしを三度知らないと言います」とのことばへの反論でした。他の弟子たちも、ペテロに追従し、同じように言いました。
しかし、彼は自分に危険が及ぶほどに、主との関係をより強く否定していきました。三度目の否定は嘘なら呪われても良いとさえ。もはや追い込まれ、自分を守ることにしか力を注げない状態になっていたことでしょう。このようなペテロの姿を見て、私たちは彼らを「情けない弟子」だと思うでしょうか。
けれども、私たちにも、同じような弱さがありますよね。私たちが同じ状況に置かれていれば、ペテロより早くに逃げてしまったかも知れません。彼の姿の中に私たち自身の弱さを見つめたいと思います。むしろ、私たち自身も「情けない弟子」であると認めたいのです。それこそ、彼が自身の失敗を後世に残した理由の一つでしょう。主がこの出来事を福音書に含め、私たちの時代に残された理由の一つでしょう。
イエス様はペテロに対してこう叱ったことがありました。
「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マルコ8:33)
まさにペテロは、主イエス様を愛しているつもりでしたが、最も愛していたのは自分自身だったと気づかされたのです。人は罪人であり、変わりやすい不確かな存在であるということ教えられます。
決心したことが揺らいでしまう弱さ、私たちにもあるのではないでしょうか。しかし、主イエス様はこのような不確かで、罪深い私たちのために十字架に歩まれたのです。
2.主のことばによって気づかされ、立ち直る
ペテロは恐怖心から自分を必死に守ることに終始してしまいました。私たちにも似たような状況が起こります。隣人を思う余裕がなく悲しませてしまうのです。しかし、この時、ペテロが我に返ることができたのは、鶏の鳴き声のおかげではなく、主のおことばのゆえでした。この気づきは、主のおことばによるものでした。イエス様のこのみことばによって、自分の今の姿に気づき、はっとしたのです。
主の声が私たちの目を覚まさせてくれることは本当に幸いだと思うのです。
主イエス様は前もって、彼のためにことばを伝えていました。ルカの福音書22章32節
しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。この罪のゆえにペテロが倒れ信仰を失わないように既に祈っているとの主。
主はペテロのために信仰がなくならないよう既に祈ったと言うのです。「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」とも言われました。この「立ち直ったら」という言い方は、付帯状況という文法用法。それは「もし立ち直ることができたら」という可能性の意味ではなく、立ち直ることを前提にして、それをご存知の主が「立ち直った上で力づけてあげなさい」という意味です。
主はペテロがつまずくことも知っていましたが、そこから必ず立ち直れることも知っておられたのです。この後、ペテロは復活の主と出会い「わたしの羊を牧しなさい」との使命を与えられました。失敗をし、裏切ってしまったにも関わらず。実に、このような過ちを犯す者が、そこから立ち直って、主に用いられていくようにしてくれるのが、キリストの十字架なのです。
十字架を仰ぎ見る時、そこに赦しがあります。自分の愚かさに涙したペテロだからこそ、この赦しの大きさが本当に身に染みたでしょう。謙虚な姿勢で主からの語り掛けに心を開くことができたことでしょう。
そして、それゆえに、彼は自分のこの恥ずかしい行為を記録として残したのではないでしょうか。おそらく本人が後に仲間に告白したのでしょう。今日のみことばの場面は、ペテロにとって語るのも恥ずかしい大失敗の場面、情けない場面でしょう。本来ならば公表したくない「恥」であったのではないかと思います。
しかし、ペテロはこの自分の大失敗を隠さなかったのです。彼が自分のこの罪深い行動を隠さなかったのは、この出来事を通して多くの人に伝えるべきメッセージを持っていたからです。
主はこのような愚かな罪深い者をも愛し、大切な使命を任せ、用いてくださるのだと彼の証しが語っています。私たち自身も、成功美談ではなく、愚かさ弱さを語れる者となりたいと思います。主の十字架ととりなしがあるゆえ、私たちの弱さも歪みも、すべてひっくるめて用いてくださる主に任せて。 それらが用いられて、人々の気づきや励ましになるなら、喜んで弱さを誇りませんか。私たちの弱さのうちにこそ、神の力が働くのですから。
十字架を仰ぎ見ましょう。私たちの弱さ、臆病、様々な歪み、足りなさ。それらをすべてご存じの主が、「あなたは私に従いなさい」と語りかけておられます。